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滅びる者にとっても キリストの良い香りと言うのは
どうしてか? 次の文句をどう解釈するかを問います。 ▲ (パウロ:コリントの信徒への第二の手紙) ~~~~ 2:15 ・・・救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。 2:16 滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ( a ) 《救われる者には命から命に到らせる香りである》のは分かるとして 《滅びる者には死から死に到らせる ≫良い香り≪ である》のは どういうことか? ちなみに いづれの場合にも 《キリストを知るという知識の ≫良い≪ 香り》(2:14)であるようです。同じ《香り》であるようです。 ( b ) 《滅びる者》あるいは《死から死に到らせる》というのは どうも 十字架上のキリスト・イエスから目を離す人びとを言っているのではないか? その意味は 神をではなく 無い神を心に抱く人びとのことではないか? ( c ) 《滅びる》とは 《有る神が滅びる》という言葉による表現上だけの問題であって そのような別様に(十字架から目を背けて背中越しに)キリストを見る人びとは いわゆる無神論の信仰を抱く者として その信仰によって救われる。こう言っていまいか? ( d ) したがって《死》も ただ表現上の問題であって 十字架上から目を背けることを言うのみではないか? ただ もし多少とも《死》とかかわりがあるとしたなら それはそのように目を背けたあと 神も無い神もいづれも抱かなくなった場合 そうすると きわめて相対主義的な顔も目鼻もないのっぺらぼうの思想(生活態度)によって生きることになる。これは《死》か? ( e ) 《良い香り》が そのような生活における慣性の法則にしたがうような心のくせを死に至らしめたことになる。 いわゆる独我論は この良き香りによって(あるいは 酔って)みづからをみづからが殺したその結果である。のではないか? つまりそれが《死》の事例か? やや特殊な主題ですが 哲学として問います。ご見解をお寄せください。
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お礼
これはこれは。ほかの質問で お名前に気づいてはいましたが。 まづは こんにちは。ご回答をありがとうございます。 そう言えば ぐーぐる+でちらっとページを拝見したこともありましたが。まぁ その若さなら何でもこなして行けるだろうと思っていました。 さて ★ 今回bragelonneさんの演繹的考えの(b)にそれはどうかなと思うので投稿いたします。 ☆ 《演繹的》ですか。あまり考えたこともなかった捉え方ではあります。 ★ 当時のコリントはアドリア海とエーゲ海を隔てるギリシャの都市で多くの文化が出会う中心地であり、 ☆ すでにソフィスティティケーテッドな街だったのでしょう。また すでに爛熟していたのかも分かりません。 ★ ・・・既存の信仰や西洋哲学の発祥地であるギリシャ人のこの哲学サイトで討論する私たちのような理屈で考える人々に手を焼いたと思われます。 ☆ ということでしょうか。 ★ ここでパウロははっきり自分でなく神を頼りにすると宣言してますから、独我論(私はウキペディアを読んだくらいで詳しく理解してませんが)は否定されると思います。 ☆ おそらく そうだと思います。まだしっかりと批判をしているわけではありませんが 独我論については あらかじめながら そのように理解しています。 ★ キリストを知るという良き香りとは「宣教」を滅びゆく者とは「イエスを信じないで人間の知恵に頼る人」とキリスト教では考えられているようです。 ☆ なるほど。《宣教》が《香り》であることは 分かりますね。いちいち宣教として述べなくても その《いま・そこにいるという姿》によって《香り》を放っていることはあり得ると思われます。 ★ 滅びゆく者とは「イエスを信じないで人間の知恵に頼る人」 ☆ ですか? それは どう言いますか 狭く捉えていることになりませんか? つまり 神――とにかく 神――を心に受け容れている人なら イエス・キリストに従う人と けっきょく同じ信仰の姿であるのではないか? そういう意味においてです。 あるいは これは揚げ足取りですが 《キリストの神を信じる人》も 経験世界のことがらについては《人間の知恵に頼るところもある》わけだと考えられるからです。 言おうとしていることは 分かりますが。 ▼ (コリント人への第1の手紙 1章18~25)・・・世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教というおろかな手段によって信じるものを救おうとお考えになったのです。」 ☆ この場合にですね。この場合に けっきょく《宣教》はそれが世界に行き渡ったときには・つまり文字通り《イエス・キリストの名をつたえる》というつとめが 世界に行き渡ったときには ある意味でその役目を終えます。現代は そのようなあたらしい局面に入っていると思われます。 ということは ★ 神の知恵とは、旧約聖書で預言者に語られた言葉や新約聖書のイエスの死と復活という「啓示」という手段だと思われます。 ☆ という神の知恵――ふつう ヒラメキ(インスピレーション)によるものと考えられます――とともに すでにあらためて《人間の知恵》にもよって 世界に生きるものと思われるのです。現代ではです。 〔また No.6で くりなるさんとのやり取りで 旧い契約とあたらしい契約との違いについて少し思うところを述べております。その意味は イエス・キリストのあとの歴史にあっては ひとつにまづ宣教というおろかな手段が用いられ キリストの名がつたえられた。それが 世界に行き渡ったあとでは 《神を知れと言っておしえることはなくなる》というエレミヤ預言が 文字通り現実となる。こう考えています〕。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~ 世は自分の知恵で神を知ることはできなかったという言葉は、哲学的には当時のギリシャ人は知ってるよアリストテレスの第一始動因でしょ。とか、近代になってカントがやっぱり理解は不能だよ。ともいえますが、ここでの意味は「神の人類に対する愛と憐れみ」のことだと思われます。 ~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 何やら ややこしいことをおっしゃる。 まづ 《第一始動因》は 例の《みづからは動かないで ほかのすべてのものごとを動かす第一原因》のことですよね。コリント人は このような理屈をこねくりまわしたということでしょうか。 つまりなぜ理屈だと言うかと言えば すべて神についての説明は――人間の言葉で表わされているからには―― 神の知るための《補助線》である。つまり 補助線でしかなく 神本体のことではない。 《第一原因――不動の動者――》と言っても それは 神本体の仮りの説明である。という意味になります。この概念ないし観念を 神とするわけには行かない。 それから カントですか。《物自体》ですよね。つまり すでにそれが何であるかは分からないと言っていると思いますが この《物自体》にしても 神を知るために引いたひとつの補助線であるわけです。補助線が 神であるわけではないのだと言えるでしょうね。 しかもそれだけではなく ★ ここでの意味は「神の人類に対する愛と憐れみ」のことだと思われます。 ☆ というわけですね。そりゃあそうだ。ヒラメキとしての知恵も この愛なるチカラから出たものであるでしょうから。 あぁ ですから: ★ しかし、そうならば遠藤周作の「沈黙」のように、なぜ神はキリスト以来2000年も「啓示」をせず、沈黙を守っているのか、現在の科学などに象徴されるように人間の知恵の勝利ではないかと考える人が出てくるのもいたしかたがないと思っています。 ☆ これは キリスト・イエスの登場のあとにおける歴史のステージだと思いますよ。 神は人びとの罪をもはや覚えない。忘れる。そして 人びとに神を知れと言ってオシエを説くことはなくなる。――このエレミヤ預言の実現する世界です。 (ローマ教会から何から どこも まだまだ遅れていますけれど。大幅に遅れています。いまだに 《原罪》がどうのこうのと言っていますから)。 けれども あれですよ。あめんほてぷ2000さんには はっきりと言いますが 旧約の時代にあっても けっきょくは《隠れたる神 Deus absconditus 》であったのだと思いますよ。だって 預言者が出ても ことごとく排斥されたも同然だったではないですか。 預言は 神の知恵につながりますが その内容はほとんどすべてが 王たちのしりぞけるところとなったに過ぎない。バビロン捕囚が解かれたことは 歴史的に実現したわけではありますが。 ただしです。ただしですね。 ★ bragelonneさんの「非思考の庭」もやはり神という実体は理解不能なのでしょうか? ☆ となると 少し違って来ている。のではないか? 《非知 ないし 非経験の場 である神》をわが心に受け容れたときには そのわが心に《非思考の庭》が成る。相手(対象)は 神であり非経験ですが これを(つまりその名を)受け容れるのは じつに人間の経験的な意志行為です。よって この心・この主観にかんするかぎりでは 非思考の庭が 動態として あることにマチガイない。 (すなわち 早い話が ブラフマン神に対する霊我とも呼べるアートマンや アミターバ・ブッダに対するブッダ・ダーツ(または ブッダター=つまり仏性)が それぞれの心にやどるというのと まったく同じことであるでしょう)。 そういう想定です。 《想定》は じつにあやふやなものですが 想定があるということ・それを誰も消せないということ この点については 確実です。 おそらく ここで: ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ コリント人への第1の手紙 1章18~25に 「「わたしは知恵のある者の知恵を滅ぼし、 賢い者の賢さを意味ないものとする。」(イザヤ書29:14) 知恵のある人はどこにいる、学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものとされたでないか。・・・ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ という《知恵》論が聞かれるべきではないのでしょうか。 《目に見えない》ところで・あるいは《沈黙》の内に その知恵は 直観として得られるものと考えます。 人間の知恵をないがしろにするということではなくです。
補足
みなさん まだ答えはわたしには分かりません。 パウロの足跡を問い求める姿勢に BA です。