• ベストアンサー

のびのびと自由に生きていける社会を築くために

すべてのひとびとがのびのび生きていけるような社会を作ってゆくために、私たちはどのように、他人と接し、社会に関わり、法に携わり、自分自身を発展させることができるのでしょうか・・・・?? 意見をきかせて下さい(>_<)

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
回答No.7

他人との接し方ならば、 まずはこの社会をよく観察しましょう。よく観察すれば、弱者を除け者にし、強者に媚を売るスネオ君がなんともまぁ多いことかが解ると思います。ネットでさえもその兆候がよく表れていますが、そういったことに影響されず、まずは自分からそれを止めればいいのではないかと思います。 相手が心の面で少し可笑しな人物だと感じたら、一切相手にせず、加担もせず、徹底した無視を行いながら、貴方なりの信念を持って行動していればいいのではないでしょうか。 心の汚れた人間は、だいたい心の汚れた人間同士で見え見えの徒党を組んでいますので、そういった者との接点を持つのは自分の為にも賢明ではありません。 もし貴方が飢えたハイエナの群れの中に自ら身を投じるお釈迦様のような精神を持っているなら話は別ですが(あれはトラか?) さらにこの世の中は、何かをやろうとすれば、必ず足を引っ張ろうとする者が出現し、 その狙いは、相手を怒らせ冷静さを失わせることにより、自分と同じ枠組みや愚かな世界観の中に引き摺り下ろそうとする心理が働いています。 それを徹底的に無視し、自分の選択肢を常に志の高い方に向けてればいいだけの事だと思いますよ。 しかしそんな質問をしてるくらいだから、質問者の方は、既にそいった方向に向いているのかもしれませんけどね。

その他の回答 (6)

  • hajime76
  • ベストアンサー率0% (0/2)
回答No.6

 すべての人々が、野比のび太のように生きていけるような社会を作ってゆくために。  のび太くんは、勉強も駄目、喧嘩もからっきし、で、あやとりと拳銃扱いだけ、人並み以上にできる。あやとりは性愛対象を疑ってしまうし、拳銃は嗜虐性を疑ってしまう。  かねがね思っているのですが、あんなに頼りっきりにしてるドラえもんがいない「学校」に行ってる時間を、のび太はどう過ごしてるのでしょう。ぼくは、ドラえもんはのび太の幻想なんぢゃないか、と思うんですね。超自我といいかえてもいい。それは実体をともなったなにかや誰かである必要はない。超自我といっても、勉強しなさいとか言わない。わりかしのび太のヨワヨワさに傾れてしまう。でもいつも見つめてくれている。  よく、親のような目で子供たちを、とかいうけど、むしろ、そういう目線だけを、「親のような」と呼ぶべきだとぼくは思ってるんですね。YAWARA!の松田さんとかもそうです。そういう目線は、男女とか、血縁の有無とか、実在不在を超えている。  『自由について考える』とかいう、大澤真幸と東浩紀の対論が出てます。管理社会を批判というより「批評」してます。行き着く先がどこだろうと、希望を見失わないために、長野まゆみの『テレヴィジョン・シティ』もお勧めします。

noname#15238
noname#15238
回答No.5

積極的なことは申せませんが。 無駄と知りつつ、ひとまず、不満があれば、選挙に行きましょう。 つぎに、あなた自身が、のびのび自由に生きましょう。 いつか、きっと、だれかが、真似します。

  • 1941
  • ベストアンサー率14% (4/28)
回答No.4

「全ての人に愛をもって接する」は理想ですが、神ならぬ我々凡人には不可能です。                   しかしその前段階として「多くの人々(特に弱者)を一個の存在として認め、受け入れる」努力をすべきではないでしょうか。                                                          他の人々を批判的に見たり、自分にとっての利用価値として考える人たちが多ければのびのびと生きていける社会は不可能だと思います。                                                                         例えば、子供が生まれたらまず自分と同等の価値有る存在と考えることです。親の一方的な価値観や欲望を押し付けるべきではありません。                                                                    もう一つの敵は、支配欲だと思います。これがある限り社会は勝者と敗者に別れ、敗者は弱者となり不幸が始まります。                                                      私は、金正日、フセイン、読売の渡辺オーナー、堤義明、池田大作等々を憎みます。                                                             彼らのような存在が社会で受け入れられている限りけして、のびのびと生きていける社会は実現しないでしょう。                                                                  参考までに次の本をご紹介します。                                                     「自我の終焉」  J.クリシュナムーティ著   篠崎書林。  是非一読をお勧めします。

noname#8119
noname#8119
回答No.3

私もそればっか考えてます。 個人的には、とりあえず自分だけでも弱者に愛情を持って接し(自分が弱者だけど)、 アメリカ以外ではうまくいかないと有名なアメリカ型競争社会にはなるべく自分の身を投げ入れないようにし(仕事の環境選び)、 地震雲の研究者で奈良市長だった故・鍵田さんの提唱していた、「田園都市生活」~都会の暮らしを捨て、田園に帰る~というものに多くの人が目覚め、 国の生産率が下がってもスペインなんかのようにお昼時間が長くてお昼を食べに家に帰ることもできるような生活ができ、 ニュージーランドなどのように家や食料品の税金は安かったり無税だったり(反対に高級品・嗜好品は高価で高税)、 裁判官にはもうちょっと勇気を持ってもらい、 トドメに官僚の天下り先をなくせばクリーンで健全な社会になれそうなんですけど。。

回答No.2

自分の意志で生まれてきた人はいません。 ですから、自分の為に私は生まれてきたと 言える人もいないわけですよね。 そうだとすると、「自分の為に私は生きる」と 言えば、それは明らかに、間違いだ・・・!! ということに気づくべきなんですね。 私たち人類は、自分の為に生まれてきたのではなく、 誰かの為に生まれてきたので、価値があるのです。 自分の為に生まれてきたのなら、それは単なる自慰行為 でしょ? 何の価値もありません。 創造目的=存在目的=存在価値なのです。 ましてや、人間は自分の為に生まれてきたのでは ないんでしょうから、明らかに、誰かの為に 生まれてきたのか、さもなくば、単なる偶然に生まれた かの、いずれか一方なのです。それ以外にはありません。 もし、私たち人間が単なる偶然に生まれてきたのなら、 創造目的がないんだから、存在価値が本来ありません。 生きていることに価値がありません。 自分たちで勝手に慰めあい、存在してしまっている 事実を以って、存在価値を求めようとしても、それは、 ナンセンスなんですね。だから、人間の尊厳性も人権も 何もあったもんじゃない。 ですから、われわれは、人間を必要として、創造された 創造主なる神様の存在をまず知ることからはじめないと 人生、本当の意味で価値がないのです。 まず神様の存在を信じることからすべてははじまります。 神様は、人類の父母であられます。そして、 人類は皆兄弟なのです。 ですから、人類一大家族世界が実現されれば、これこそ、 まさに、地上天国なのですね。 それには、親なる神様をお迎えしなければ、兄弟も 家庭も何もないのです・・・・ 世界平和もそこからはじまります。 神様が存在するかしないか、多数決の原理で決めれますか? 私たちが信じる信じないの前に、まず存在しているか 存在していなかのです。 信じる信じないの前に、そのことが、まず大問題なのです・・・ それでは、失礼します。

  • ko-pooh
  • ベストアンサー率9% (274/2999)
回答No.1

昔はチャップリンが、生きていくためには少しのお金と、、、、といっていたが、実際は現代社会ではちょっとのお金では、話にならない!! 全ての人がというのは情けない話だか無理?!!ありえない!! のではないでしょうか? 10万所持しているやつは100万を羨み、 1000万あるやつは10000万を羨み、、、、 永遠にきりがないきがします。

関連するQ&A

  • 理想的な社会

    皆さんの思う、理想的な社会はどんな社会だと思いますか。 そして、 その社会になったとき困る人は出てきませんか。 その社会になったとき、すべての人が過不足なく満足できますか。 その社会になったとき、すべての人が安心できますか。 その社会になったとき、他に問題は出てきませんか。 その社会は、自分さえよければよいといった所はありませんか。 その社会は、すべての人々の隅々まで見渡せますか。 その社会は、すべての人を見渡した時、誰かが誰かの犠牲になっているということはありませんか。

  • 法・法思想について

    法思想について皆様の意見を聞かせてください。教科書、他人の意見を無視してください。 法とは人為的に作られ成り立つものか、社会のなかで自然にでき成り立つものなのか? あなたはどう考えますか?答えは自由です。自分自身の考えを聞かせてください。

  • 社会の求める「誠実さ」とは

    先日、ある日本人のジャーナリストが、日本社会の関心を集めた、ある事件の被告人が実刑判決を受け、近いうちに収監されるという、現在時点での心境を記事にしたところ、誠実さにかんする、ひとつの議論へと発展しました。 (1) 犯罪の加害者が被害者にたいして、本心ではない<謝罪の言葉>を述べ、謝罪の<意思>を表わし、伝えることは、誠実な行為といえるのか。 (2) 犯罪の加害者が被害者にたいして、謝罪の意思がまったくない場合、それを被害者に明確に伝えることは、誠実な行為といえるのか。 社会における、一般的なコミュニケーション(たとえば、社会人としての振る舞い方、世間と個人の関係、など)においては、(1)と(2)、それぞれに、さまざまな意見がでてくるものと思います。それらは、社会における、一般的なコミュニケーションをモノサシ(判断基準)にしたものであると思います。 (1)が当然の行為であると考える人々がいる一方で、(2)という見方にたいしても、強い批判は存在するが、一定の理解が得られるものであると受けとめる人々は、いるのかもしれません。

  • 社会について

    大学生です。 世の中って厳しいんですよね? 今は学生ですが、大学の人間関係やバイト先や公共の場などの小さな孤独感と責任感など、何とも言えないような冷たく感じるものが最近少し感じるようになってきました。 私の意見ですが、大学生が一番社会的弱者なんじゃないかと思います。 高校までは親の責任で親に守られていたので弱者でも弱者じゃないと思います。 でも大学生は、親からも自立すべきだし、社会にもまだ正式には認められていないので、 すべて自分で責任を負うしかないのに、頼りない。 社会的弱者ではないかと思うんです。 これから社会に出て、生きていく自信がありません。 この世の中を生きていく為に必要なもの、持っていたいもの、自分自身に身に着けておいておきたいものなど、教えてください!

  • 競争社会について

    なぜインターネットが普及したは必然的だったのか? を考えていたら、その答えが競争社会では必然的だったのではないのかなと思いました。 御幣があり、多少オーバーではありますが、アメリカでは自分の幸せは自分で勝ち取る、他人と競争して幸せを勝ち取る。それは社会にとって良い事である。とメディアで見かけた事がありました。 もちろん競争原理がない国は少ないと思います。 話が逸れましたが、今の社会は昔(人が集団生活をし始めたころから) と比べて、競争社会は加速しているのでしょうか?? もし加速していたら、それは永遠と加速するのでしょうか? それと全世界の人々が競争しない世界と言うのは社会としてなりたつのでしょうか?

  • 技術と社会

    社会の変遷により 発展してきた、又 している技術。そして、社会を形成する、技術。 どんな、技術が代表として考えられるでしょうか? 意見下さい。

  • 開放系社会と閉鎖系社会

    人々の理想的社会に「桃源郷」というものがあります。 人界から隔絶し、わずかな善良な人々だけが暮らす村社会。欲望もなく発展もなく幸福だけがある。そんな社会。 そして、あるとき下界から欲にまみれた人が踏み込み、理想郷は破壊される。そんなストーリー。 欲を否定し、関係性の拡大を否定し、閉じこもった幸福を賞賛する価値観。それが桃源郷です。 鎖国を賞賛する価値観もこの文脈上にあると思います。 だが実際には閉鎖系社会は幻想に過ぎません。小説を持ち出すまでもなく、外部には未知の、アンコントローラブルな意思があります。それらと戦わなければ我々の社会は維持できません。 閉鎖系社会は必ず外部からの攻撃によって敗北します。 なぜなら、この理想的な閉鎖系社会は発展がないからです。 未知の外部と戦うためには、常に未知と戦いつづけ、常に未知と交流しつづけなければなりません。 そのために必要なのが「欲望」です。 欲望を捨てて幸福になることは、未来の敗北を約束します。 左翼の「理想」は、すべて「閉鎖系社会」を前提としたソリューションです。だから現実と合致しないのです。 開放系社会を前提とした理想を再構築し、社会の差異を受け入れ、外部からの攻撃に備えなければならない。 我々は地球文明だって閉鎖系だと思っているかもしれないが、数百年のうちに地球外文明と接触する可能性がないとはいえない。つまり地球文明も開放系です。 閉鎖系にとって理想は「安定と秩序」だとしても、開放系における理想は「成長と協調」以外にない。 成長の源泉は闘争心、勝ちたいと思う心、欲望です。 私はそう思います。 補足:死刑が望ましいかどうか、このような議論で考えるべきは局所的な論理的整合性ではない。 開放系である社会が生き残っていくために成長していくために望ましいシステムはなんなのか?それだけだ。 ------------------ さて質問どうしましょう・・・とりあえず左翼的価値観(平和・平等・博愛・多文化主義・死刑廃止)についてどう思いますか?

  • 社会学に詳しい方、お願いします。1

    社会学概説の授業で、以下の文章のそれぞれの作者と出典を調べる宿題があるのですが、全く分かりません。調べ方さえも…。もし何かわかる方がいらしたら教えて下さい。 1 私は私の内部を見つめる。私は私にしか用がない。絶えず私を考え、私を調べ、私を味わう。他の人々はよく考えるにしても、つねに自身以外のところに行き、つねに前に進むが、誰も自分の中に降りてゆこうとしない。私は私自身の中をころがる。 2 そんなことがどうしてわかりましょう、ヘルアマ。わたし、自分がどうなるかさえわからないのですもの。 3 僕は再び僕自身です。他の人なら街路に転がっていても拾い上げそうもないこの「自己」を、僕は再び手に入れました。 4 自我はあたかもそれが自分の意志であるかのように、エスの意志を行動に移すしかない。 5 人は女に生まれるのではない。女になるのだ。 6 「わたし」とは現実的で感性的な存在だ。そう、身体全体が「わたし」の自我、「わたし」の本質そのものなのだ。 7 いのちについた名前をこころと呼ぶ。 8 俳優の才能とはどういうことでしょうか。にせ者になる技術、自分の性格とは別の性格を装う技術、じっさいのじぶんとはちがう者に見えるようにする技術、冷静に情熱を感じ考えていることとは別のことを、ほんとうにそう考えているいるかのように、自然な態度で述べ、そして他人の地位を占めることによって自分自身の地位を忘れる、そういう技術です・・・(中略)・・・わたしはだれでもまじめな人に、そんなふうに自分を売り渡すことにはなにか卑屈で下等なものがあると、心の底で感じないかどうか言っていただきたいと思います。 つづきます。

  • 社会に出たら

    こんにちは。現在大学生のものです。 自分はよくバイトで社会で働く事になったらずっと働きっぱなしで自分の時間なんてなくなるから今のうちに好きな事やりたい事はすべてやっておいた方がいいよと言われます。社会に出て働いたらそんなに自分の時間はないんですか。それと大学の時が一番楽しくて社会にでたら働きっぱなしで楽しい事なんてないともいわれました。なので現在生きていても楽しくないみたいな事も言われました。もちろんこのような事は人により考え方がだいぶ違うと思います。 なので様々の方に意見を聞きたいと思うので考えている事思う事、現在体験して思う気持ちなどがあればご意見よろしくお願いします。

  • 帰納

    帰納法とは、「前提は正しいのに(真実なのに)、その結論が正しい(真実)とは限らない」ということなんでしょうか? 「法の原則が破られれば、社会の全ての人々を傷つける  ↓ 人々が法を破り続ければ、法の原則が破られる  ↓ ある人が法を破れば、その人は他の人々を傷つけていることになる」 これは帰納なんでしょうか? 何で帰納なんでしょうか?