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十字架に接吻

私に信仰はありませんが、キリスト教に疑問があります。 クリスチャンはよく十字架にキスするんですよね。 そして、イエスも十字架を背負いゴルゴタの丘に向う途中 「死を達成させるための十字架」に接吻した。 完全無欠の神には憎悪とか軽蔑という不の感情など必要がない。 仮に慈悲深いということは善悪の規則がないに等しいということであっても、 キリスト教では感謝を示す行為のようにも映ります。 それを人間である信者が真似てみたところで感情的になるばかりではありませんか? どうして残酷な十字架を愛でるかのように、 とてもありがたいもののように扱っているのですか?

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  • kigurumi
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回答No.4

私の記憶では、聖書でチューをする場面は、リーマ兵を連れたユダが「私がチューをした相手がイエスです」と言って、イエスに近寄り ぶちゅっとした。 ここしか記憶にありません。 で、当時ローマはいろいろな処刑方法があったのですが、政治犯の場合は十字刑だったそうです。 で、男同士のチューは日本人からすれば、同性愛者と思うかもしれませんが、敬意を示す場合、相手にチューをするそうです。 敬意のレベルが高い場合、相手の口にチューをするんだったような。 で、物語というか神話って、人とともに移動するので、内容は同じでも、登場人物の名前が違ったりする。 モーセの生い立ちの話は、アッカド神話のサルゴンの生い立ちからと同じことから、サルゴン神話が、イスラエルに伝わると、内容は同じでもモーセってなったんですね。 で、エジプトのミシスは石版をもらった。 インドに伝わるとマヌウ、クレタではミノス、エジプトだとミシス。 イスラエルだとモセス。 で、ヨセフは12人の兄弟がいて、イエスは12人のブラザーがいて、ヨセフは銀貨20枚で売られて、イエスは銀貨30枚で売られたことになっている。 ヨセフは兄弟のユダに売られ、イエスはユダに売られた。 というわけで、伝言ゲームすると、少しづつ元の話からズレて伝わるわけですね。 人の記憶ってあてにならないものです。 で、何故死を達成させるかというと、大地を再生させるため。 その冬至の冬至は一年のうちで日の出の時間が一番短いので、死を連想させるものなわけです。 12月25日が冬至だったので、一番日が出ている時間が短い。 でも冬至を過ぎるとだんだん日が出ているのが長くなるわけです。 冬至が終わると復活する。 何がかというと太陽。 太陽は夏至を境にだんだん日が出ている時間が短くなる。 だんだん弱くなっているわけです。 で、12月22-24日の三日間は地上付近にまるで停止したようになる。 あくまで視覚的に停止したかのように見える。 で、この3日間の時、南十字座があって、その下に太陽は位置する。 12月25日になると、南十字座の下にあった太陽は上昇し、南十時座に張り付けるなるわけです。 これが、太陽(神)の磔刑。 で、なんで太陽の死に対して敬意を表するかというと、おそらくタンムズ神話の模倣だと思います。 1年に一回、身代わりに十字刑になるタンムズさんが元ネタだと思います。 で、タンムズさんの時代はおそらくおひつじ座の時代なので、身代わりの羊、良き羊飼いタンムズと信仰されていた。 これがイエスの話を作った作家の創作ヒントになったわけです。 イエスも良き羊飼い、身代わりに殺されるって内容ですよね。 殺されてくれることで、そこから先は復活をし、地上に豊穣をもららすと何千年も前作られたのを、イエスの作者はタンムズとせずに、イエスって変えたわけです。 ただし北半球のじゃそうでしょうけど、南半球は北半球が冬至の時期は真夏です。 あと、 >完全無欠の神には憎悪とか軽蔑という不の感情など必要がない。 いえ聖書には「私はねたみ神だ」と神が言ったと書いてあります。 バベルの塔を人間が作って神に近づいたとき、このままだと人間は神を脅かすに違いないとして、神は人間に恐れをなして、逆転される前に とバベルの塔を破壊し、言語をバラバラにして、言語が違うため、うまく意志の疎通ができなくなり、大きなプロジェクトを人間はすることができなくなった と書いてあります。 神様 「ふぅぅ これで自分を脅かす脅威は去った」ってほっと胸をなでおろしたって話ですね。 他には「人間なんて作らなければよかった」と自分がやったことを後悔し、人間だけじゃなく動物も皆殺しにしようとして大洪水を起こしてます。 この話も他の文明の神話から拝借したものですが。 あとは、、大虐殺を民に命じて皆殺しも命令した。 「女・子供も容赦なく殺せ、ただし、処女だけは生かしておけ」って。 つまり征服した部族の男は皆殺しにしその系統のY染色体は絶命させ、mtDNAを持つ生娘は強姦して、自分たちのY染色体を増やせって命令したわけで。。。。 ヒョウだったか、別のオスヒョウを食い殺し、その子供のヒョウも食い殺し、その妻に種付けするんですが、人間もヒョウと同じってわけですね。 というわけで、完全無欠どころか、後悔したり、怒ったり、殺人を命令したり、まるで普通のしょーもない人間となんら変わりない者として聖書には描かれています。 >どうして残酷な十字架を愛でるかのように、 とてもありがたいもののように扱っているのですか? ということで、十字架は地上にあるのではなく天空にあるあれのことで、普通 サザンクロスとか呼ばれております。 で、サザンクロスが愛されているのではなく、地上の豊穣のために太陽が死んで、また復活することを ありがたやーとしているわけです。 ただし、地球のある地点ではそうですが、南半球ではそういう現象は見れません。 ましてや 地球の外から観察したら、太陽は北半球の冬至にサザンクロスのクロスしません。 ずーーっと昼も夜もなく爆発しまくってます。 爆発しているのは、怒っているからじゃなくて核爆発をしているから。 そういう物質でできているので、ずっと燃えているんです。 太陽は、人間が自分の望むようなふるまいをしなかったからと怒って天のの岩戸に隠れたり、もっと燃えて地球から水分をなくしてやる、洪水起こして動物全部溺死させてやる~ 後悔しても遅いわ 俺の恐ろしさを存分に味わえ などそういった意志をもって行動はしていません。 で、天空を擬人化してまるで意志を持っているかのように物語りにすることで、意思を持たない惑星に生命を吹き込んだのは人間の方。 とはいえ、太陽は生命の存続にとって無くてはならないものなので、やはりこれなくして人間は生存できないので、ありがたや~ なわけですね。

noname#91067
質問者

補足

回答の域を超えて沢山の見解ありがとうございます。 楽しく読ませていただきました。 聖書もイエス自身が記した文献じゃないのだから色んな解釈が生じたり都合により書き換えられていってしまうことは十分考えられる。 イエスの言葉に「汝、敵を愛せ。味方を愛したところで何の利があるだろうか」というのがありますよね。赦すことが難しい人にとって(誰もが自分が可愛いし)敵を愛するとはどういう心持であるのか、態度なのかと考えたこともあります。日本の武士道だとわが身の命より名誉を重んじることもあって敵といえども勇敢だと認める相手には相手が拒んでも切られに行くと勇敢とされたりと似ているのかな。 遺伝子にある要素(後天的に得る言語や表現の能力なども)なら理解しやすい。自分にないものは理解不能となるのが種という狭窄さ。 善悪とか正誤、美醜とか愛憎の二元論を種も天空にもあてはめて。 人類が何千年前から、さほど進化してない理由として、あいも変わらず二元論ばっかりしてる。というのがあります。

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その他の回答 (8)

回答No.9

>心ってあるというより伝わるものなのかな。 私は心があるというものでもないという感じなんです。< miko-desiさんが 書くとみんなステキ(詩的)になるんですね。

noname#91067
質問者

補足

arayata333さん、あまりの鼓舞激励に涙より目から汗(?)です。降参です。私の詩は趣味とも特技とも呼べないもので、涙みたいに意志が命じれる範疇のもじゃないのでしょうね。 アラン定義集で涙は「回復の兆候」と、幸福論では「理性の下地にある平和」として健全性を示してましたね。 arayata333さんはマスターもしておられたのですよね、マスターは涙枯らすカクテル作るのが役目なので、加勢しないでください(泣笑)。 こんなに言葉におもてなされるとは。「茶の本/岡倉覚三」も凄い本でした。自身で本格的に実践したことはまだなく下衆が適当なことを書きますが、arayata333さんの茶目っ気がおありで、そこに奥が深~い、深すぎて日本では日常にもあるのになの茶道を感じます。 「わが身における真面目ながらの滑稽(小なるものの偉大を感じること)を知らないならば、人間享楽の茶碗はいかにも狭いものではないか、いかにも早く涙で溢れるではないか。無辺を貪る渇きのあまり一気に飲み干されるではないか。渋いか甘いか疑わしいかは客を待つ運命に任せて」の優美を示してもらったような。こんなにもてなされたことは初めてなぐらい。 茶道や文芸の深いことを知らなくても幸せはあるし哲学もあるし泣き笑いして生きていける。人間享楽の茶碗の小ささ、その偉大さを経験としてよく知るarayata333さんの言葉こそオリジナルで溢れる泉水のごとくですね。あれっぽちの質問と回答からこんなに膨大に溢れるとは…。 泣いて溢れてどうしようもない奴の哲学をこれからも精進します。もうなかなか進歩してませんのですけど。苦悩も涙も人間の不断の友ですものね。ありがとうございます。

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回答No.8

すみません。 続けて書きますね。 歌についての私の質問への そちらのご回答の文に触れて私自身が何故かわかりませんが、 涙を体験しています。 ほんとになぜだかわからないのです。 しかも それが泣こうとしてるとか泣いてるとかいう感覚なしに ただ涙が出てくる涙だったのです。 たぶん、言葉の置き方の素直さの問題だったのだと思います。 文章自体ははるかにうまくなっています。 それでも 言い回しが詩のリズムです。  言葉に勢いのある含みが生まれています。 でも何も涙が出てくるのはなぜなのかまでは 私の理解力を超えていました。 ただ、これなら 私はもう歳で体力も(今の状態で 多少気力もそがれてるのでしょうけど)無い人間ですので、私がアランを 日本人に解りやすく解説してやろうというところまでいきそうにないので、 貴女のような人こそ それにもっとのふさわしいのではないかと思えたことは確かです。 貴女にこそ、それをやってほしくなってしまったのです。 そういう大きな夢をもってほしくなったのです。 だから はっきりと、解りにくい文でもある点を書いたのです。 その原因についてもです。 この質問にしても、 キリスト教のこれからにとって最も重要だと思えるようなことを 詩的な言葉で書かれています。 こんなふうな質問は誰も出来ないです。 「どうして惨酷な十字架を愛でるかのように、 とてもありがたいもののように扱っているのですか?」 この質問の結び自体、どんな回答よりも重みあると私は思います。 アランは 私の考えでは、当時の哲学を改革し人というよりも、感情とか表現制作とかの心の世界、感性教育のおくれまで指摘した、しかも今のプラグチズムをも内包しているかのような実際家の面ももった、  今でも大改革者でありうるようなそんな哲学者であり教育者でもあったのだと思います。 まだまだ その真価は  おそらくフランス人にすら知られていないとも思っています。 情を扱うには情を知る者である必要があります。 アランは詩についても語っているかと思います。 詩心のだれよりもあるミコさんが いつかそれを解説したら、  最高だと思えてしまうのです。 味わいはすでに そちらのコメントの文には光っています。 いい文が生まれています。   だから、私も本気になってしまうのだと思います。 いいたいことが解っていただけると幸いです。 どんな役者も 流そうと思ってない流してる感覚さへない涙を 流すことはできないと思います。   それも生きられた真実です。  詩の心の世界はすごいです。  言葉は記号に過ぎない世界でもあるんです。 でもそのならべからが 素直の心からの 詩心からのものであるときには、そのような関係性の力が生まれるんです。 アランも 出来るなら貴女のような人に自分を紹介してほしいと思うでしょう。   私も同じ気持ちになってしまうのです。 この気持ち 理屈じゃないんで、私はうまくかけません。 でも解ってほしいです。 出来なくたっていいです。 フランス語が話せる程度なのかもしれませんし、そのへんはよく知らないのです。  でも気持ちはわかってほしいです。 アランがほんとうはいわゆる信仰者かどうかも 私は知りません。 そこまでよく読んではいません。 でも 貴女こそ、 今の形だけにもなってしまってるキリスト教会の世界にアランの熱き心を取り戻せる人、 貴女自身こそ「十字架に接吻」の問いの答えを いつしか最大に回答できる人と思いました。 やっぱり うまく書けませんけどね。  以上です。

noname#91067
質問者

補足

心ってあるというより伝わるものなのかな。 私は心があるというものでもないという感じなんです。 ここまでの回答、みなさんありがとうございます。 返信が滞ってしまい申し訳ありません。 雑用に追われて自分の時間も、じっくり検討する思考余地もないのです。 でもみなさんの回答をありがたく拝見するうち、問題点が変わったりいろいろ反省したり、同時に浮かれたり~。 少し時間を頂ますお許しを。

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回答No.7

信仰とか信心とかを持ってる人とかに接すると がっかりすることが多かったです。 自分で考える力を 何かおこがましいことと考えることが宗祖への謙虚さであるかのような感じで そういう謙虚さこそが信仰とか信心なんだと 考えてしまってる人ばかりでしたからね。 宗祖が本物ならば、それを知ったらびっくりして腰を抜かしてしまうかもしれません。  物事を正直にしっかり見据えて 疑問は疑問として正し続ける心をこそ説いていただろうと思うからです。 そんな安易な考えのあるところに、どうせ本当の信仰の世界なんて無いんです。 キリスト教だって、 マンネリ化もしてますし、まじめな人の信仰にしても似たようなものです。   ほんとのキリスト教徒ならば、キリストや聖書を疑って疑って疑いぬくはずです。 それが 信頼してみることであることを哲学する脳を持ってるからです。     アランのような人は、たしか一度は聖書から離れています。 哲学の広大な知識とともにある知恵の世界と較べて、キリストの言葉は、庶民の寓話みたいな例え話でしかないと馬鹿にする気持ちとなってしまったキリスト教哲学者や文学者は多いと思います。  でもそのような人が 人生の深みって結局は とてもシンプルなものでもあることに気がついて、新約聖書の世界にもどってきます。 ミコさんが 以前このサイトのコメントにて書いてくださった詩は、ある青年に「なぜだかしらないけど、涙が出てくる」と言われたそうですね。 そういう力が そちらの詩心の中にはあります。 > 涙って、時には抑えるほどに声も涙もかえってあふれてくる時もありますし、 さらには、泣こうとしていないのに涙をながしている感覚すら無いのになぜか 涙がこぼれてくる時があったりします。   ほんとにシンプルで深い命の何かに触れた時です。 その詩、 ここにも掲載させていただきますね。 その前後の文もいい文章なので表示させていただきます。 私はしがないパート主婦ですが「ポエマー」なんです。 旅行で海外に行くとそう名乗ってます(笑)。英語も国語も成績は最悪だったの にも関わらず初めから上手く書けないのは承知で詩を投稿したところ、とても上 手な詩を書く憧れのような人(学生さんでした)が「自然に涙が」と一言だけく れたんですよ。どんな感想より嬉しかったです。 それが子供のことを詩にしたものでした。 「子供はみんないい子だよ」 どんな私とでも疑いもなく着いて着て 抱きしめてくれる もうそれだけでいい そのままのあなたを 変える必要が見当たらないよ 子供はみんないい子だよ 忘れかけてた笑い方や泣き方 愛し方を教えてくれる というものですが、孤独を愛しどうってことなく生きててそんな時に生まれた子 で、孤独以外にも苦悩もあって自由もあるって知らなかったんです。それぐらい 私は常識とかからズレてたんです。 比較するものもなく当たり前のように、苦悩が当たり前のように、そして仲直り だって許しだって自然にしてくれた。 いつか、すぐに自然に帰ってしまいそうな、軽くて小さい、柔らかくて温かい命 に教わったからこそ少しは自然な気持ちが取り戻せたのだと思います。< 私も 赤ちゃんの最初の笑いとか微笑みには、人間のふるさとがあると思っています。   ただの微笑み、 こんなシンプルであたりまえに思える世界はありません。 でも 人間の希望のメッセージのすべてが、そこに凝縮されてもいると私は思っているのです。 詳しく書けば長くなるので ここでは略しますけどね。 ミコさんも、その詩心の原点をけして忘れないでください。 ほんとうのキリスト教の信仰の世界は、 真に感情も豊かな世界ですし奥の深いものです。    しかし、私は海外とかに行きませんのでよく知りませんが、またそういう姿を見たこともありませんが、 クリスチャンが十字架にキスをするのはおそらく 単なる無感情か 弱い感覚の儀礼とか習慣みたいになってる何かだと思います。    形骸化した宗教の中での、そうした慣習とか意味のない癖とかいったものだと思うのです。  感謝の気持ちとかも少しはあったとしても、それは底の浅いものにすぎないと思います。 ほんとうのウソとかの混ざることのない涙の世界は、そういう感情の世界が何かあるわけではないと思うのです。 アランが ふたたび新約聖書(キリストは旧約聖書への最初の反逆者でもある。)に戻ってきたような 純粋で新鮮な感動とかの世界とは 縁もゆかりもないような ほとんど無意味な「接吻」の世界だと思う。 キリストの映画は私は 其の宣伝映像しか見てませんが、あきらかにキリストの言葉を実地に写していた時の解釈とかの世界からは、 まったくといっていいほど浅い解釈でのキリスト像となっています。  キリスト教のまじめな映画には かなり多くの人ががっかりしていると思います。(表面だけリアルにしたって、この場合意味はないんです。) アランが語るような キリストの世界はもっともっと奥の深いものです。 この「十字架に接吻」の習慣について、深く考える必要は無いかと思います。 肌で心を通わす日本人にとって、接吻とは時としてかなり深い肉感的な愛情を意味します。  外国では接吻自体、たんなる慣習ともなっていたりします。 その表面的な儀礼の行為から、 キリスト教の中の本物たちの心に疑問を持つ必要は無いと思うのです。 本物と言えるようなキリスト教徒たちは、 十字架に神の愛とは何であるのかを教わっているかと思います。 あらゆるこの存在の中の苦しみを その人そのものとして理解しているのは神の知性だけなんです。 でも神は人間を助けたりはしないんです。 其のことをキリストは 若いのに命を賭けて 神って 神の愛ってこんなんだよと シンプルに奥深く語ってくれたのが、そういう笑みのようなものが十字架の意味です。  キリスト自体は人間なのですから すごいですよね。 アランのような人は、こうして 赤ちゃんのような純粋な メッセージの世界がそこにあることを知り キリストの言葉の世界に戻ってくるんです。 だけれども、それでもなお、疑っていいのがキリスト教なんですよ。 kigurumiさんは、たしかキリストはプラトンの弟子か学習者という 歴史的見方をしていますが、 そうなのかもしれません。 それならプラトンと見直すだけでいいのです。        私たちは、アランのような人とともに真実だけを追いかけてゆけばいいのだと思います。 信仰はあるとすれば 自然なものでいいのであって、なんら人の強制する必要のない世界だと思います。  それよりも、 真実を みなさんといっしょにさらにさらに、求め続けてゆきましょう。

noname#91067
質問者

お礼

お礼が遅れて申し訳ありません。 クリスチャンが十字架を大事にする気持ちは感謝の気持ちがあってと推測します。十字架には有限の命の象徴を感じます。 命が有限であるからこそ現実が痛い、苦しいような人は終わりが来ること=死も救われる希望なのではないかと。これも推測です。

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  • kigurumi
  • ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.6

No.4です。 >汝、敵を愛せ。味方を愛したところで何の利があるだろうか」というのがありますよね。 ええ、これが拡大解釈され、「神はユダヤ人のみから、ユダヤ人以外も愛するにようになった。 神は契約内容を書き換えた。」と主張したのが、キリスト教ですよね。 神が「自分の判断は間違いでした。訂正します。 言い直しますね」と言った? だから内容を書き換えて新しくしたのが、新約聖書? ちょっと待て。間違えをする神って・・・・。 最初から普遍の真理の理念を固めてから命令して欲しいものです。 譲許によって変わるのなら真理じゃないし普遍じゃない。 真理 真理というイエスに向かってピラトが「真理とはなんぞ」と問うたシーンがありますよね。 イエスはその問いになんと答えたでしょう。 まあ、神の言うことは普遍か は置いておいて・・・。 この物語の中に、良き隣人のたとえ話があります。 サマリア人が登場します。 イスラエル王国は紀元前1000年頃 できました。初代国王 サウル。 (そういえば、パウロの本名はサウルかサウロだったような。まあ 物語は繰り返し別バージョンが作られてきましたから。) で、簡単に言うと、このイスラエル王国から政治的に分裂して、ユダ族とベニアミン族が独立し、新しい国を作ったため、イスラエル王億は2国になったわけですね。 元を北、新しくできたのを南としますね。 北イスラエル王国の首都の名前はサマリア。 意味は、、、なんだったかな? 女神の名前だったか、、、忘れた。 自然と一体となり山を神の神殿として崇めていた北と、砂漠に人工物を神殿を立ててそれを神の家と拝んでいた南イスラエル王国。 で、政治的なものと宗教的なものは一致していた当時、分裂した南イスラエル王国は、北イスラエル王国がアッシリアに滅ぼされたとき、ざまーみろ って思ったわけです。 で、北イスラエルが10支族で構成されており、南がユダとベニアミン族で構成されており、北の10支族は混血になり純粋じゃなくなった とか、南の人たちが軽蔑していたわけです。 (そもそもこの一族は代々 別の種族と混血し続けていますが・・・ まあ 相手を悪く言うことで、自分たちの地位あげようとしたってわけですね。) で、南もバビロンに負けてたわけですが、レンズ豆と引き換えに長子権を譲った人の子孫が、ローマに協力したことで、再度王国が持て、それがヘロデ大王。 彼は直系じゃないので、人々の信頼を勝ち取るため、神殿を再建しました。 国の事業なので、大量に人が首都に集まって仕事に従事したようですね。 朝から働いている人と、終業の少し前に雇われた人が同じ賃金ってのは許せんってことも、イエスは主のやることにモンクは言うな って答えてますね。 で、ユダ王国の人たちは、サマリア人の宗教とは体制が違うので、サマリア人を馬鹿にしていたわけです。 (やーい 混血 とか 北が間違えていたから神様はアッシリアによって滅ぼされ、血を汚されたんだ とかね) 同じイスラエルの子孫なのに南は北の子孫を見下していたわけです。 で、、、、 結局 イエスが言ったことは、「同じイスラエルの子孫じゃないか。 なにサマリア人を馬鹿にしとるんだ。同じ祖先を持つ兄弟じゃないか 血縁関係にあるのだから 仲良くしなさい。」 そう言っただけで、ローマ人や日本人も神様は愛するようになった など言っていない。 なのに、拡大解釈されてしまったわけです。 イエスの言ったことは、あくまで「同じイスラエルの血を引く者同士 結束して、仲良くしましょう。」なわけです。 ちなみにイエスは「敵を憎めと言われているが」と言っているようになっているが、旧約聖書のどこにも「敵を憎め」など書いてない。 <汝、敵を愛せ。味方を愛したところで何の利があるだろうか> これはですね、たとえ話で説明されています。 例えば隣人にお金を貸したとしますよね。 日ごろ仲たがいしている相手が、日没までに借金を返せない場合、「相手がにくたらしい相手だから、質に入れた服はもらう」ってやっては駄目 って言っている。 仲がいい人には「いいよ いいよ 返せるときで」と言い、嫌いな相手には「返せないなら質にいれた服はもらう」と言ってはならない とイエスは述べている。 どうしてか。 それがその人にとっての唯一の服なら、その人は夜 寒い思いをしてしまうから。 そんなことは神様は望まない だから 返済できなくても無利子で返してあげなさい ってイエス作家は説いている。 これが敵の意味。 ローマ兵を敵と言っているのではない。 同じイスラエルの共同体の愛を解いているわけです。 えっと、、イスラエルってヤコブのことです。 このイエスの言葉を拡大解釈して、ローマ市民を統率するのに利用したのが、コンスタンティヌス1世じゃないか と。 政治的にイエスの言葉を利用し、ローマ帝国の拡大に使った。 で、占領予定の地域に聖職者を尖兵として派遣し、情報収集し、金銀財宝の取れる地域を自分の支配下に取り込むため、キリスト教を使っていったのが、皇帝たち。 肥沃な土地を持つ地域も、穀物庫として抑えていき取り込み、兵士たちの食料を確保して勢力を増大させていった。 これがローマ帝国の繁栄をもたらした。 で、中国も広大な土地があり、欲しい。 で、ローマ帝国の子孫は、そのために日本を足場にしようとした。 殉教すると天国にいけると思った日本人は必死に日本の武将たちにたてついた。 侵略の片棒をかつがされているとも知らずに。 あぶなかったですねぇ。 ふぐは食いたいが毒は怖い。 だからキリスト教から日本を守るために鎖国したという歴史が日本にはあります。 外箱は隣人愛って書いてありますけど、中身は侵略。 神の愛って 支配者に利用される程度になりさがっていて、神様 かわいそうですね。

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noname#80116
noname#80116
回答No.5

 ★ 私に信仰はありませんが、キリスト教に疑問があります。  ☆ わたしに信仰はありますが キリスト教に疑問があります。いえ 自己解体すべしという意見を持っています。血を流し過ぎたことも さることながら 個人の信仰を 集団としての倫理規範として 社会を管理組織のごとくにしていると考えるからです。つまりその根から 悪だと考えます。  ★ クリスチャンはよく十字架にキスするんですよね。  ☆ 趣味の問題です。  ★ そして、イエスも十字架を背負いゴルゴタの丘に向う途中 / 「死を達成させるための十字架」に接吻した。  ☆ 知りませんでした。映画での創作のようですが。    ★ 完全無欠の神には憎悪とか軽蔑という不(負)の感情など必要がない。  ☆ 神が《完全無欠》であると言うのは 絶対者としての神にとっては 人間が勝手におこなう飾り付けのようなものです。個人が信仰として抱く内容を 組織のもとに集団化し社会化した宗教が わざわざ 道徳規範とするのと 同じような 精神の想像物であるに過ぎません。ほんとうに神であるなら 完全であるかどうかさえ 人間には分かりません。人間が考える完全であるかどうかを超えています。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  仮に慈悲深いということは善悪の規則がないに等しいということであっても、 / キリスト教では感謝を示す行為のようにも映ります。  それを人間である信者が真似てみたところで感情的になるばかりではありませんか? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《十字架に接吻する》のが 《感謝を示す行為のようにも映る》ということでしょうか? これは 単なる趣味の問題だと捉えてください。――《神が 善悪を超えている》というのは 上に触れました。――《感情的に》なりたいというなら そのときには ならせておきましょう。  ★ どうして残酷な十字架を愛でるかのように、 / とてもありがたいもののように扱っているのですか?  ☆ 被虐趣味と言ってもいいのでしょうけれど 世界が 思うようにならない / 生き難い といった無力感また閉塞感からでしょうね。逆に その反面では 強力だと見せかける行動にも出るようですよね。困ったものです。

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  • wiz0621
  • ベストアンサー率42% (182/430)
回答No.3

ナザレのイエスという死ぬはずの無い存在が死んだことは キリスト教における最大の矛盾であり、神学上その矛盾を解決する為の 様々なアプローチが行われています。 おそらく最も一般的なのはイエスはこの世の全ての罪を背負って死んだ、 という解釈でしょう。つまり、十字架は人間の罪の象徴であると共に 人間の罪を世界の外側に連れ去ってくれた神の慈愛の象徴なのです。 つまり、彼らにとっては十字架は処刑具ではありません。

noname#91067
質問者

補足

回答ありがとうございます。 >彼らにとっては十字架は処刑具ではありません。 最大の矛盾は、その後(死後)にイエスが復活することや人間の罪を背負い人間を罪から救ったということかもですね。全否定はしませんよ。一理も何理もあると思う。 私も深い考えもなく十字架がデザインされた服とか持ってたりします。理由として不謹慎です、神に失礼かもしれませんが、アナーキーリズム(反骨精神)を感じたから…だと思う。あえていうなら仏教、道教に興味を持つのですが、これも自己の矛盾かな。

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回答No.2

イエスさまが十字架に接吻されたというのは正当な 聖書にはないはずです。たしかな聖典によって議論する ことが大切だと感じました。

noname#91067
質問者

補足

回答ありがとうございます。そして聖書のことはよく理解してこなかったので、ありがとうございます。 私がこの場面を提議したのは「パッション」という映画を見て、それは当時の風俗や言語にまで忠実に再現したらしいものだったので聖書にもある場面と思ってました。

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  • myeyesonly
  • ベストアンサー率36% (3818/10368)
回答No.1

こんにちは。 確かに不思議な光景ですよね。 私も時々、十字架にちゅ~してる時、あの十字架に電気を流したら面白い・・・(▼▼)=0☆ =(xx)・・・などと罰当たりな事を考えます。 キリスト教では聖遺物という考え方(捉え方?)があるみたいで、教祖や教皇、聖人などに関わった物品(遺体や病気で手術時した時に取り出した標本なども)は礼拝の対象になるみたいです。 多分そういうところから来てるのではないでしょうか。

noname#91067
質問者

補足

早速の回答ありがとうございます。 アランの幸福論を読んでいて、「愛と憎悪の混ざったもの。それが人間であり、行為であり、制作である」とありました。神は純粋に強靭な愛によっての行為したのだろうか?とは思いました。 けど完璧な、神々しい人間をまだみたことありませんし、いくら信心深くあっても神にはなれないだろうと(生きながら)。 >キリスト教では聖遺物という考え方(捉え方?)があるみたいで、教祖や教皇、聖人などに関わった物品(遺体や病気で手術時した時に取り出した標本なども)は礼拝の対象になるみたいです。 ということで、わかりました。 そのものの役割、質のことよりも「聖なる」が付けばどんなものでもいい? みたいな?

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  • 谷から台へ

    此処。前は神ヶ谷と言いました、今町名が変わって大平台と言います 谷を埋めて台に成って行くんでしょうね・・?、どうなるかなあ・・? ゴルゴダの丘じゃないですよ、あれは昔です >(国語)ゴルゴタ[Golgotha] (三省堂「大辞林 第二版」より) イスラエル、イエスが十字架の刑に処せられたエルサレム郊外の丘。カルバリア。 世の中は大きく動いていますね、覚醒中なんでしょうね? 貴方は今、何を思っていますか? 貴方の考えを教えて下さい、お願いします! >YouTube - 聖書の真実@YouTube イエス・キリストの復活 The ... まあ、私はワンニャーかなと思っていますよ! >ゆっことワンニャー家族の画像

  • 主にお委ねしなさい。

    私は、キリスト教信者です。 プロテスタントです。。 約1年前にバプテスマを受けました。 他のクリスチャンの方、牧師さんなどから よく「主にお委ねしなさい」という表現で アドバイスを受けることがあります。 しかし、「委ね方」がわかりません。。 私より、ずっと長い信仰を持っているクリスチャン に、そうアドバイス頂いても 「はい」としか答えられません。。 こんな質問をここでするのも、神に失礼とは 思っております。。 しかし、「霊的に・・・」とか「語りかけを・・・」とか 言われても私には、理解し難いものがあります。。 信仰の世界に、正解はないとは思ってますが 信仰を持って、何事にも強く生きたいのです。。 信仰を肌で感じたいです。。 どうぞ、なんでも構いません。。 アドバイス等ございましたら、返答願います。

  • アルメニア正教会イコンの謎解き。

     よろしくお願いします。  添付画像は、アルメニアのセバン湖にあるアルメニア正教会至聖所に掲げてあるイコンですが、このイコンちょっと変わっています。  聖母マリアと幼子キリストですが、よく見るとそのキリストが十字架を抱えています。その上、写実的な表現で金槌とやっとこ、それに槍。さらに影のような表現で人の手とブラシのようなものが描かれています。  キリストの一生あるいは重要なエピソードを時間的に圧縮して、このイコンのなかに表現していると考えられます。  キリストは自らが磔刑に処せられる重い十字架を担いでゴルゴタの丘に登ります。⇒キリストが十字架を抱えている。  そして手と足に釘を打たれ十字架に架けられます。⇒金槌  長い苦痛の末に死を迎えると、ローマ兵ロンギニスによって槍で右脇腹を突かれ死を確認されます。⇒槍、ロンギニスの槍。  そして手と足の釘を抜かれ、十字架から下ろされ、埋葬されます。⇒ヤットコ。  その解釈が正しいとしても画面下部の黒い手とブラシ様の物の意味がわかりません。皆様のお考え、あるいはイコンの描き方として定まった意味があれば、それをご教授ください。  よろしくお願いいたします。  なお撮影は2014年7月、イコンは新しい物です。

  • カトリックの信仰について

    最近キリスト教(特にカトリック)に興味を持って調べ始めました。 カトリックでは、洗礼を受けた信者の方はその教会に属するということを知りました。 そこで浮かんだ疑問なのですが、例えば、洗礼を受けたけれども、信仰がうすれてしまったなどの理由で教会に通うのをやめる方もおられると思います。 そういったクリスチャンは教会には無所属となるのでしょうか。「●年通わなかったので除名」といった扱いはあるのでしょうか。 カトリックに興味を持ったきっかけが日本史で、よく「棄教」という表現がされているため、時代が違えどもカトリックに棄教という考えがあるのかどうか、また、信仰をやめることについてどのように捉えられているのか、を知りたく思っています。 クリスチャンの方にとって失礼な質問ではないかと思いますが、調べても分からなかったので、こちらで質問させていただきました。 宜しくお願いします。

  • なぜナザレのイエスを神として扱うのか

    こんにちは。 西洋史を個人的に勉強していて、必然的にすこしキリスト教の歴史についても触れるのですが、タイトルの件がよく理解できません。 というのも、同じ一神教のユダヤ教やイスラム教の預言者とされる人たちは、神ではなくあくまで人間として扱われていると思います。実際、イスラム教ではイエスを預言者として認めているものの、あくまで人間として扱いますよね。 しかし、キリスト教の正統派においてはなぜ三位一体という直感的に理解できない理屈を採用してまで、ゴルゴダの丘で磔刑にされたナザレのイエスを神として扱うようになったのでしょうか?普通にわかりやすく、神がイエスを人間の代表として罪を背負わせるために遣わした。とかではだめだったのでしょうか? 回答に期待する内容としては、信仰心に基づいた神学的解釈というより、キリスト教の歴史として、なぜそうである必要があったかを知れるものをいただきたいです。 よろしくお願いします。

  • なぜイエスを子なる神として扱うのか

    こんにちは。先程誤って質問を締め切ってしまったので再投稿です。 西洋史を個人的に勉強していて、必然的にすこしキリスト教の歴史についても触れるのですが、タイトルの件がよく理解できません。 というのも、同じ一神教のユダヤ教やイスラム教の預言者とされる人たちは、神ではなくあくまで人間として扱われていると思います。実際、イスラム教ではイエスを預言者として認めているものの、あくまで人間として扱いますよね。 しかし、キリスト教の正統派においてはなぜ三位一体という直感的に理解できない理屈を採用してまで、ゴルゴダの丘で磔刑にされたナザレのイエスを神として扱うようになったのでしょうか?普通にわかりやすく、神がイエスを人間の代表として罪を背負わせるために遣わした。とかではだめだったのでしょうか? 回答に期待する内容としては、信仰心に基づいた神学的解釈というより、キリスト教の歴史として、なぜそうである必要があったかを知れるものをいただきたいです。 よろしくお願いします。

  • 神に宣誓はできないことは、間違っていますか?

    こんにちは。25歳の男子です。 2年間つきあったクリスチャン(プロテスタント福音派)の彼女と結婚することになり、準備を進めています。 お互いのことは好きあっていますが、信仰の不一致から結婚はあきらめてしました。 しかし最近、彼女から「互いの信仰に干渉しないから結婚しましょう」と、 私の提案を受け入れてくれ、その前提で結婚することに決めました。 彼女は自身の教会で式を挙げたいこともあり、当教会の牧師さんと相談したところ「未信者との式は原則禁止であるが、 4878さんが、『今は信じることはできないけど、生涯を通してキリスト信仰を追い求めることを誓う』なら 教会での挙式は可能」と回答をいただきました。 私は、結婚の条件として、彼女のご両親から「1ヶ月は教会に来ること」として約束し、来会はしていますが、 先に述べたとおり、私は自分の信仰を曲げるつもりはありません。 従って、上記の牧師さんの提案を受けることはできないのですが、 この場合、彼女にとっては、というよりも女性にとってクリスチャンにとって不幸なことなのでしょうか? 当然、彼女の本音を聞くべきですが、多くの意見を伺いたいです。

  • キリスト教と葛藤

    私はキリスト教信者です。 聖書を読めば読むほど、私は罪深く、死に値する人間です。 どの御言葉を読んでも、私が思っている価値や思いとは正反対です。 クリスチャンとして、その道をいきたいと思っていますが・・・。 とにかく、葛藤です。 仕事後はずっと聖書や、キリスト教の書籍を読んでますが、知識だけで 感情が全くともわない人間です。 母教会の方にも、相談はしておりますが 「貴方は、神にとって尊い」といわれます。 でも、そんなことはないんです。 どうか、この場を通して、神の言葉を受けることができればと願っております。

このQ&Aのポイント
  • PHPのファイルをオープンして書き込むための関数を作成したいと思います。
  • POSTメソッドで受け取ったデータを曜日と時間に分けてクーロンファイルに書き込む処理を実装したいです。
  • 曜日と時間の情報をフォームから受け取り、クーロンファイルに設定するための処理を作成します。
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