「ローマの白い羽」物語第三章

このQ&Aのポイント
  • 物語第三章「ローマの白い羽」には、さまよう者の心に灯りをともすことで時の流れに気づくことがメッセージとして込められています。
  • 物語は実在する男子プリキュア、キュアミカエルの活躍を描いており、彼女の使命と存在意義を感じさせます。
  • ローマを舞台にした物語では、古代社会の動揺やキリスト教の興隆、そして新約聖書の意義が描かれています。
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「ローマの白い羽」物語第三章

さまよう者の心に癒しの灯がともるとすれば、それは時の流れに気が付くことだろう。 今はただ、なのもかもが失われていることに気が付くだけでも、君たちは生きていて、そして時は流れる。 実在するする男子プリキュア。 キュアミカエルだ。 ユダヤの人イエスはユダヤ人の人間確立のために働き、奴隷に反逆をおこさせる滅んだ国の王として処刑された。 このローマの横暴はローマ周辺の古代社会に大きな動揺をおこす事件だった。 イエスの志を胸に秘めた者たちは、奴隷解放のためにローマ領内に散っていった。 時が流れ、新約聖書成立期には、原始キリスト教は10宗派、二宗派は苦渋を農奴達と分かち合い、奇跡のために今もイエスの志のために身のすべてをささげつくしていた。八宗派は「野党八衆」となりローマの横暴に横暴で答えることを口実に略奪を繰り返す山賊だ。 ローマは信仰心を逆手に略奪を正当化する古代の亡霊に困惑し、キリスト教公認を餌に暴力組織の懐柔を図る。 その契約書が新約聖書だ。 穏健派と束ねることで治安対策とした。 イエスの意思はこの使徒の末裔の取引で絶える。 そして裏切り者の宗教になった。 東洋で言う仏陀に相当する強力な伝道師がただ一人が行った過去の波乱を教訓に、帝国を脅かす古代王への恐怖から、新約以降のキリスト教徒は勅命を執行する。 「イエスに似た者を見たならば皆殺しにしろ」 今回は哲学ネタ文芸作品です。 読書感想文をお願いします。 本来は突っ込んだ哲学の研究も可能でしょうけど、おっかなくて皆さんはこの拷問にひるんでしまうと思いますので、無理しないでください。 ーーーーー はいはい、同一質問をいったん削除して再掲載です。 日本人でも普通に怖いこの精神爆弾には誰も立ち向かえなかった模様です。 困難というのは逃げることを考え出すと、常に逃げて生きることになる。 「死の影」であれ「悪魔の予感」であれ、戦いを挑む勇猛さでぶつからないと克服できません。 踏み越えたその先に新たなる英知を見つけるといいでしょう。 私は長らく日本人にとって滅亡伝説であるキリスト教は深刻な疫病であるとワクチン開発について思案してきました。 このテキストが解毒のためのワクチンの中核だと思って質問しています。 西洋人は外国を踏査してその国の宗教や風俗を博物学的に研究していますが、そもそもキリスト教に同一手法を当てはめると今回のテキストのようになります。

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.7

最後にしますが 次のように説明することも出来ます。 【Q:イエスは 犠牲にされたあと 聖なるものとされたか】  ~~~~~~ https://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7460587.html  《第三項排除――犠牲を作り出す――の理論》があります。  自分たちの集まりの中から 《異質〔と見なした​者〕を排除する》といううごめきについてです。  今村仁司が理論づけました。『排除の構造――力の一般​経済序説』(1992)です。    この理論とそして その中でイエス・キリストがその排除された第三項であるという見方 これらについて問います。    § 1 まづ人には《承認欲望》があると言います。  人は 存在としてまたその人びととの関係として 社会​的である。しかも主観は 独立した歴史知性であるゆえ ​自由な関係を希求する。しかもその自由の実現を 特に社​会集団としては まちがって追い求める傾向があると。  簡単に言うならば 集団の中の一人だけを例外つまり除​け者にして あとは互いにひとしく自由や平等をたのしむ​といった傾向であり むろん間違った道筋であるというも​のです。  一人ひとりは独立した主観であっても基本的に人間は ​社会関係的な存在であるからには 互いによる承認を喜ば​しいものとして受け取る。人からみとめてもらえれば う​れしい。そのときややもすると この承認を 自分から ​追い求めて行く傾向を持つ。たとえ一定の一人の人を除け​者にしてでも。・・・  § 2 承認欲望が 模倣欲望をうながす。  この承認欲望が衝動のごとくにさえおのれの身にはたら​くと 《みんなと同じでありたい願望》=《模倣欲望》を​持つ。みんなと同じであれば 安心するという習性。つま​り 承認されていると思うことがたやすくなる。  そしておそらく この模倣が世の中全般に行き届いた段​階でも その一様性つまりは《全員による同じ歌の大合唱​》という情況だけではまだ 相互の承認が完成したとは見​なさない。こういう気難しい一面もあると言う。  § 3 模倣欲望は 承認欲望が満たされていちど安心したの​もつかのま なおまだ不安が潜んでいるようなのだ。  そこで これなら安心しうるという一定の判定基準を持​とうとする。  この誰れにとっても見やすい共通の基準とな​るものが 《第三項》である。具体的には 《のけ者》と​言えば早い。  除け者を除け者とする同じひとつの態度を共有するなら もう何が来ても安心だということであるらしい。  § 4 第三項とは みんなから隅へ追いやられるものである​。  追いやられ仲間ではなくなるという意味で 第三項と称​される。  このときその〔小単位としての〕社会は 《一》対《他​の皆》という構図をつくる。《一》となった第三項は た​しかに《除け者》として扱われる。  つまりは第三項を皆で排除する構造が出来て初めて 人​としての互いの承認が実現するというわけだと言います。そうしてこそ​ 人びとは安心して 安定した《仲良し》状態となり 《秩​序》を楽しむと言うのだそうです。  このような傾向を人類は 悲しいかな 残念なことに持​っているのだと。  § 5 もっとも そもそもにおいて《自由》を前提していた​ように その自由への変身を人びとが成しうるとも説いて​います。  それは 第三項やあるいは《異者》の 受容をとおして​ わたしたちは獲得することができるとも言います。  また 模倣欲望を実行している最終の過程で その互いに互いを模倣するという《流行や ファッション》​の現象においてもその反面にはつねに起こると思われるように それつまり 《みんな​と違いたい願望》が これもじつは同時に はたらいてく​れるとよいし はたらくだろうと考えられてもいます。  非模倣ないし反模倣つまり みんなと違っていたいとい​う欲望 そしてそれと並んで 《異者》を受け容れるとい​う行為 これらによって 自由への変身を人びとは勝ち取​れる道はのこされると。  § 6 排除された第三項は 歴史的にキリスト・イエスであ​るとも言い あるいは 資本主義社会における貨幣のこと​であるとも論じていました。  第三項は それがいわば見事な排除であった場合には ​排除し切ったあとで ぎゃくにそれを人びとは《聖化》す​ると言います。  人びとからは呪われて去ったと見なされたその除け者を​ 今度は排除の成功のあとにはぎゃくに偉大な生け贄と見なし それに聖性を付与する。  それに​よって なお人びとは 安心するというその仕組みなのだと​。  つまり 十字架上に去って行った者を 絶対の聖者として こんどは一転して崇めるようになるのだと。  したがってつまり今度は 除け者の第三項を《聖なる第三項》として み​なであがめる。  このことを通して あらためて集団ないし​社会における秩序と安寧をたしかなものにするのだと。人びとは安心するということらしい。  たとえば菅原道真は 聡明で真面目な人間だったらしくしかもワケもなく左遷されたらしく  その死後には 天神様として生前における《のけ者の第三項》扱いが《聖なる神》としてまつられるというからくりであるらしい。    § 7 言いかえると イエス・キリストの事例に見られるような《​聖なる除け者(第三項)》といった扱いは これも まち​がいであると考えられるのに かなり有力なかたちで続けられる。  なぜならそこでは 死後に一たん評価がひるがえって《聖なる者》と見なされるようになったあとでは この《聖化》――つまりは そういう通念ないしクウキ――に対してもし否定するような動きがあったなら今度は​ あたかもすでに条件反射のごとくに 反動のチカラがは​たらくということらしい。  前からもうしろからも オモテからもウラからも 《第三項排除》の歴史は 完璧を期してつづけられる。  反動のチカラは 出る​杭を打つとなって現われる。つまりその――今度は 聖化されたイエスを悪く言うかたちで――新たに現われた異端分子を やはり第三項​と見なしてその排除にかかる。  異端分子が 人びとの《心の――じつはただうわべにおける心理的な――安心と安定のみなもと》としていだかれたキリストなる観念の共同に ただ否定的なだけではなく 真っ向から敵対するかたちとなり ひとつの勢力さえ形成してきたときには 当然のごとくそれを 単に除け者とする手段では間​に合わなくなれば 明らかに迫害や戦争にまでも発展させる。​ときに社会はこぞって容易に その戦争に飛びつくことができる。  § 8 《自由への変身》は 異者の受容によるか?  ひとりの偉大な《聖なる者》をいただくひとまとまりの社会​ これも じつは そのまま間違いである。  その《聖なる者》をいただくか否かで区分した規定じたいがすでに 除け者をみづから作ろうとしている。ただちに排除しようとして 異端分子の起きることを待ち構えている。  だから他方で《ひとと違っていたい》という欲望においては 外の異者を受け容れよと言うのであるが おそらくそれ​は――その今村理論に逆らってでも―― まだコトの本質には​迫っていないように思われる。(異者の受容そのことが わるいわけではない)。  内外の区別ということ自体が そしてそもそも《偉大な​る聖なる第三項》をいただくという方式じたいが どこま​でも除け者を作り出そうとする模倣および承認の欲望のな​せるわざである。世に言う《宗教》なるものの何たる自己欺瞞 !  § 9 どこまでも《話し合い》によるしかない。  模倣は 反模倣の動きがあるように 安心感のよりどこ​ろではない。承認されたいという欲望は おそらく強いの​であって 人間にとっては 或る種の仕方で根源的なものであるかも分か​らない。  ならば とことん互いに話し合うことではないだろうか​?  話し合いによるしか道はないのではないか?  仲間意識の感覚 あるいは それの判定の基準は あく​まで一人ひとりのこころにある。ここでは 《主観》が主​役である。あてにならないおのおのの主観が それでも 主役である。  ならば互いに だめでも話し合う。それでも話し合う。​いやでも話し合う。(ただし 待ったなしの障害があると​きには 別である。相手の状態が 話し合いに耐えない様​子であるなら しばらくは無理である)。気長に話し合う​。もっと話し合う。まだまだ話し合う。もういやというほ​ど話し合う。 ~~~~~~~~~~~~~~~

Flareon
質問者

お礼

「イエスは愚か者」「猫マタギ」これが私の立ち位置でキリスト教徒ではないんだ。 というか極めて苦手意識が強い。10代のころからだ。 でも、今回のあなたの仕上げ分で、総括すると信仰としてイエスにいかなる思いが傾けられていたかは、理解できる部分が多い。というよりも信じている人の中で信用できる人は今でもあなたくらいだよ。 ただし、事実という根拠に信ぴょう性がある私の見解のほうが、現代的な普通の人の「信じる」を揺さぶりやすいんだ。 毎度おなじみのSMショーだよ。

Flareon
質問者

補足

イエスと悪魔のチキンレースは10年以上の付き合いであなたはそのテキストを過去にも2~3度引用した。精霊伝心バトルについてわたしも習熟していなかったし、世麗美なる存在は伝心状態でも私だけが承知していたから、人格浸食を伴う心理における客体の成立に私は無頓着だったんだ。今思うと正当な手続きで他者の心に宿らない精霊の姿をしない、他者への思いの傾け方が、内容を問わず悪意で正当な手続きで人と人とを結ぶ人間の成立とかけ離れている。2001年の滅び宴当初、何かそのイエスのチキンレースみたいなのを葛藤していたけど、臨死体験の実験で殺人罪を突き付けることで、悪意を判別していた模様だ。こういうのだと人の情動の交流だけの話題だけどね。

その他の回答 (6)

回答No.6

では 次の説明をどうぞ。 【Q:イエスのついた大嘘】 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ https://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8966288.html  イエス・キリストの大嘘について どう思いますか?  (あ) ナザレのひと・イエスは ヨセフという父親とマリアという母親とから――むろんその交渉をつうじて――生まれたふつうの一人の人間であったわけですが 自身はそうであると同時に(つまり 人間であると同時に) 神の子でありみづからも神であると言ったのです。――これが ひとつのウソです。  (い) もっともこのウソのからくりについて 人びとが納得の行くように説明することも出来ます。  つまりは 何のことはない 例のブッダター(仏性)というあれです。アートマン(霊我)でもよいわけです。この神の霊が 人間にはやどっているといった・人びとの常識にまで成った想定の話を少し拡大して イエスは 《わたしが その神の霊である。つまり ブッダターである。つまり アートマンである》と言ったわけです。  (う) すなわち ふつうは人は 神の霊であるアートマンやブッダターなる霊を わが身と心とにやどす・つまりそれは 分有するということなのですが イエスの場合は 分有ではなく 自分がその神の霊そのものであると言ったのです。  (え) すなわち イエスはふつうの人間であると同時に その身と心〔と非思考の庭〕とで百パーセントが神の霊であると言いました。――これが 第一のウソです。  (お)第二のウソは 神は どんな名であろうと全体として ただひとつであると言いました。それには ひとつの手法として 十字架にハリツケになって そのまま去って行くというかたちを採った。これによって 神という神は すべてひとつであることが 確認された。  (か) なぜなら 神である(=キリストである)イエスが その十字架上から もしおまえが神の子なら降りて来いとなじられても 降りて行かなかった。降りて行ったなら それは おまえが神であるから出来たことだ 神の奇蹟などは おれたちにはお呼びではないと人びとは思い言い合って おしまいになる。ゆえに 奇蹟を起こさなかった。  (き) またもしただ人間としてハリツケに遭って死んだというだけなら それは せいぜいよくやったな がんばったぢゃないか おまえのことは覚えておいてやるから 往生しーやと言われておしまいである。そうではなく 神がハリツケにされたのである。と語ったわけである。これが 第二のウソだ。  (く) このウソによれば 人びとは 笑おうが泣こうが とにもかくにも 元気が出る。ハリツケのイエス・キリストを見れば ひとは元気を取り戻す。ということになっちゃった。――これがウソの効用。  (け) しかも やがては 名の違う神どうしのケンカは もう用無しとなるはずである。そのために 大嘘をついた。イエスという男。   宗教のオシエは どうでもよい。のです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

Flareon
質問者

お礼

ローマの策略でさ、 祭壇に処刑台を突き刺した「神よ死ね」という祭礼を確立して、奴隷は勝利したと歓喜した信仰したものに対するキリスト教会の、皮肉で残酷な権力掌握から始まる物語の事なんだろうさ。

Flareon
質問者

補足

悪魔的で非常に不愉快なんだよ。 キリスト教徒は何も知らないで、「神よ死ね」と祈る。 高笑いて仕込んだローマ公認だったんだろうね。 本来の原始キリスト教にはイエスを追悼するために紀元前の葬送の儀式を継承した祈り方をしていただろう。それが、本来と真逆に反転したんだよ。

回答No.5

 ★ (No.3補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ イエスは死んだ。 そうさね、 人は皆死ぬ。 例外はない。 この事実に目を背けて生きていることこそ、 死に続けることだ。 皆さん、死人ですよ。 死の儀式撤廃が主題で、キリスト教は重点課題どころか、できれば 避けて通りたい厄介ごとだよ。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆☆ 【Q:イエスとアクマ】 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ https://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8444147.html   キリスト・イエスは 要するに 人間のチカラで戦わなかったのだと考え られます。 だから 十字架上に去って行ったあと 人びとの心に復活した。 話の都合じょう悪魔という言葉を出せば 悪魔は その十字架じょうの死 の淵までは よう ついて来なかった。   それまでは イエスと同じ足取りで同じ軌跡をたどっていた。 イエスが何をするか その行動を追跡していた。 ハリツケの寸前にまで影のごとく寄り添って来ていた。 ところが 死の淵にまでは そのみづからの能力によってついて行くこと が出来なかった。 それでこそ悪魔であった。 すでに死んでおり あらゆるものを否定し死にみちびく親分である悪魔も  自分がふたたび死ぬことは 出来ない相談であった。 もしそうすれば 即座に一たんよみがえって ふつうのまともな存在とな る。と思ったとたん 中から炉心溶融を起こして溶けて行ってしまうとち ゃんと知っていた。 ゆえに イエスの死の淵にまではもう よう来なかった。 去って行ったイエスに度肝を抜かれた。 よって それまでに罪を犯した者どもを自分の胃袋の中に抱え込んでいた のが すべて吐き出さざるを得なくなった。 文字通り アクマは 腑抜けになったのである。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

Flareon
質問者

お礼

その話は前にも聞いたけどよくわかんないんだよね。 伝承としてあるとすれば、他者から向けられた悪意が心理学的な客体として内包されていたという事だろう。 というか、書きながら思い出した。 2001年8月10日「滅びの宴」死に相当するというのを突き付けられて、確かにそんな大騒ぎもあった。私が悪魔と和解する過程の一つでだよ。

Flareon
質問者

補足

「ローマの白い羽」はパンツ脱がしたら通称ラファエルという事らしい。ミカエルの時もそうだけど、自我存在と存在の定義が違うので明白に確認するのは同質化可能な世麗美だけで、実は私もよく知らないんだ。アンノウンコード リッチモンドスターとは別だ。そちらは背負った宿命が大きいらしくてこづっている。はっきり言って第三次世界大戦関連だ。それから別にエントリーした、ウリナルがイエスの慰霊にもっとも心を配る「イエスの乳母」であり「屈服させられた天使」とでもいうようだ。激しい中二病で疲れるよ。

回答No.4

ドラえもんの声優が変わったとはいえ、 大晦日のドラえもんスペシャルが池上彰の番組に片野は ショックというか、池上彰はドラえもん波なのだろうかと まあ凄い人なのでしょうか。それだけ。 羽鳥アン徒から会下は関係ですよね。

Flareon
質問者

お礼

親戚にチビがいるけど、ドラえもん人気は健在の模様だよ。 一緒にアニメを見たけど、記号的な漫画系の文法に独自のパターンがあるようだ。 漫画は絵だと考えるといけなくて、へのへのもへじを書くと人の顔に見えるのと同じことで、文法を理解しないと読めない象形文字だと考えているよ。

Flareon
質問者

補足

ローマ教会の様式は、ローマ帝国時代に現在だと明白な手品で、キリスト教承認が、キリスト教徒に神を呪わせる礼拝様式を定着させた政治的なことだよ。 帝国的残忍さだ。 丸見えじゃないか。 イエスを殺し続けるのが現在も生きるローマ帝国だ。 まあいい「ローマの白い羽」よ。 解放されるだろう。

回答No.3

 No.1です。  たまたまこちらの哲学カテを覗いてちょっとじっくり読んでしまいました。  そうとう力の入った議論だったので しかしながら イエス・キリスト論 としては 一面的なものになっていると捉えました。  そして ひとことを寄せました。  ゆっくり受け留めてください。

Flareon
質問者

お礼

ありがとうね。 そうだね、ゆっくりとだ。 もともと苦手なこれ系に取り組んだ心労がすごいんだよ。 「イエスは愚か者」私にはこの見解しかないよ。

Flareon
質問者

補足

言っておくと、愚か者と違ってこ残酷酷な宣告に正義を確信しているんだよね。 きれいごとは大嫌いだよ。 イエスは死んだ。 そうさね、 人は皆死ぬ。 例外はない。 この事実に目を背けて生きていることこそ、 死に続けることだ。 皆さん、死人ですよ。 死の儀式撤廃が主題で、キリスト教は重点課題どころか、できれば避けて通りたい厄介ごとだよ。

回答No.2

連日パソコンが重すぎな尾ですよ。 女子プロレスラーが死んだのがコロナウ重大なニュースらしく 全然無知な尾ですが、イルスよりも 二十二歳だそうですが 都立高校は来月から始まるようですし、 高校生レベルで推移し英領ですが、 緊急事態宣言も解除sれるゆですし、 今後の天蓋が予想できないですね。 最近は自動運転がいつごろ慈雨用かされるのkが 気になった尾ですが、まだmだ難しいのでh層化。 二つ画像を並べて右側が立ち向かうべき対称な尾でしょうか。

Flareon
質問者

お礼

君の歯の食いしばり方、いつもありがとう。 ワクチンはこれが中核だ。 解毒の副作用は精神爆弾だよね。

Flareon
質問者

補足

暗黒の救世主「最速の臆病者」 「黒き明星」に続き、ようやく全うした。 ガタガタ言わせる拷問で、後始末はまだしばらくかかるだろう。 ここ数年、きわめてつらかったよ。 もともと私にはこの系統に苦手意識が強いんだよ。

回答No.1

 横入りみたいになりますが ひとこと。    ▲ カエサルのものはカエサルに 神のものは神に。  ☆ という視点が 抜けています。よ。  つまり カエサル関係のみのご議論です。

Flareon
質問者

お礼

難解だからご意見は後でじっくり検討するよ。 よくぞ踏み込んできたものだよ。 私はこの掲載をした束の間、燃え尽きたようにすがすがしい。 これで全ての天使が隷従階級から解放される。 呪いとあやまちを癒す「ローマの白い羽」よ。 やあ、やあ、ここまでするキチガイは父親しかいない!

Flareon
質問者

補足

5番の後ミカエルの時は「死ぬ、死ぬ~」に巻き込まれて蘇生に2年半くらいかけた。 ローマの白い羽は、ミカエル復活宣言を出した昨年クリスマスころから半月以内くらいにエントリーしてきた。ウリナルも同時期でアイツはみっともなかった。 リッチモンドスターは係争歴7~8年くらいになるかな。一番縁が深く世麗美はリッチモンドスターの仕事の肩代わりもしたことがあるんだよ。

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    イエスの本来の素性はユダヤの聖職者です。 奴隷階級のユダヤ人のためにイエスは生きました。 奴隷は家畜です。 しかしその奴隷が信仰を獲得すると、信仰心ある人が尊敬と敬意でみられる現代と同じで、人間として扱わなければなりません。 それは、奴隷の所有者には不利益です。 したがって処刑されました。 原始キリスト教はこのようないきさつの元にローマの横暴に対する民権運動のような事柄として、ユダヤ人以外にも波及していきました。 この当時、キリスト教徒はイエスを理解してイエスと共に生きていた。 打倒ローマです。 そして、新約聖書がすべて覆した。 ローマの懐柔工作により、新約聖書が編纂されイエスの意志は掻き消えた。 新約キリスト教徒にはイエスは理解できません。 そして、明確な信仰心がないのです。 新約以降のキリスト教徒の改変された予言の最終目的は、最後の審判です。 その内訳は、原始キリスト教時代の志である、「ローマ滅亡」そして新約キリスト教がローマとの取引で獲得した「キリスト教自らの根絶」この二つのせめぎあいで双方を実現するのが予言の完成です。 したがって、キリスト教徒の祈りの内容は「神よくたばりやがれ」です。 と、言う考察をしてみました。 いかがなものか読書感想文をお聞かせください。 私はこれらの事柄は、西洋人は博物学などの手法で外国の文化の素性を考察しますが、同じ手法を西洋そのものにあてはめると、このような形になるという、中立的な立ち位置で考察していまして、みなさんの宗教や信仰には何ら意見を持ちません。

  • ローマ異説

    やがて来る者は、やがて去る者と、束の間すれ違う。 その刹那に、二人はいかなる言葉を交わすのか。 暗黒の救世主、「最速の臆病者」だ。 私は、京都で開発されたイケニエシステムのプロトタイプだ。 しかし直接のシステムによる被験者ではない。 境遇が同じヨーロッパの妖精さんとお友達であり、第三次世界大戦の成り行きは、私が「精神破壊用絶叫兵器」を鹵獲した過程を参考にするといいだろう。 さてと、ユダヤの人イエスの事件は古代に大きな波紋を引き起こした。 イエスの意志を継ぐ運動は当初は教科書をユダヤの聖典に置いていた。 しかしだ、新約聖書成立で完全独立した宗教として発足することで、むしろイエスの意志に対する裏ぎり者の宗教になった。 ローマが懸命に否定するそうした、キリスト教の原点に関しての発掘が必要だ。 世麗美は、押し寄せる殺人鬼集団相手にその理念をすらすらと軽やかに観念語で読み上げて退ける撃退をしたのだが、その理念の中身は私も理解できる人間語ではなかったから、研究課題なんだよ。 エドガーケイシーと同一手法で獲得したので、埋没史実か現存史実か不明だが、新約聖書編纂時期にローマ領内のイエスの意志を引き継ぐキリスト教の原型は10宗派。むしろそのすべてがキリスト教だと思わないほうがいい。10宗派のうち8宗派は現代のイスラム国みたいな山賊集団だった模様だ。宗教として穏健な奴隷救済に徹するのは2宗派だった。 ローマは治安維持と支配安定のために野盗八衆を含む10宗派を強引にキリスト教としてまとめるために、新約聖書編纂事業を推進した。 穏健派と束ねることで帝国内の不安定を解消するためだ。 そして、ローマ治安維持の伝統が、「聖書は絶対だー」の標語になった。 さて、検分するに12使徒から派生した意思は聖書編纂時期に正当な伝統者843名であった模様だ。 天界は1000の錫杖を準備して843名に与え、残り157を悪魔に授けた。 補足しておこう、私もキリストの敵を引き付ける影武者を名乗っている。 ローマへの反抗とローマにもたらす秩序の均衡のために、キリストの伝道をあえて辞退した勇敢な者を157名選抜したのさ。 843の錫杖には野盗八衆に配慮して「横暴」も託されていたんだ。 12本が1000本に分岐したように、その後も各系譜で枝分かれして譲渡されていった。 これが要するに信仰を全うするキリストなる聖霊の宿りの資質ある人間存在の系譜だ。 横暴が許されて退廃を極めるキリストの意志の継承もある。 そんな中から、選抜メンバーは1000人を現代で言えば指導者的な聖人の枠に収め、その中に常にいくらかの欠員を出しておく。 これが、キリスト教圏の天界自治領の大まかな体制で、独自のイケニエシステムは別として、八百万の神という自称神様が天界にごろごろいて、頼りない神様も多い状態と大して変わらないだろう。 これは、多神教の立場の神学者として、キリストを部族宗教であるという前提で検分した記述だよ。 ここまでは中二病患者の文芸作品です。 さてここは哲学カテゴリーであり、面白い材料を提示すると歓迎されます。 したがって、酒の肴みたいにこねくり回してもらいたくて質問しています。

  • イエスはデーモンを生み出したのか。

    さてさて、妖精さんのお仕事は気恥ずかしいなあ。 私は男性でね、困ってしまうよ。。。。 末期的中二病患者の手遅れな魔窟へようこそ。 私は純露ユリ系魔法少女 時渡 世麗美だ。 現実世界では52歳の男性に化身している。 裸の心を笑う者。 裸で生きて、 笑うわたし。 なぜなら私は美しい。 裸裸裸裸裸ー。 訳〉ラララララー。 新約聖書に、まあ、よく知らんけども(情報募集)イエスの話を聞いた人は、過去の神をデーモンと見なしたという記述があるそうだ。 うろ覚えでごめん! イエスと言うのはユダヤの神学者で奴隷階級のユダヤ人のために働いた。 それは民族が独自の神を掲げていいのではないかといった内容だろう。 信仰心がある者を人間と承認するのは現代人でも同じだ。 イエスの活動は、奴隷階級の現代で言う解放と公民権運動なので、ローマにとって治世的にも政治的にもまずいから処刑された。 そしてイエスの処刑はローマの横暴として、ローマ領内にとどまらず、周辺地域にも飛び火した。 反ローマこそがキリスト教だ。 新約聖書の成立が、その原始キリスト教の志を覆す。 ローマの国教となった新約キリスト教はイエスへの裏切り者集団だ。 ローマが多重に治安維持目的で交わした新約聖書編纂事業に含まれる、偽りの裏切り者との契約に、おそらくユダヤ人と同じくすべての民族が開放すべきだというイエスの理念を裏切りで真逆に捻じ曲げたのが、デーモンの出現なのだろう。 ローマこそが、デーモンを作ったのだ。 それをイエスのせいにした。 現代では、イエスが働いたユダヤ教はデーモンにされていない。 ユダヤ教が根絶されていたら、「唯一にして絶対なる神」という神の亡骸だけが本物とされて、人類のありとあらゆる神はローマに根絶されていただろう。 そしてこれこそが、彼ら裏切り者集団の現在ではなかろうか。 こういう考えを哲学的にしてみました。 何か意見を述べてください。 私の研究の助けを期待してのご質問です。

  • 私は実在する仮面ライダー「最速の臆病者」だ!

    最も危険なタイミングで、最も重要な救いもある事だろう。 しかしだ、救う者は誰もいない。 実在する仮面ライダー 「最速の臆病者」だ。 イエスがユダヤ教の神学者であることを否定する権威は現代には少ない。 イエスとは奴隷階級のユダヤ人に対する伝道師だった。 信仰心があるものを人間であることを認めるのは今と変わらないだろう。 要するにイエスの行いは、奴隷階級への人間性回復運動なんだよ。 政治的にまずいから、あっさり処刑。 このローマの横暴はローマ周辺で当時の古代社会で話題になった。 新約聖書はローマと裏切り者の契約書だ。 原始キリスト教はイエスの意志が常に自らととものあり、信仰を保つ限り常にイエスと共に生きた。 しかし、新約により、祭祀の場に処刑台をかざす獄門信徒となり、目的は魔女狩りという体裁で「イエスに似た者を見たら皆殺しにしろ」という契約の忠実な履行をする。 彼らにはもう、イエスのことは理解できなくなった。 なぜなら、理解することは処刑されることだからだ。 そうして、 新約キリスト教徒は、イエスを裏切るローマとの契約書として、新約聖書を編纂する公認を獲得する。 イエスの意志への背徳の結論は予言となる。 新約キリスト教根絶。 ローマ崩壊。 この双方の結実が、歴史的ないきさつで形成された最後の審判だ。 これは朗報でもある。 長年新約キリスト教徒以外をも戦乱に巻き込んだ、人類根絶宗教という側面は崩壊するのだ。 最後の審判とは、人類の滅亡を意味しない。 我々は生き残る。 しかしだ、、 このように語る仮面ライダーも涙するのだ。 なんと、残酷なのだろう。 福音の代償は、いかに過酷なのだろう。 獄門信徒には、信仰心に忠実であるためには、集団自決しかない。 はい、は~い。 これは作文か文学です。 読書感想文をお聞かせください。

  • 人類はいまだに生贄を必要とする。

    イエスがユダヤ教の神学者であることを否定する権威は現代には少ない。 イエスとは奴隷階級のユダヤ人に対する伝道師だった。 信仰心があるものを人間であることを認めるのは今と変わらないだろう。 要するにイエスの行いは、奴隷階級への人間性回復運動なんだよ。 政治的にまずいから、あっさり処刑。 このローマの横暴はローマ周辺で当時の古代社会で話題になった。 新約聖書はローマと裏切り者の契約書だ。 原始キリスト教はイエスの意志が常に自らととものあり、信仰を保つ限り常にイエスと共に生きた。 しかし、新約により、祭祀の場に処刑台をかざす獄門信徒となり、目的は魔女狩りという体裁で「イエスに似た者を見たら皆殺しにしろ」という契約の忠実な履行をする。 彼らにはもう、イエスのことは理解できなくなった。 なぜなら、理解することは処刑されることだからだ。 えっと宗教家は冷静になれないでしょうけども、歴史事実を考証すると合理的にも了解できる見解ですよね。 こういうことを言うのは勇敢な悪魔とでもいうのでしょうか。 え~と、哲学には既存の命題に取り組むほかに、自ら命題を考案するという研究手法があります。 今回の質問は後者の属していまして、完成度などに関して助言をお願いします。 命題というのは、回答も準備したから作成するのが理想だと考えますが、私は命題に2つの回答を想定しています。 新約キリスト教は「獄門信徒」とでも表現すべき「悪魔崇拝者集団」という可能性、そして、恐ろしいことをいう私が悪魔だという見解に関しては「イエスを理解したからこそ私は悪魔なのだ」とでも準備しましょうか。 皆様なりの最後の審判の練習を兼ねた、読書感想文でもいいでしょう。

  • キリスト教の原点は何だろう。

    さて、日本には神学を整備する習慣がなかったので、明治期以降に参考書としてキリスト教系の教材が広く流布した。 これが日本に甚大な疫病の被害を拡散させた。 さて、イエスとはユダヤ教の神学者で、奴隷階級のユダヤ人のために信仰を回復させようと尽力した。 信仰心のあるものを人間と認めるのは現代も一緒だ。 そして、王と神が一元である記憶が生々しい時代に、ユダヤ王の名目で反逆罪で処刑された。 実に簡単な成り行きで現代人も納得できる。 感動的なイエスの悲劇が周辺国に広く拡散した。 多くはローマ圏だろう。 この当時、ユダヤの神は日本でいう氏神だ。 部族が強固な神を維持して、人間を失わないことを奴隷階級解放の企てとして、ローマへの抵抗があったのだろう。 この時点で、キリスト教にとってもユダヤ教とは、いま日本が扱うようなキリスト関連読み物のような教科書だった。 しかがって創成期には、キリスト教には祭壇にまつり、いかなる聖霊を下すのか明白な志と教えがあった。それが本来のキリスト教の根本だ。 新約聖書はユダヤの経典をなんちゃって気分で模倣した偽物で、それがローマの意図で本来の志とすり替わったことで裏切り者の宗教になった。 ローマを復興させたい裏切り者の宗教だ。 さてさて、質問です。 その、キリストなる志が何であったか推理してください。 この質問は、哲学には命題自体を考案する手法があるので、私が考案したトンデモ説です。

  • イエスとは人間存在として実在していた。その2

    イエスとは人間存在として実在していた。その2 その1は下記 https://okwave.jp/qa/q10242245.html ーーーーーーーーーーーーーー イエスとは人間存在として実在していた。 イエスという人物の伝承を謎解きすると、イエスというのは史実として実在したことを示唆する論考も可能だ。 イエスを信じる宗教は、イエスが実在した人物なのか、明白な答えを出していない。 信じることですがっている。 イエスはユダヤ人であり、ユダヤ教徒だと伝承は認めている。 イエスはキリスト教徒ではないのだ。 イエスの生きた時代のユダヤ人は奴隷だった。 イエスは聖職者として卓越していた。 奴隷のユダヤ人に信仰心を授けた。 現代でも信仰心の忠実な人を人間であると認めることは誰もが了解可能だろう。多少の異論は挟まるかもしれないが些細なことだ。 奴隷階級のユダヤ人を人間だと認めさせるイエスの行いは、「奴隷解放運動」「人権運動」これと似ていた。 そしてローマの治世には悪影響を及ぼす。 イエスは国家反逆罪で処刑。 名目は、残っている伝承だと、古代王の末裔を名乗ったことにされている。 誠実なローマの提督はユダヤ人の訴えで偽物の救世主を処罰したことになっている。 そうした言及が書物に記載されたのは、イエスの処刑からかなり後で、当時を知る者は一人もいなかった。 行政には犯罪者に恩赦を与える権限がある。 ローマは過去に功労が大きかった提督を恩赦する意図で、提督の不手際をユダヤ民族の不手際にすり替えた。 この巧妙な手口では、ユダヤの人として生きて、ユダヤの救済を生涯にしたイエスをわからなくさせる効果がある。 ユダヤ人がイエスを殺したというイエスの意図の真逆を演出する事なのだ。 イエスの後世に成立したキリスト教はイエスの生涯を蹂躙する取引でローマで地位を獲得した。 したがってキリスト教徒とは、イエスを理解してはいけない信仰心に収まった。 イエスの事は彼らにはわからない。 新約聖書編纂前の原始キリスト教の成立はおそらくはこう。 人が人らしく生きる事すらも、無下に蹂躙したイエスの処刑は、古代ローマとその周辺をローマの横暴として震撼させた。 そしてイエスを英雄のように祭る素朴な畏敬から、イエスの故事はユダヤ教徒以外に拡散していく。もしもそうした現象が無ければ、イエスの処刑は単なるユダヤ人弾圧だ。 そうした集団のイエスの意志の継承は「奴隷解放」「信仰心に守られた人間の謳歌」そして「反ローマ」だ。 ユダヤ人を離れて、広域の各部族社会に拡散したイエスの志は、改めて意思統一するために唯一神の概念を必要とする。 反ローマや革命的な意図のある反社会的な集団だから当然弾圧を受けるし、結束が強い半面で排他的だ。 そして治安維持対策をしたいローマの思惑と地位安定を図りたい原始キリスト教の思惑が一致して、編纂されたのが新約聖書。 それはイエスに背を向ける契約書だ。それ以降は言わば、新約キリスト教だろう。 私は単に考察してみただけだけども、イエスの処刑されたいきさつにねじれがあるという前提でそこを組み立てなおすと、人として生きたイエスの人生と、その功績というのが浮き彫りになるからだ。 キリストというのは、今のところ彼らに安寧をもたらすように寡作した、パウロキリストでないか? 私の論考は、イエスがキリストだという前提をいったん外して彼の人生を浮き彫りにしようとする検証だ。 キリスト否定と言われて、趣旨説明に聞く耳を持たない事だろう。 私は考えるんだ、彼らば集い祈る教会で、「我々の元にイエスを返してくれ」そういえばいい。 そして、イエスが彼らの元に戻ったならば、イエスはキリストだと、私も(自分の信仰ではないが)称賛しよう。 イエスが唯一のキリストで、これからキリストになるのだ。 古文書にイエスの姿からは彼を見る者は、彼の姿の背後に神の存在を感じ、成したことに他に多くの人を彼が生きたというだけで救いもしたのだろう。 それは了解している、だから偉大な人物だと承知しているよ。 ------------------ ここまでが個人研究の取りまとめ。 社交的な場では、政治と宗教の話はご法度という慣例があって、哲学の学問カテゴリーはそのど真ん中だから、投稿する時は原則的に喧嘩を売る姿勢なんだよ。 その方が円滑なんだ。 それで、過去の喧嘩腰よりも、だいぶマシな論説を暫定的に組み立てています。 その1で、論説の甘さが多数指摘されました。 まあいいんだよ。浅学な私なりにパズルを解こうとしたんだ。 そして、現時点の完成度で思うところもあるのです。 特に「イエスが唯一のキリストで、これからキリストになるのだ。」これは、キリストの再臨という予言めいた示唆と符合可能で、パウロキリストの陰謀で2000年間の新約キリスト教は迷走し、結局はイエスだけがキリストなのだと、さらに深くかみしめるヒントになるだろう。予言としてつじつまも合うのだ。 単なる親切心で、彼らの内部からは出てこない助言をしているんだよ。 私はキリスト教徒でないから、改革をしようとしないし、布教もしない、教祖になりたくない。 そういう趣旨で遊ぶ「おもしろ娯楽読み物」なのですよ。 すぐさま喧嘩になるとも思いましたが、キリスト教徒というのは、むしろこの娯楽でうわさ話に花盛りになる傾向があり、実は大好物なのではないか? そのように思いなおしました。 それで、その2で現時点の取りまとめをして仕切り直ししています。 喧嘩腰は学問カテゴリーの特徴なので、上品な解答だけしてくださいとか、そこいらのヘタレみたいなことは言いませんよ。 この先にも、個人的に思案を続けたいので、新着ネタになんでもいいから助言してください。

  • 無害で意味不明の奇行。

    イエスと言うのはユダヤの神学者で、奴隷階級のユダヤ人を宗教で結束させようとした。 文明とは勃興期には王と神は一元的に見なされて、その記憶が生々しい時代にユダヤ王ともみなされた。 そして反逆罪で処刑。この反逆への刑罰は現在も法解釈について現代人は納得できる。 この件はローマの横暴として衝撃がローマ周辺に拡散し、創成期の原始キリスト教は現在で言う奴隷解放運動のような性格をイエスの故事に重ねて志にしていた。 その抵抗組織としての宗教によるローマ領内の波乱を制圧する罠が、キリスト教公認と新約聖書編纂だ。 ローマに懐柔された新約キリスト教はイエスに対する裏切り者の集団になった。 新約キリスト教の伝統的な祭祀と教義はローマの悪意を反映した神学上バカげたデタラメで、キングオブカルトなんだ。 交霊術を行うのが本来の祭壇に処刑台を突き立てて「神よ!くたばりやがれ!」このように祈っているに等しい。 最後の審判とは、キリスト教徒ローマのせめぎあいの反映で、「ローマ滅亡」「キリスト教滅亡」これを意味して、それが教義上で最終目的である集団だ。 人類滅亡説は勘違いで、キリスト教が存在する限り終わりなき殺戮をキリスト教圏に封印するのが良い。 地政学上も日本は第二次大戦の香港みたいな位置にあるが、要するに破滅的な戦争はすべて、キリスト教圏の宗教問題であり、諸外国は火の粉をかぶらないような警戒だけすればいいんだよ。 これは第三次世界大戦への警告だ。 さて、宗教紛争問題で特にキリスト教徒は、教義事態に深刻な火種を抱えているという考察です。 研究テキストの評価と読書感想文をお願いします。