• 締切済み

チケット転売は悪か

人気アイドル・嵐などのアーティストのライブのケット転売が問題となっています。 http://gendai.ismedia.jp/articles/-/49569 単純な疑問です。 転売を悪と決めつけるのであれば、 転売屋から購入しなければよいのではないでしょうか? そういう行為(購入)が悪を助長すると思います。 「仕方ない」などという理由は、通用しないのではないかと考えます。 「自分には力・武器がないから、暴力団を頼る」と似ているのでしょうか。 一部の人間が転売屋から購入するため、転売屋が存在しているのであれば、 そういう一部の人間を非難するべきだと思います。 悪(転売屋)は変わりません。更生しません。それで生活しているのかもしれません。 転売が違法であれば、警察に通報すべきでは? ps. ・私は、ライブには一度も行ったことがありません。転売屋からも購入したことはありません。もちろん、転売屋ではありません。感情的になると物事を冷静に、中立に、正確に把握・判断できません。知識もないとダメですので本質問でご教示いただければと思います。 ・転売により、正規の料金で購入できない。という問題は、私でも理解できました。 ・「転売には、論理的な問題がある」と言われていますが、そうであれば、購入しないという選択肢が、論理的かつ有効な手段だと思います。 ・タイトルはそうなっていますが、「転売が悪・善・問題なのか」の質問ではありません。購入しない選択肢は有効なのか。そうであれば、なぜそう選択しないのか、という質問です。 よろしくお願いします。

みんなの回答

回答No.7

善悪でいうと、転売が、ではなく、切実にほしいと思っているものをその思いと関係なく買い占める行為が悪ですね。 違法かどうかではなく、集団社会で生きる上、いわゆる道徳としてと、経済的な効率面の両方において、正しくないです。 東洋経済だったかな、おばかな記事が載っていて、高く売らない売り手が悪い、という主旨の記事がありました。 集団社会で、一部の人による買い占め、いわゆる占有が悪なのは、例えば生きるために必要なもの、米や塩を占有できると、占有者はいくらでも高値で売ることができ絶対的な富を得られるのに対して、その高値で買えなかった人が飢餓に陥ることになるためです。 本人がいらないものを買うというのも、ひとりで一枚しか買わないとしても、そういう集団が存在してしまうと買い占めと同じ効果を持つんじゃないかと思います。 この反社会行為が違法でないときが一番危うくて、飢餓に陥った人たちは、歴史的には米騒動や打ち壊しなど、社会ルール自体を破壊する過激な動きをとることがあります。 この手の飢餓による暴動って、警察や軍隊などの国家の力で押さえ込めないときがあるほど怖いものだと思います。 で、経済がきちんと回るまで、米や塩は政府の専売だったわけですね。 チケットくらいどーでもいい、と私は思ってますが、一定数の人が手に入らないと飢餓状態になるようなチケットがこの世に存在するとしたなら、考え方としては、必要のない人がそれを占有して売り惜しみや利ざやを稼ぐ行為は、反社会的な行為で、かつ、危ない状況だと思います。 そこまでのものがあれば、ですが。

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7194/21844)
回答No.6

なぜ転売がいけないのか、といえばこれは 戦後の食糧難の時に、配給切符を買い占めたり して、餓死者が出たり、暴力団の資金源に なったりする、という実害があったからです。 現代ではそういう実害があるから、という のではなく、たぶんに行政刑法化しています。 つまり、悪いから取り締まる、というのでは なく、法でそうなっているから、というだけの 面が強く、経済活動の自由に反するわけです。 転売を悪と決めつけるのであれば、 転売屋から購入しなければよいのではないでしょうか? そういう行為(購入)が悪を助長すると思います。     ↑ その通りです。 しかし、購入する人は、誰に迷惑をかけている わけでもなし、お金を出す俺の自由だろう と考え、罪悪感が無いのです。 なぜそう選択しないのか   ↑ 欲しいという欲望と、誰に迷惑を掛けるわけ でもない、という理屈が購入を促して いるのだと思います。 男の不倫と同じです。 男の80%は不倫を悪いことだとは思っていない という調査結果もあります。 給料を嫁さんに渡しているし、家にも帰って くるし、子供の面倒もみている。 何が悪い、ということです。

  • bardfish
  • ベストアンサー率28% (5029/17765)
回答No.5

>購入しない選択肢は有効なのか。そうであれば、なぜそう選択しないのか、という質問です。 テストのような明確な回答はありませんよね。 テンバイヤーからチケットを買う人の購入動機なんて人それぞれなんですから・・・ ファン心理というのもあるでしょう。 チケットを買うことにより、贔屓のアーティストを応援しているという意識。 ライブの臨場感を味わいたいからどうしてもチケットがほしい! ファングッズはチケット入場しないと買えないから! それらの複合とか、熱心になりすぎて義務として毎回チケットを購入している。 とか、いろいろと理由は考えられますよね。 もうこういうのになると心理学の領域になるんじゃないでしょうか? 転売が問題なのではなく、組織的にチケットを買い占めて高額で転売するという業者が問題。 ダフ屋を取り締まる規制はあるけどネットは対象外。 規制そのものが古臭くて時代に則していないことも問題を複雑にしていると思う。

  • mrst48
  • ベストアンサー率9% (303/3050)
回答No.4

チケット購入者が コンサート・イベント・スポーツ観戦等に行くつもりだったが、何らかの理由で 行くことが出来なくなったのか、当初から転売目的かは 判断できませんね。 オークションや、買取り業者が チケットの買取りを一斉にやめ 行けなくなった方への救済措置として 開演時間前まで、所属事務所・所属企業 もしくは、開催場所の企業が 販売価格で買い取る仕組み等を 作らないとムリでしょうね。 区アンセルになったチケットが出たら、すぐに 各所をオンラインで結んで、キャンセル販売券のような、 チケット販売が、可能だと思うのですが・・・。

  • eroero4649
  • ベストアンサー率31% (10498/33014)
回答No.3

ゲーム理論というのがありまして、その基本が「囚人のジレンマ」と呼ばれる命題です。これについて説明するとただでさえ饒舌な私の回答が更に長くなるので検索して頂くとして、このゲーム理論の命題のひとつに「牧場のジレンマ」というのがあります。 ある貧しい村では村人それぞれが牛を飼うことができないので、10人でお金を出し合って共同牧場を作り、村人1人あたり1頭の牛を飼うことにしました。牧場は10頭の牛を飼うのにちょうどよい広さです。すると1人の村人がズルをしてこっそり2頭の牛を飼い始めました。10頭の牛を飼うのにちょうどいいスペースなので、11頭の牛がいると1頭あたりの体が小さくなり、売れる値段が安くなります。しかし2頭飼っている村人は1頭あたりが安くなっても2頭分の売上でより儲けることができます。 それを見て他の村人も牛の数を増やしたらどうなるでしょうか。ある地点を過ぎると2頭売ったとしても儲けがより少なくなってしまって全員が損をします。つまり、理想としては「他の奴らがルールをバカ正直に守って、自分が抜け駆けする」ということになるわけですが、しかして全員が同じことを考えたら全員損をする、というジレンマに悩むことになります。これが「牧場のジレンマ」です。 これは転売に応用できます。全員が転売屋から買わなければ、チケットは無駄に高騰しないし転売屋による買い占めも起きませんからそれがファンにとって一番の利益になります。しかし、誰かが抜け駆けをすればその人は比較的安値でチケットが手に入ります。しかしそれを考えてみんなが同じ行動に出ればチケットの値段は高騰し転売屋にとってもオイシイ話になるので買い占めようとします。ファンは文字通りに牧場のジレンマに悩まされるのです。 ちなみに囚人のジレンマでは「お互いが約束を守ったほうが利益になるのに、裏切った方がより利益になるというパラドックスが生じるので裏切るのが合理的」という結果になってしまいます。チケットのジレンマも同じようなことになってしまうのです。 転売屋をほぼ締め出しているといわれるのが西川貴教さんだそうです。西川さん自身も昔から転売屋から買わないようにファンに呼びかけていて、またファンも転売屋(ダフ屋)が出てくると「買うフリをして買わない」という嫌がらせまでするそうで・笑、今は転売屋も近づかないそうです。ただ、そうなるまでには結構な時間もかかったようですし、女性ファンが多いですから、全体のルールに逆らうとコンサートにも行けなくなるのは宝塚はじめ女の園のお約束でもありますね。AKBなんかは男性ファンによる結束なんて望めない(むしろメンバー同士の対立を煽っています)ので不可能でしょう。 もうひとつの問題としては、「チケットが異常に手に入りにくい」という問題もあると思います。昔はファンクラブに入っていればまあだいたいコンサートには行けたものです。しかし今はファンクラブに入っても「優先【抽選権】」が与えられるに過ぎません。だからジャニーズや東方神起(←めちゃくちゃチケットが手に入らないことで有名です)のファンはまずファンクラブで優先抽選に申し込み、それに外れたら一般抽選に申し込み、という行動をしないといけなくなります。しかも的中率が低いので全国のコンサートに片っ端から申し込み、当たったらそれが北海道だろうが四国だろうがそこに行くという状況になっています。 東京のファンが北海道から九州までの全コンサートに応募して、四国のファンも北海道から九州までの全コンサートに応募するわけですから、皮肉にもこれによってより的中率が低くなるのです。みんなが地元のコンサートにだけ応募すればそれなりの的中率に落ち着くのに。ここにも「牧場のジレンマ」が顔を出すのです。 音楽業界は転売屋を批判し被害者のような顔をしていますが、アーティストの価値を高止まりさせるために客に不満を持たせるシステムを使って平然としているというのもどうかとは思いますね。 ただ、それは音楽業界に限った話ではなく、スマホゲームなんかもやたらと課金させようとえげつないことをやっていますから、今の世の中のビジネス全体が「限られた客から乾いた雑巾を絞るようにケツの毛どころか指の毛までむしっていく」という方向性にあるのかもしれませんね。嘆かわしいことですけどね。

  • mojya2012
  • ベストアンサー率42% (64/150)
回答No.2

転売は問題になっていないと思います。 売買する行為自体は問題ではないのです。 それだけでは悪にはなりません。 問題は、転売する目的で大量購入したり買い占めたりして 値段を釣りあげて売る様な業者(ダフ屋)がいる事が問題なのです。 法律などは詳しくありませんが、これは法律以前のモラルの問題ですね。 ラーメン屋でも公衆便所でも駅でもバス停でも、 何か順番を待つとき、自然と列を作って並ぶのが日本人のモラル感覚ですよね。 それは六法全書には書いてありませんが、不要ないざこざを起こさない為に、 みんながそうする事に納得して、そうしているのです。 チケットの予約は必要枚数だけする。 それも個人個人が念頭におくべきモラルなんですよ。 みんな、いい席に座りたいから予約開始のヨーイドン!でネットや電話などを使い、 必要な分だけ買っていくわけですからね。 それを、見る気もないのに高値転売する事を前提に大量に買い占めてしまう様な行為は、 誰も納得しないモラルに反した行為だと思いませんか? もうちょっと分りやすく言えば、ダフ屋という存在は、 大震災で誰もが物資に困っているときにコンビニに売ってある食料や飲料水を 自分さえ助かればそれでいいと1人が全て買い占めてしまう様な行為と同じだと思います。 それは、法律で黒にならなくても悪ですよね。

hp_win7
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 勉強になりました。

  • citytombi
  • ベストアンサー率19% (1721/8628)
回答No.1

まず、転売屋かどうかは分かりません。 行くつもりでチケットを買ったけど、直前になって行けなくなった人も売ると思いますから、その区別は出来ないと思います。 >購入しない選択肢は有効なのか プラチナチケットは、ファンだったらどうしても入手したいのが常ですね。 そういう心理を逆手にとって転売屋は高値で売るわけですが、ファンからしたら「その金額を払っても行く価値がある」と思うのでしょうね。 そういう心理需要がある限り、供給はなくならないと思います。

hp_win7
質問者

お礼

>需要がある限り、供給はなくならないと思います。 ご回答ありがとうございます。

関連するQ&A

  • チケット転売

    事情により行けなくなったライブのチケットがあり、チケット転売サイト等で(買い手が欲しいので)定価より安い値段で売りたいと思っています。 チケットには「営利目的の転売禁止・転売チケットの入場不可」と記載されています。 営利目的の転売でなければ、なんの問題もなく取引・そして購入された方は入場できるのでしょうか?

  • 転売

    ライブチケットの転売は犯罪になるのでしょうか。 いわゆるダフ屋やオークションでの個人によるものなど。 一応チケットには「転売禁止」書いてありますが。 もちろん私が転売をするから質問したのでなく、知人がやっているので。 また転売で購入するのもついでに教えてください。

  • 絶対善が支配する世界における悪の役割

    私たちは日々様々な選択を行いますが、共通して言えることはもっとも良いと思われる選択を常に行うという事です。 商品の購入、進路の選択、他人の相談に対する回答、日々のありとあらゆる行動の基準が最善を選択しようとしています。 最善とは今持っている選択肢の中で最も良いと思われる選択肢です。 時間の経過に伴いこの選択は必ずしも最善ではなかったと思われる場合も出てきますが、その時点では最善を選んだはずです。 逆に言えば最善以外を選択することはできません。 この「最善を選択しようとする人の性質」を絶対善と呼べないでしょうか。 ・絶対とは逆らえないという意味です。どんな場合も最善以外は選択できません。 ・善とは最も良いと思われる選択です。 道徳的善悪にはその判断となる対象ががあります、人助けは善、人の物を盗むのは悪など。 しかし、絶対善には特定の対象はありません。最善と思われるものを選択するという原理だけです。 絶対善の法則に従い他人を傷つけることが最善と思われればそれを選択します。 この単純な原理は道徳的善悪の基礎になっています。 善行も悪行もその基礎に絶対善が含まれています。 ではすべての選択が絶対善に基づいているとすると悪とはなんでしょうか。 「地獄への道は善意によって舗装されている」なんて言葉が示すとおり、本質的に独善としての側面を持っています。 この『善』の暴走を阻止するため、リミッターの役割として「悪という概念」があるのではないでしょうか。 本人は最善を選んではいますが、他者から見ればそれは行き過ぎた善、或いは他者の存在を考慮しない善です。 見方を変えれば「悪」とは独善という名の『善』なわけです。 絶対善が支配するこの世界で悪(相対悪)の役割は善に対するブレーキではないでしょうか。 ちなみに絶対悪はこの世界にはありません。 理由は簡単でコインの表のどこを探してもコインの裏がないのと同じです。 ですから絶対善が支配するこの世界のどこを探しても絶対悪は存在しません。 お盆ですからこんなことを考えてみるのも一興ではないでしょうか。

  • 絶対善世界における悪の役割

    私たちは日々様々な選択を行いますが、共通して言えることはもっとも良いと思われる選択を常に行うという事です。 商品の購入、進路の選択、他人の相談に対する回答、日々のありとあらゆる行動の基準が最善を選択しようとしています。 最善とは今持っている選択肢の中で最も良いと思われる選択肢です。 時間の経過に伴いこの選択は必ずしも最善ではなかったと思われる場合も出てきますが、その時点では最善を選んだはずです。 逆に言えば最善以外を選択することはできません。 この「最善を選択しようとする人の性質」を絶対善と呼べないでしょうか。 ・絶対とは逆らえないという意味です。どんな場合も最善以外は選択できません。 ・善とは最も良いと思われる選択です。 道徳的善悪にはその判断となる対象ががあります、人助けは善、人の物を盗むのは悪など。 しかし、絶対善には特定の対象はありません。最善と思われるものを選択するという原理だけです。 絶対善の法則に従い他人を傷つけることが最善と思われればそれを選択します。 この単純な原理は道徳的善悪を含んでなお最善を選ぼうとします。 では。すべての選択が絶対善に基づいているとすると悪とはなんでしょうか。 地獄への道は善意によって舗装されているなんて言葉が示すとおり、本質的に独善としての側面を持っています。 この『善』の暴走を阻止するため、リミッターの役割として「悪という概念」があるのではないでしょうか。 本人は最善を選んではいますが、他者から見ればそれは行き過ぎた善、或いは他者の存在を考慮しない善です。 見方を変えれば「悪」とは独善という名の『善』なわけです。 絶対善が支配するこの世界で悪(相対悪)の役割は善に対するブレーキのようです ちなみに絶対悪はこの世界にはありません。 コインの表のどこを探してもコインの裏がないのと同じです。 相対的な善悪で自分自身を責めるのはその辺でやめた方がいいんじゃないでしょうか。 どのみち私たちは絶対善からは逃れられないのですから。

  • 絶対善世界における悪の役割

    私たちは日々様々な選択を行いますが、共通して言えることはもっとも良いと思われる選択を常に行うという事です。 商品の購入、進路の選択、他人の相談に対する回答、日々のありとあらゆる行動の基準が最善を選択しようとしています。 最善とは今持っている選択肢の中で最も良いと思われる選択肢です。 時間の経過に伴いこの選択は必ずしも最善ではなかったと思われる場合も出てきますが、その時点では最善を選んだはずです。 逆に言えば最善以外を選択することはできません。 この「最善を選択しようとする人の性質」を絶対善と呼べないでしょうか。 ・絶対とは逆らえないという意味です。どんな場合も最善以外は選択できません。 ・善とは最も良いと思われる選択です。 道徳的善悪にはその判断となる対象ががあります、人助けは善、人の物を盗むのは悪など。 しかし、絶対善には特定の対象はありません。最善と思われるものを選択するという原理だけです。 絶対善の法則に従い他人を傷つけることが最善と思われればそれを選択します。 この単純な原理は道徳的善悪を含んでなお最善を選ぼうとします。 では。すべての選択が絶対善に基づいているとすると悪とはなんでしょうか。 地獄への道は善意によって舗装されているなんて言葉が示すとおり、本質的に独善としての側面を持っています。 この『善』の暴走を阻止するため、リミッターの役割として「悪という概念」があるのではないでしょうか。 本人は最善を選んではいますが、他者から見ればそれは行き過ぎた善、或いは他者の存在を考慮しない善です。 見方を変えれば「悪」とは独善という名の『善』なわけです。 絶対善が支配するこの世界で悪(相対悪)の役割は善に対するブレーキのようです ちなみに絶対悪はこの世界にはありません。 コインの表のどこを探してもコインの裏がないのと同じです。 たまにはこんなことを考えてみるのはどうでしょう。 考えることを止められないなら、いっそのこと世界の仕組みについて考察するのもいいんじゃないでしょうか。

  • オークションの転売について

    オークションで出品する際に、転売行為になるかどうかについて質問します。 例えば、あるアーティストのオフィシャルサイトから転売不可と書いてあるCDをネット通販で購入し、その商品を視聴して、自分の好みではなくて、そのCDが要らなくなって、定価以下でオークションに出品したとします。 そして、その商品が定価以上で落札されてしまった場合、これは転売行為になりうるのでしょうか? あと、この場合、取り引きしても法的には問題ないのでしょうか? オークションのルールや、法律も詳しくないので、よかったら教えて下さい。

  • 転売、オークションについて

    お世話になります。 最近は個人が、ライヴのチケットなど転売目的で購入して高値で売ると問題になるようですが、どうしてダメなんでしょうか? たとえば昔のリカちゃん人形など、オークションで高く売れるのは問題ないですよね? なのになぜ、チケットはダメなんでしょうか? 昔から、ダフ屋とかって、チケットを高く売るのを職業にしている人たちもいますが、職業にしたらダメということですか? 個人ならいいのですか? もし、個人ならOKであれば、どれくらいまでが個人で、どこからがダフ屋扱いになるという線引きはなるのでしょうか? そもそもどうして、チケットは他の物と違った扱いにされるんですか? 定価が同じ6000円のものを6万円で売るのに、チケットはダメ、人形ならOKというのが、よくわかりません。 他にも定価からかけ離れた値段で売ったら問題になったり犯罪になるものって、ありますか? チケットの転売で暮らしている個人、あるいはグループって、絶対いると思うのですが、摘発される、されないの違いも教えてください。 宜しくお願いします。

  • オークションのライブチケットについて

    昨日、ヤフーオークションでライブチケットを落札しました。 まだ支払いはしておりません。 実はライブに行くのはこれで二度目で、オークションの経験もあまり無かったのですが、とても好きなアーティストでしたので即決してしまいました。 座席は列は明記されていて、座席番号は20何番台というようにぼかして販売されていました。 なぜ座席を教えてくれないのかな?と思っていたのですが、落札後調べてみますと転売が禁止されているチケットがあることが分かり心配しています。 そこで教えていただきたいのは以下の点です。 1.自身が購入チケットが転売禁止に指定されているのか、どこで分かるのでしょうか。 2.転売禁止チケットを購入した場合、どのような対処がされるのでしょうか。私自身(購入者)が訴えられたり、警察沙汰に巻き込まれたりすることがあるのでしょうか? 3.オークションで購入する行為が問題な場合、送金もまだですので、今から落札を取り消すことはできるのでしょうか。それとも落札を取り消すほうが問題なのでしょうか。。 仕事の関係上、トラブルに巻き込まれるのは避けたいです。 ご助言よろしくお願いいたします。

  • 究極の悪とは――存在について――

     《Q:悪は 存在しない》=http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4642854.html を承けて あたかもその一見 例外であるような形態を この質問で 取り上げます。  ○ 《究極の悪(または 人間にとっての真の敵)》とは 何か。  ○ じつは 神学には 悪の究極の形態について 理論がつくられています。その実在性を問います。  悪は こころのへそ曲がりに発します。うそ のことです。  ウソと言う限りで ウソでない心のありか または あり方があるはづです。それを 善と呼ぶとすれば 悪は 善のひねくれ・ねじ曲がりであり それが くせとなれば 善が損傷を受け 欠けていきます。  つまり 悪は 悪というものが なにか・どこかに 他の一切のものから独立して存在するのではなく 善が減少していくにつれ 現われると考えます。自然本性と言うべき心としての善が減ること・また善を減らすこと これを 悪と呼び 善が減った状態のことも 悪と呼ぶという見方です。  さすれば 悪の究極とは 人間存在にそなわった善が すべて 欠如した状態を言うと推し測られます。  これは 単純な例として 身体の抹殺(つまり 殺すことですね) あるいは 精神的に 無視し無関心となること(あるいはつまり 虫けらとして ひとを扱うこと)を挙げることができます。  言いかえると 悪の究極とは 身体にとっても精神にとっても 死のことです。存在の消滅のことです。  ところが 《悪は 存在しない》という基礎命題は この究極の悪としての《死》が死ぬということを 内包しています。善が欠けただけなのですから 埋め合わすことができるという主張です。減った分を 増やせばよいとなります。すっからかんとなって なくなっても まだなお 善を回復すればよいという考え方です。  ここで 悪の究極の究極とは この《〈善の完全な欠如である究極の悪である死〉が死ななくなる》ことだと言います。初めの死が 第一の死だとすれば その死が死ななくなるということは 死の確定・固定を意味するようです。つまり 善の欠如のままであるという意味です。  これが 《第二の死》と呼ばれる《とどのつまりの悪》だという説明です。俗に言う《生けるしかばね》でしょうか。  果たして この もはや元の善に戻ることのない《第二の死》としての最終的な悪は 実在するものでしょうか。ぜひ ご教授ください。  * わたしの感触としましては いまのところ このように《第二の死》としての悪が 想像上で考えられているというその理論を知れば 初めの善なる存在ないし《わたし》に戻ることができる。というふうに捉えるなら それだけで じゅうぶんなのかも知れないという捉え方です。果たして どうでしょう。お知恵を拝借します。

  • 転売許可について

    以前別のカテゴリにて同じ質問をしたのですが、あまり良い回答が得られなかったので改めて質問させていただきました。 私は海外から雑貨などを購入し日本で個人事業として販売したいのですが、海外先からの転売許可などを得ないと何か問題がありますでしょうか? 例えば、海外のTシャツを業者としてではなく個人のお客として購入しそれを日本で販売するという形です。 詳しい方よろしくお願いします。