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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:終戦の時に日本人は何を思ったのか?)

終戦の時に日本人は何を思ったのか?

このQ&Aのポイント
  • 日本人は戦争の終わりと完敗を知り、悔しさを感じた。
  • 現在の日本では戦争自体を忌み嫌い、自己主張を抑えて黙祷する。
  • 死者の家族は消え、戦勝国は祝賀の花火を上げている。

質問者が選んだベストアンサー

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  • SPS700
  • ベストアンサー率46% (15297/33016)
回答No.1

1。1945年の終戦の時、そして今年も訪れる終戦の日、私たち日本人は何を思ったのか?  他の人は、知りませんが、僕の場合、その放送は聞きましたが、聞きませんでした。もう少し詳しくいうとその時間、雑音は聞きましたが、内容は雑音のためわかりませんでした。  当時日本人が一億いたとすると、僕の1億分の1の思いは「今のは何?」という思いでした。 2。今後何を思うべきなのか?  これは大東亜共栄圏を潰そうとする(今もアセアン会議を環太平洋会議などと名を変えて割り込む動きは続いています)勢力のいじめに負けたわけですから、対抗策を練るべきでしょう。

angel25gt
質問者

お礼

停戦は、どこの国でも歓迎しますが、敗戦で喜ぶ国民は特殊です。そういった特殊性が現在に引き継がれ、戦争自体を忌み嫌う国民だらけにしているのでしょう。そのくせ、 「殺人犯には死刑を」って言い騒ぐんですから、筋が通ってないです・・・ ご回答ありがとうございました。

その他の回答 (11)

回答No.12

玉音放送自体は祝詞(のりと)の口調で話されていたので一般の人には何を言っているのか理解できなかったようです。 直後のアナウンサーによる解説を聞いたり、人伝てに敗戦の事実を聞いて初めて知ったと言うのが現実ではないでしょうか? 感じ方や影響は人それぞれであり、私の母は戦前戦中の考え方を殆ど変えていないですし、父は志願して兵役に就きましたが、戦後は反体制的な思想に染まった時期もあったようです。

angel25gt
質問者

お礼

「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び」って、うまい文章だと思いますよ。あなたの父親さまは、学生運動に参加したようですが、立派です。もう現在日本には、政治を変えようとする人間はいませんので・・・ ご回答ありがとうございました。

  • oyatsuya
  • ベストアンサー率21% (111/517)
回答No.11

かなりの年代の方々がネットに参加してらしたのが分かって驚いてます。 終戦の日、 生活に余裕のある人は思想をし、 無い人は希望を胸に寡黙に抱いて歩みだした ようですね。 今後は? 人間は形を変えてでも同じことを繰り返すべく作られている生きものだから 何を思っても いつの日かまた同じことをするでしょう。 けど、人間の中の、日本人に限定しての思想が特別な進化?変化?をするのかどうか もしかしてそれが人間の新しいニンゲンに変化?進化?するかどうか もしそれをしたいのなら、 特別な?異質な?思想?世界観?を充実させたニホンジンが 人間全部を絡め捕ってその世界観の中に引っ張り込んでさらに発展させなければ新しいニンゲンは常態化・定着・しないけど。 まぁ、不可能かと。 できると思う?

angel25gt
質問者

お礼

そういうことを言うと、ネトウヨから目をつけられますよ。私は経済左翼で精神右翼という、どっちつかずな人間ですから問題ありませんが・・・ ご回答ありがとうございました。

  • ithi
  • ベストアンサー率20% (1972/9602)
回答No.10

angel25gt さん、こんばんは。 とにかく戦争は終わった。広島、長崎みたいに原爆は落ちてこないし、東京みたいに焼夷弾の大空襲はもうない。要するに安心して生活ができるようになったと思ったでしょう。

angel25gt
質問者

お礼

こんばんわ。 戦争って、終わればいいって物じゃないと思いますね。ちゃんと勝たないと・・・ ご回答ありがとうございました。

  • foo10
  • ベストアンサー率5% (21/391)
回答No.9

日本の戦傷記念日ですね。 (親は「ああ、これでもう、天皇陛下の芋、掘んなくてもいいのだなぁ」と安堵したらしいよ)

angel25gt
質問者

お礼

うまい。私はばあ様に芋の蒸かしたやつを、よく作ってもらいましたよ。食いませんでしたが・・・ ご回答ありがとうございました。

  • dragon-man
  • ベストアンサー率19% (2711/13695)
回答No.8

5歳でした。何も考えませんでした。父親が戦死しました。小学生になった頃母親に教えられました。顔も覚えておらず、何の感慨もありませんでした。大空襲で家も家財も失いました。それでもその程度です。空襲に遭わなかったほとんどの日本人は何も考えなかったでしょう。そんなことより毎日の生活のほうが大変でしたから。そんな物です。今の時代の人は、前の戦争のことをノスタルジックに考えすぎです。皇居前で土下座している写真がありますが、あれはごく一部の恵まれた人たちです。あの写真を見て誤解してはいけません。

angel25gt
質問者

お礼

戦死と孤独死の、どこに違いがあるのでしょう。今の世の中、右も左も真っ暗闇じゃございませんか(鶴田浩二・談)ですよ・・・ ご回答ありがとうございました。

  • oya_zico
  • ベストアンサー率19% (397/2006)
回答No.7

戦後教育しか受けていない私達には想像も出来ないくらい辛くて、かつ、複雑な心境だったみたいです。 先日、私も、【靖国合祀】について疑問に思い、珍しく真面目な質問をしてみたのですが、 実際に戦争を経験していない熟女らしき人から、「戦争を軽く語るな!」と、張さん以上の一喝、意気消沈、撃沈させられたばかりです。 その熟女らしき人は、母親から戦争の話を聞き、映画『火垂るの墓』を見ては涙を流し、戦争反対の立場で戦争の悲惨さを語るも、反面、ハルノートの存在を理由に、アメリカ合衆国のせいで日本は戦争に追い込まれたので、戦争は仕方が無かった、だから、戦死していない戦犯も、実際に戦死した人々も、合祀しても全然構わないという考えでした。 ということで、ちょっとした質問をしただけで、田嶋陽子さん風に?「語るな」と怒られるのですから、今後、太平洋戦争については、経験者も未経験者も、深い傷には触れられたくないし、触れたくないのでしょう、被害者の立場で『火垂るの墓』や『はだしのゲン』を見て涙を流す事はあるでしょうが、美化出来ないような悲惨過ぎる戦争の現実については語られることも少なくなり、風化してしまうのかもしれません。 そういえば、戦争の悲惨さを子供達に伝えようとして、イスラム国の処刑シーンを子供達に見せた教師が居ましたが、SEX同様、子供達には隠すべきだったのでしょうか? 「喝!!!」 やはり、この問題に対する明確な答えも導き出せない私には、「戦争とは何ぞや?」と、軽く語ってはいけない問題なのかもしれませんね。

angel25gt
質問者

お礼

戦争も現在日本の弱者の境遇も、似たり寄ったりです。どうせ1度の人生ならば、戦い抜いて死にたいですね・・・ ご回答ありがとうございました。

  • nijjin
  • ベストアンサー率27% (4824/17825)
回答No.6

日本に残っていたのは子供や女性、お年よりが多かったでしょう・・・ おそらく、日本が負けたのは悲しいとか、子供や主人が戦死した人はそれが悲しいとは思ったのと同時に これでこの苦しみ・苦労も終わると思ったのでは? もう、空襲で焼夷弾が落ちることも無く、子供が戦争に行くことも無く 本土決戦のために戦うことも訓練することも無く安心して眠れる・・・ 疎開している人は家に帰れる 田畑も自由に耕せるようになれば食べ物も困らなくなる 爆撃されることも無いので飛んでいる飛行機に脅えることも逃げることも必要ない もう空襲警報は鳴らないのだから・・・ そして、何より平和になる(戦争・戦闘の必要がない)。 戦争のために徴兵された人はともかく 戦争を指揮していた軍関係者は気が気じゃなかったかもしれませんけどね。

angel25gt
質問者

お礼

日本が負け、そして終戦を迎えた時にホッとした人たちが、戦争の悲惨さと日本の間違いを吹聴してるのでしょう。間違っているのは、どっちやら、です・・・ ご回答ありがとうございました。

回答No.5

>終戦の時に日本人は何を思ったのか? 戦争するなら勝たねばいかんな。

angel25gt
質問者

お礼

まぁ基本はそうですが、勝てない相手にひれ伏せない場面もあるでしょう・・・ ご回答ありがとうございました。

  • kakuzan1
  • ベストアンサー率15% (45/298)
回答No.4

私の母は「やはり負けたんか」と思ったそうです。 親父のフネが湾に浮いたままで、後部飛行乾板に松の木数本置いてるの毎日見てたら、アメ公の飛行機が来て爆弾落とすのに主砲撃たず機銃だけで応戦し撃沈鎮座するのを見て、「こりゃ勝てん」って思ってたんだって。

angel25gt
質問者

お礼

うちの叔父の影響からか、私は大戦時のアメリカ軍を好きになれません。戦時中、叔父もまだ子供だったのですから、リアリティーはございませんが・・・ ご回答ありがとうございました。

noname#230414
noname#230414
回答No.3

私は7歳の時に戦災孤児になり1945年は8歳で上野の地下道・浅草の五重塔で寝泊りしていました、玉音放送を聴いたのは上野で戦争が終わったたと周りの人は防空壕に入らなくて青空の下で生活できると喜んでいました。(当時は空襲が毎日のようあり防空壕生活) 戦災孤児としてのつらい日々、世間からは浮浪児と呼ばれて、浮浪児狩りといって人間の扱いをしない犬・動物の檻に放り込まれて施設に連れて行かれる、国の犠牲で戦災孤児になつたのに人間として扱わない、施設では言う事を聞かないと往復ビンタで顔が腫れ引かない 内にビンタの繰り返し、また里親と気に会わずの拒否すると往復ビンタ仕方なしに里親のところに行くといじめられる、食べごろの子供でお腹もすくご飯のお代わりするとお前に食べさせる余裕は無いと言われては飛び出し、浮浪児に逆戻り夏は上野公園でセミを集めて焼いて食べることもありました。 食べるために、靴磨き親方に稼ぎの半分以上取られるが、3食食べられるのと布団で寝られるので、学校にもいかず毎日かせぎました、親方の家にあつたギターを練習して10曲位弾けるようなって、ギターを持って親方の所を飛び出して流し仕事をして3畳のアパト借りて自分の生活ができるようなり、学校も国民学校は行きませんでしたが中学からでも言いと想い昼は学校夜は流しの生活、勉強は基礎の低学年は受けていませんでしたので人一倍勉強しました。高校・大学・就職して親父探しいろいろ調べて、海軍でフイリッピン沖で撃沈されて生死不明で、もしかして生きて復員したのではと探し続けて50年間わからず私には戦後は終わっていません。 日本に13万人以上の戦災孤児がいた事を忘れないで欲しい。

angel25gt
質問者

お礼

そんな逆境の中で、よくぞそこまで自分を守り続けたものだと、感心いたします。世代は全然違いますが、私も含め、現在日本人の大多数が孤児みたいなものでしょう・・・ ご回答ありがとうございました。

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