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滅びる者にとっても キリストの良い香りと言うのは

 どうしてか?  次の文句をどう解釈するかを問います。  ▲ (パウロ:コリントの信徒への第二の手紙) ~~~~  2:15 ・・・救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。    2:16 滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ( a )  《救われる者には命から命に到らせる香りである》のは分かるとして 《滅びる者には死から死に到らせる ≫良い香り≪ である》のは どういうことか?    ちなみに いづれの場合にも 《キリストを知るという知識の ≫良い≪ 香り》(2:14)であるようです。同じ《香り》であるようです。  ( b ) 《滅びる者》あるいは《死から死に到らせる》というのは どうも 十字架上のキリスト・イエスから目を離す人びとを言っているのではないか?  その意味は 神をではなく 無い神を心に抱く人びとのことではないか?  ( c )  《滅びる》とは 《有る神が滅びる》という言葉による表現上だけの問題であって そのような別様に(十字架から目を背けて背中越しに)キリストを見る人びとは いわゆる無神論の信仰を抱く者として その信仰によって救われる。こう言っていまいか?  ( d ) したがって《死》も ただ表現上の問題であって 十字架上から目を背けることを言うのみではないか?   ただ もし多少とも《死》とかかわりがあるとしたなら それはそのように目を背けたあと 神も無い神もいづれも抱かなくなった場合 そうすると きわめて相対主義的な顔も目鼻もないのっぺらぼうの思想(生活態度)によって生きることになる。これは《死》か?  ( e ) 《良い香り》が そのような生活における慣性の法則にしたがうような心のくせを死に至らしめたことになる。  いわゆる独我論は この良き香りによって(あるいは 酔って)みづからをみづからが殺したその結果である。のではないか? つまりそれが《死》の事例か?  やや特殊な主題ですが 哲学として問います。ご見解をお寄せください。

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回答No.7

bragelonneさん お久しぶりです。いつもながらの演繹的質問に、哲学の知識が浅い私はついていけず、またお礼に難しい演繹的宿題を出すので、投稿を控えておりました(笑) 今回bragelonneさんの演繹的考えの(b)にそれはどうかなと思うので投稿いたします。 聖書のコリント人への手紙からの聖句を引き合いに出していらしゃいますが、当時のコリントはアドリア海とエーゲ海を隔てるギリシャの都市で多くの文化が出会う中心地であり、いやしの神アスクレピオスや愛の女神アフロディテの信仰の中心地であったそうです。 ですからパウロはおそらく人々の無信仰に手を焼いたのではなく、既存の信仰や西洋哲学の発祥地であるギリシャ人のこの哲学サイトで討論する私たちのような理屈で考える人々に手を焼いたと思われます。 それは、コリント人への第二の手紙の1章8~9の 「私たちは耐え難いほどひどく圧迫されて生きる望みを失ってしまいました。私たちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで自分を頼りにするのでなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。」 からうかがい知ることができます。 ここでパウロははっきり自分でなく神を頼りにすると宣言してますから、独我論(私はウキペディアを読んだくらいで詳しく理解してませんが)は否定されると思います。 キリストを知るという良き香りとは「宣教」を滅びゆく者とは「イエスを信じないで人間の知恵に頼る人 」とキリスト教では考えられているようです。 コリント人への第1の手紙 1章18~25に 「「わたしは知恵のある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味ないものとする。」 知恵のある人はどこにいる、学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものとされたでないか。世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教というおろかな手段によって信じるものを救おうとお考えになったのです。」 神の知恵とは、旧約聖書で預言者に語られた言葉や新約聖書のイエスの死と復活という「啓示」という手段だと思われます。 世は自分の知恵で神を知ることはできなかったという言葉は、哲学的には当時のギリシャ人は知ってるよアリストテレスの第一始動因でしょ。とか、近代になってカントがやっぱり理解は不能だよ。ともいえますが、ここでの意味は「神の人類に対する愛と憐れみ」のことだと思われます。 しかし、そうならば遠藤周作の「沈黙」のように、なぜ神はキリスト以来2000年も「啓示」をせず、沈黙を守っているのか、現在の科学などに象徴されるように人間の知恵の勝利ではないかと考える人が出てくるのもいたしかたがないと思っています。 bragelonneさんの「非思考の庭」もやはり神という実体は理解不能なのでしょうか?

bragelonne
質問者

お礼

 これはこれは。ほかの質問で お名前に気づいてはいましたが。  まづは こんにちは。ご回答をありがとうございます。  そう言えば ぐーぐる+でちらっとページを拝見したこともありましたが。まぁ その若さなら何でもこなして行けるだろうと思っていました。  さて   ★ 今回bragelonneさんの演繹的考えの(b)にそれはどうかなと思うので投稿いたします。  ☆ 《演繹的》ですか。あまり考えたこともなかった捉え方ではあります。  ★ 当時のコリントはアドリア海とエーゲ海を隔てるギリシャの都市で多くの文化が出会う中心地であり、  ☆ すでにソフィスティティケーテッドな街だったのでしょう。また すでに爛熟していたのかも分かりません。  ★ ・・・既存の信仰や西洋哲学の発祥地であるギリシャ人のこの哲学サイトで討論する私たちのような理屈で考える人々に手を焼いたと思われます。  ☆ ということでしょうか。  ★ ここでパウロははっきり自分でなく神を頼りにすると宣言してますから、独我論(私はウキペディアを読んだくらいで詳しく理解してませんが)は否定されると思います。  ☆ おそらく そうだと思います。まだしっかりと批判をしているわけではありませんが 独我論については あらかじめながら そのように理解しています。    ★ キリストを知るという良き香りとは「宣教」を滅びゆく者とは「イエスを信じないで人間の知恵に頼る人」とキリスト教では考えられているようです。  ☆ なるほど。《宣教》が《香り》であることは 分かりますね。いちいち宣教として述べなくても その《いま・そこにいるという姿》によって《香り》を放っていることはあり得ると思われます。  ★ 滅びゆく者とは「イエスを信じないで人間の知恵に頼る人」  ☆ ですか? それは どう言いますか 狭く捉えていることになりませんか?  つまり 神――とにかく 神――を心に受け容れている人なら イエス・キリストに従う人と けっきょく同じ信仰の姿であるのではないか? そういう意味においてです。  あるいは これは揚げ足取りですが 《キリストの神を信じる人》も 経験世界のことがらについては《人間の知恵に頼るところもある》わけだと考えられるからです。  言おうとしていることは 分かりますが。    ▼ (コリント人への第1の手紙 1章18~25)・・・世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教というおろかな手段によって信じるものを救おうとお考えになったのです。」  ☆ この場合にですね。この場合に けっきょく《宣教》はそれが世界に行き渡ったときには・つまり文字通り《イエス・キリストの名をつたえる》というつとめが 世界に行き渡ったときには ある意味でその役目を終えます。現代は そのようなあたらしい局面に入っていると思われます。  ということは  ★ 神の知恵とは、旧約聖書で預言者に語られた言葉や新約聖書のイエスの死と復活という「啓示」という手段だと思われます。  ☆ という神の知恵――ふつう ヒラメキ(インスピレーション)によるものと考えられます――とともに すでにあらためて《人間の知恵》にもよって 世界に生きるものと思われるのです。現代ではです。  〔また No.6で くりなるさんとのやり取りで 旧い契約とあたらしい契約との違いについて少し思うところを述べております。その意味は イエス・キリストのあとの歴史にあっては ひとつにまづ宣教というおろかな手段が用いられ キリストの名がつたえられた。それが 世界に行き渡ったあとでは  《神を知れと言っておしえることはなくなる》というエレミヤ預言が 文字通り現実となる。こう考えています〕。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~  世は自分の知恵で神を知ることはできなかったという言葉は、哲学的には当時のギリシャ人は知ってるよアリストテレスの第一始動因でしょ。とか、近代になってカントがやっぱり理解は不能だよ。ともいえますが、ここでの意味は「神の人類に対する愛と憐れみ」のことだと思われます。  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 何やら ややこしいことをおっしゃる。  まづ 《第一始動因》は 例の《みづからは動かないで ほかのすべてのものごとを動かす第一原因》のことですよね。コリント人は このような理屈をこねくりまわしたということでしょうか。  つまりなぜ理屈だと言うかと言えば すべて神についての説明は――人間の言葉で表わされているからには―― 神の知るための《補助線》である。つまり 補助線でしかなく 神本体のことではない。  《第一原因――不動の動者――》と言っても それは 神本体の仮りの説明である。という意味になります。この概念ないし観念を 神とするわけには行かない。  それから カントですか。《物自体》ですよね。つまり すでにそれが何であるかは分からないと言っていると思いますが この《物自体》にしても 神を知るために引いたひとつの補助線であるわけです。補助線が 神であるわけではないのだと言えるでしょうね。  しかもそれだけではなく  ★ ここでの意味は「神の人類に対する愛と憐れみ」のことだと思われます。  ☆ というわけですね。そりゃあそうだ。ヒラメキとしての知恵も この愛なるチカラから出たものであるでしょうから。  あぁ ですから:   ★ しかし、そうならば遠藤周作の「沈黙」のように、なぜ神はキリスト以来2000年も「啓示」をせず、沈黙を守っているのか、現在の科学などに象徴されるように人間の知恵の勝利ではないかと考える人が出てくるのもいたしかたがないと思っています。  ☆ これは キリスト・イエスの登場のあとにおける歴史のステージだと思いますよ。  神は人びとの罪をもはや覚えない。忘れる。そして 人びとに神を知れと言ってオシエを説くことはなくなる。――このエレミヤ預言の実現する世界です。  (ローマ教会から何から どこも まだまだ遅れていますけれど。大幅に遅れています。いまだに 《原罪》がどうのこうのと言っていますから)。  けれども あれですよ。あめんほてぷ2000さんには はっきりと言いますが 旧約の時代にあっても けっきょくは《隠れたる神 Deus absconditus 》であったのだと思いますよ。だって 預言者が出ても ことごとく排斥されたも同然だったではないですか。  預言は 神の知恵につながりますが その内容はほとんどすべてが 王たちのしりぞけるところとなったに過ぎない。バビロン捕囚が解かれたことは 歴史的に実現したわけではありますが。  ただしです。ただしですね。  ★ bragelonneさんの「非思考の庭」もやはり神という実体は理解不能なのでしょうか?  ☆ となると 少し違って来ている。のではないか?  《非知 ないし 非経験の場 である神》をわが心に受け容れたときには そのわが心に《非思考の庭》が成る。相手(対象)は 神であり非経験ですが これを(つまりその名を)受け容れるのは じつに人間の経験的な意志行為です。よって この心・この主観にかんするかぎりでは 非思考の庭が 動態として あることにマチガイない。  (すなわち 早い話が ブラフマン神に対する霊我とも呼べるアートマンや アミターバ・ブッダに対するブッダ・ダーツ(または ブッダター=つまり仏性)が それぞれの心にやどるというのと まったく同じことであるでしょう)。  そういう想定です。  《想定》は じつにあやふやなものですが 想定があるということ・それを誰も消せないということ この点については 確実です。  おそらく ここで:  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~   コリント人への第1の手紙 1章18~25に   「「わたしは知恵のある者の知恵を滅ぼし、    賢い者の賢さを意味ないものとする。」(イザヤ書29:14)  知恵のある人はどこにいる、学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものとされたでないか。・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ という《知恵》論が聞かれるべきではないのでしょうか。  《目に見えない》ところで・あるいは《沈黙》の内に その知恵は 直観として得られるものと考えます。  人間の知恵をないがしろにするということではなくです。  

bragelonne
質問者

補足

 みなさん まだ答えはわたしには分かりません。  パウロの足跡を問い求める姿勢に BA です。

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その他の回答 (9)

noname#197888
noname#197888
回答No.10

 2:15 ・・・救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。 自己肯定の道を歩みつつあるものと、自己否定の道を歩みつつあるもの、どちらにしても その存在自体が、神からすると美しく可愛らしい、子の成長途中であり、芳しく香るように好ましい存在だ    2:16 滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです。 苦しみを深く経験することも、生きることの嬉しさを深く経験することも、必要なことであり 両側を経験するために、エネルギー(香り・神の意思)は存在する ということを言っているのでは..と思います

bragelonne
質問者

お礼

 かろうじて18時台に初めて見たときすでに のなめさんに成っていましたさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  そうですね。わたしの考えるところにしたがって(ということは 当然そうするしか能はないのですが)反応を述べてまいります。  ★ 自己否定の道を歩みつつあるもの  ☆ というふうにこちらから見られたとしても その本人は よき道を進んでいると思っているかも知れません。  よいと悪いとを いくら人間が知性に限りがあると言ってもあまり間違えることもないとは思われます。たとえば ひとをころすことはよくないことである。人の能力を自由に発揮できるようにと 邪魔にならない程度に 傍からお手伝いする これは ふつう良いことです。  そういった基本のことについてよいわるいを間違えることはあまりないと思いますが なにせ神から見たら そのよいわるいの区別をめぐってさらに細かいところで いろんな条件を付けたりするかも分かりません。情況のあり方や 相手の状態や ときの問題やで 何が何でもよいものはよいと行かない場合があるかも分かりません。  《ときの問題》とは その本人にとって そのときの主題にかんして まだ《とき》が熟していないから 俟つのがよいといった選択があるかも分からない。ことです。  ですから こちらから見て《自己否定の道を歩みつつある》と見えても その判定が大きくはづれることはないでしょうが それでも そのおのれの判定を安易にその当の人に当てはめることは 無条件でよいとは言えないかも知れない。  ぢゃあ 訊くが:  ▲ 滅びの道をたどる者  ☆ と言ってるぢゃないか? それは どうなるんだ?  微妙で複雑ゆえに 問うているのですが おそらくこれは 神の目から見たことを すでに人間の言葉で語っている。のかも知れません。だから むつかしい。   いやいや。だからして:  ★ その存在自体が、神からすると美しく可愛らしい、子の成長途中であり、芳しく香るように好ましい存在だ  ☆ とちゃんと神の視点を出しているではないか? そうなんですが――そうなんですが―― ちょっと違う解釈にもなっているかと思うのです。  ▲ 2:15 ・・・わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。  ☆ ひとつに わたしたちの存在がそれぞれ 《よい香り》である。  もうひとつに それは《キリストによって そのような役割をになわされたかのように 香りとさせられる》のだと思われること。  すなわち 後者の点は よい香りとなるのは キリストが何らかのかたちではたらくことによって その相手に対して なのだと考えられるからです。  相手は わたしたちがそれぞれ香りであると思い成すかも知れないのですが 香りとなるのは キリストのハタラキによるということ。わたしたちは ほとんど何もしていないということです。  微妙で複雑なことを書いていると思いますので ツッコミを入れて欲しいのですが それでも なかなかむつかしいことを パウロは言っているとは思うのです。  ★ 苦しみを深く経験することも、生きることの嬉しさを深く経験することも、必要なことであり / 両側を経験するために、エネルギー(香り・神の意思)は存在する  ☆ くるしみも楽しみをも どちらをもおのれの自己到来のために・そして人びととの共生のために必要なだけ 神はわれわれをして味わわしめるのだと。こういうことでしょうか?  そのとき それらの経験は むろん人間としての自分の体験であり人生であるのですが それだけではなく いわば神の意志のもとに エネルギーとなり香りとなる。言いかえると 特に悩み苦しみのときに そこには 神からの香りがただよっていると感じたら シメタものだ。これぞ おれの人生なりと元気はつらつだ。・・・  たぶん そういう意味合いが含まれているかと思うのです。でも 何かほかにありはしないか? とも 疑うことをひとつの仕事をしているわたしにとっては 思いが起こるのです。  でも 結論は出ていません。勝手な見方をつづりました。おゆるしください。

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  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.9

B様、おはようございます。 >「いわゆる独我論は この良き香りによって(あるいは 酔って)みづからをみづからが殺したその結果である。のではないか? つまりそれが《死》の事例か?」 「敬虔なる、信仰の篤い御婦人の前では、どんな神父もタジタジである」

bragelonne
質問者

お礼

 K くん お早う。回答をありがとう。  オンナの涙にだまされるようでは まだまだですね。  涙も敬虔な信者ぶりも おんなじことですよ。

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  • asisai888
  • ベストアンサー率15% (11/73)
回答No.8

2.15と2.16を逆転させれば意味が通るように見えます 2:16 滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです。 2:15 救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちは キリストによって神に献げられる良い香りです。 「香り」が何を意味するのか分かりませんが、救いの道をたどる者と滅びの道をたどる者とキリスト信者の 間で共有されている何らかの概念だと思います わたしたち、つまりキリスト教信者は「香り」という形で神に捧げられる しかし、滅びる者は「香り」を死に至らせ、救われる者は「香り」を命に至らせる いずれにしてもキリスト信者でなければ神の下へは行けないということを主に伝えたいのだと思います また、良い香りと言っているので神にとってキリスト信者であることは好ましいことであるという含みも 持たせているのだと思います

bragelonne
質問者

お礼

 あしさい888さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ また、良い香りと言っているので神にとってキリスト信者であることは好ましいことであるという含みも / 持たせているのだと思います  ☆ それは そうでしょうね。好ましくないことを伝えて勧めることはしないでしょうから。  もっとも そのことは これまでに触れて来ているのですが けっきょくイエス・キリストの神は エレミヤ書31:31以降とこのイエスの人類史への登場とによって 言わば自己揚棄をおこなった。  つまりは 一段高いところへ――ということは ユダヤ民族だけの神としてではなく じんるい全体にとっての神といった次元へ――みづからを揚げて そこでユダヤ民族にとっての神という自己を棄てた。  神みづからによるみづからのアウフヘーベンです。  そういう意味においても すべての人にとって――いわゆるすくいをめぐって――《よい香り》であるということになるのだと思います。キリスト者がです。  次のように解釈されたのですね。つまり  ★ ~~~~~~~~~~~~~  わたしたち、つまりキリスト教信者は「香り」という形で神に捧げられる  しかし、滅びる者は「香り」を死に至らせ、救われる者は「香り」を命に至らせる  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち 《救われる者は「香り」を命に至らせる》。すなわち 《救いの道をたどる者としては 接する相手とキリスト者の香りではなく そうではなく みづからのキリスト者としての香りを そのままいのちに到らしめる。そういう意味でも 《生命の香り》なのだと。  そして 同じくそのツテで 《滅びる者は「香り」を死に至らせ》る。すなわち 《香りなるキリスト者に接して たましいのあり方として みづからはあたかも死から死へ到らしめられる。つまりは みづからの香りを死に到るらしめる》。だから 《死の香り》であるのだと。  おそらくもともと《よき香り》であったものが ふたつの道をたどるようになることであるらしい。  そこでわたしの解釈としましては なるほど《ほろびの道をたどる者にとっては 最初に一たん 死から死へ到る歩みへとみちびかれる。けれども 途中で引き返すように――誰かの同じ〈よき香り〉によって――うながされる》と言っていなくては おかしい。のではないか? という物言いなのです。  ただ――ただです ただ――もし仮りに《たましいに 死の状態がある》とするならば それは:  ☆☆ (趣旨説明欄) ~~~~~~~~~~~~  ( d ) したがって《死》も ただ表現上の問題であって 十字架上から目を背けることを言うのみではないか?   ただ もし多少とも《死》とかかわりがあるとしたなら それはそのように目を背けたあと 神も無い神もいづれも抱かなくなった場合 そうすると きわめて相対主義的な顔も目鼻もないのっぺらぼうの思想(生活態度)によって生きることになる。これは《死》か?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ とも考えてみたわけです。これは 《独我論》の場合ではないか? ともおおっぴらに言っています。  これにつき大いに自由な批判をたまわりたい。そんな問いになっています。

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  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.6

こんばんは。 >「神を知れと言って 人びとにおしえることはなくなる。」 現代でも、「契約」を巡っては、自由なのか?ということが、あります。 (誰でも、目的地までの運賃は、決まっているでしょう。)

bragelonne
質問者

お礼

 神とわれとの関係にかぎっては  ★ 目的地  ☆ は 本人にしか分かりません。本人にさえ分からないと言ったほうがよい。はずです。  ★ 契約  ☆ にかんしては かつてモーセのときに 確かにありました。だから エレミヤのときに これが更新されあたらしくなるという預言が与えられました。(更新と言っても 契約じたいがなくなるということですが。ただし ユダヤ民族と神との関係が 消えてしまうということにもならないとあります)。  けれども モーセの以前に 神とわれとの関係(信仰のことを言っているのですが)は アブラハムにあって始まりました。このときには 契約は あくまでアブラハム個人にとってのものでした。  つまり モーセのときからは ヤハヱーを神とせよや なんぢころすなかれなどの律法が与えられました。このときから 神を知れと人びとにおしえることも始まりました。  つまり このオシエが 変わったのです。エレミヤが預言しそのことが イエス・キリストによって成就されました。  ですから  ★ 「契約」を巡っては、自由なのか?ということが、  ☆ キリスト・イエスの信仰にかぎっては いっさいありません。契約ということ自体がありません。  ★ 目的地までの運賃〔も 目的地はどこかも そしてそもそも目的とは何かも〕  ☆ すべて自由です。いっさい決まっていません。まったくの白紙状態です。  本人にあっては 決めてもかまいません。自由です。  神とわれとの関係の問題と 人間どうしの関係の問題とは 明らかに別です。  契約行為についても当然のごとく 同じではありません。  ご回答をありがとうございます。

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  • kurinal
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回答No.5

B様、今晩は。 >「救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。」 これでは、「神」とは、契約出来ません。

bragelonne
質問者

お礼

 《契約》は あたらしいかたち(と内容)に更新されています。  人びとのそれまでの罪をもう神は忘れる。    神を知れと言って 人びとにおしえることはなくなる。  という内容に変わりました。言いかえると 契約は無い状態です。  エレミヤ書31:31以降とそのくだりが取り上げられているへブル書8章です。  ご回答をありがとうございます。

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回答No.4

 救いの道をたどる者=《涅槃の世界を目指す者》にとっても、滅びの道をたどる者=《輪廻の世界にさまよう者》にとってもわたしたちはキリストによって神に献げられる=《菩薩の救いによって成仏できる》良い香りです=《生命・尊い命、です》。  滅びる者=《輪廻の世界に留まる者》には死から死に至らせる=《転生し続ける》香り=《命》であり、救われる者=《神を念じる者》には命から命に至らせる香り=《永遠と云う生命》です。  このように受け止めてみました。    今はこれを私の回答といたします。  ☆ 仏教とキリスト教は合体“すべき”です。

bragelonne
質問者

お礼

 ありがとうございます。  考え方として 方程式にきちんとはまっていると思います。  けれども 疑問は のこります。  1. とにかくわたしたち自身が それぞれ《香り》である。  2. ということは  ★ 滅びる者=《輪廻の世界に留まる者》には死から死に至らせる=《転生し続ける》香り=《命》であり  ☆ というところで たとえば こう書き直したほうがよいのではないかという疑問です。  3. すなわち   ○ 滅びる者=《輪廻の世界に留まる者》には 一たん 死から死に至らせる=《転生し続ける》香り=《命》であり しかもその死の手前で(または 途中で) 引き返すようにみちびく香りである。  となるのではないか? です。  4. 《よい香り》が 一たん わるい道へとうながし しかるべき途中で U ターンするようにとみちびく。こういったかたちにはならないのか? です。  ★☆ 仏教とキリスト教は合体“すべき”です。  ☆ これは だいじょうぶです。《神》は ひとつですから。

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回答No.3

 分かるか分からないかが分からない、とブラジュロンヌさんは言ってしまっているので表現に困り、“無い神”という言葉を使う事になったんだと思いますが、でもそこに視点を置いたのは何かを感じたから。  うまく表現できない世界、事柄なんですね。  と、ここ迄何とか私の思いを綴ろうと苦心して居たら思いついたことが有ります。  ブラジュロンヌさんはこの“無い神”に付いて“無い神”と表現しようと思いついたのは、どんな状況の時だったんでしょうか。  聖書を学んでいた時だったんですか。  聞かせてください。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ブラジュロンヌさんはこの“無い神”に付いて“無い神”と表現しようと思いついたのは、どんな状況の時だったんでしょうか。  聖書を学んでいた時だったんですか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ううーん。直接には 信仰の形態とは どういうことか? を考えていたときです。  ご回答をありがとうございます。  そうですね。むろんそれは 《神とは何か?》の問いにわずさわっていたときです。  いまとなっては かんたんです。  1. この世の因果関係を超えている。あるいは 有る無いをも超えている。それが 神である。  2. だったら その神が 有ると言ってその一点張りで行くのは おかしい。有ると同じ程度に 無いとも言える。はずだと。  3. つまりは 神は有ると言っても 神は無いと言っても 互いに同等であり対等である。ではないか? と。  4. すなわち 信仰としては 有神論と無神論とがやはり互いに信仰行為として ひとしい。と。  5. 無神論なる信仰は 《無い神》を 神としている。と。  あと 《香り》というのは それは われわれ一人ひとり人間の存在のことを譬えて言っているんですよね。  ▲ (パウロ:コリントの信徒への第二の手紙) 2:15 ・・・救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。  ☆ わたしたちが それぞれ《香り》として 神にささげられるのだと言っています。  そして 《死に到らせる》とか《ほろびの道をたどる》とかとも言っている。つまり われわれである香りが 人びとをしてそのような道へみちびくとでも言わんばかりである。  ここんところが ちょっと分かりづらい。  ちょうどいま    【Q:キリスト教の予定説について】  が問われていますよね。わたしの考えでは すくいとほろびとのそれぞれの道へと予定されているという説は――たとえ 神の目から見るとそうであったとしても 人間どうしのあいだでは―― 成り立たないし 受け容れられない。のだけれど それでも 《あたかも道がふたつに分かれていて その内ほろびの道をさまよう場合もあり得る》とまでは 議論することが出来ると思うのです。  そういう意味で この問いをかかげてみようと思いました。  《ほろび あるいは 〔おそらくたましいの〕死の状態》とは 何を言うんでしょう?

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回答No.2

 (1)に付いて。  無い神とは“親”の事。  誰でも“私”には親がいます。  生命にも。  “生命”を生んだ親の事を「無い神」と云う。  「無い神」に依って生み出された生命、命、は自己保存の為に外部より養分を摂取して活動の為のエネルギーとする。  その行為を通して発生する苦楽の世界に於いて、救いの道をたどる者もいれば亡びの道をたどる者もいる。    仏教的には、  救いの道をたどる者とは、涅槃の世界を目指す者の事。  滅びの道をたどる者とは、輪廻の世界を脱し得ない者の事。  聖書は根本の精神(無い神)と現象界の精神との境界が曖昧だと思います。分かりづらいです。  ☆ ひょっとするとブラジュロンヌさんの云う「無い神」と私の想定する「無い神」とは少し違いが有るのかもしれません。  (2)に付いては内容がよく分からないので“回答”出来ません。      

bragelonne
質問者

お礼

 つづいてのご回答をありがとうございます。  ★ “生命”を生んだ親の事を「無い神」と云う。  ☆ この場合の《親》というのは タトエではなく じっさいの生みの親ですね。  やがて去って行くので 《無い神》と呼ぶのでしょうか。  それはそれとしますが。  その無い神なる親のもとで 生命の主体であるわたしがわたしを生きるとき:  ★ その行為を通して発生する苦楽の世界に於いて、救いの道をたどる者もいれば亡びの道をたどる者もいる。  ☆ の《すくいの道をたどる》というのは 何となく分かって受け容れるのですが では 《亡びの道をたどる》というのは どういうことか?  社会的に(経済的に人間関係的になど生活の全般にわたって でしょうか)《死》の状態にあることを言いますか?  《たどる》というのは その途中まで・あるいは死の状態の手前までは行くが そこから引き返して来て すくいの道に立ち戻るというのでしょうか? それとも 行きっぱなしとなる・つまりは 死の状態のまま実際に息を引き取ることを言うのでしょうか?  ★ 仏教的には、・・・ / 滅びの道をたどる者とは、輪廻の世界を脱し得ない者の事。  ☆ だとすると 一たんこの世にあっては 人としてまあまあふつうに暮らして死んで行くということでしょうか?  つまりは 違いが分かるのは 来世でのことだという意味でしょうか?  つまりは 輪廻を繰り返すそのこと自体が 死の状態である。  ということでよろしいでしょうか?  ★ 聖書は根本の精神(無い神)と現象界の精神との境界が曖昧だと思います。分かりづらいです。  ☆ 根本の精神――もしくは 聖霊なる神――と 人間の理性や精神とは 絶対的にへだたりを持ちます。  しかも それゆえに――神は絶対であるゆえに―― 自由自在に神のほうからこの人間の感性や理性の世界に あたかもニュートリノのごとく やって来ているという説明の仕方で想定しています。  この神は 有る神と言っても――そして ブラフマン神と呼んでもヤハヱーでもアッラーフでもまた アミターバやマハーワイロ―チャナ(大日如来)と呼んでも かまわない また――無い神と言っても 変わりません。呼び名が変わるだけです。  変わるか変わらないか――有るか無いか 善か悪か――のこの経験世界を超えているからです。  そうなると  ★ 分かりづらいです。  ☆ というよりも 《分からない》はずです。分かるか分からないかが 人間には 分からない。  

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回答No.1

 救われる者の良い香りは分かって、亡びる者の良い香りが分からないと云う事は、ブラジュロンヌさんの理解、あるいは解釈が不十分である、と云う事。  すくわれる者も亡びる者もどちらも神の子であると。  無い神を心に抱く人々の事。  すべての生命にそなわる意識されない心。  良い香りとは宇宙の絶対の大心霊体。全ての“もの”に備わる精神。ブラジュロンヌ云う処の『無い神』の事。  救われるから良く、救われないから良くない、以前の事。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  いちおうそのおっしゃるかたちで受けとめました。  いちおうを解くために なお問うてもよいでしょうか?  (1) ★ すくわれる者も亡びる者もどちらも神の子であると。 / 無い神を心に抱く人々の事。  ☆ というとき 《亡びる》とは どういうことを言うのでしょうか?  《亡びる者》とは 《無い神を心に抱く人》であるとすれば 《亡びる》必要はないように思えるのですが?  (2) もうひとつは ほんとうにほろびる場合を 趣旨説明では 《独我論》に落ち入る場合のことを言うと見ました。それは 《死から死へ到る》というときの《死》の状態であるのだと。  それについては いかがお考えになりましょうか?  よろしくどうぞ。

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