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民主主義は、徹底的に話し合うこと、
民主主義は、徹底的に話し合うこと、 多数が少数の権利を入れることを言うのか、 民主主義とは? これから、 民主主義はどうなるのか? 日本の民主主義は、 民主主義なのだろうか? 民主主義の 利点、欠点、限界、盲点とは? 政治カテゴリー皆さんの ご回答のほど、 お待ちしております。
- 加藤(@hayyuji9401010)
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「民主主義」とは何でしょうか。何かを考えるときには、言葉そのものを分解して意味を探ってみることが役に立つ場合が多いです。民主主義の意味が文字の通りであれば、民を主にする主義ということです。では、「民主政(民主制)」とは何でしょうか。同じく文字通りには、民を主にする政治(体制)ということです。どうでしょうか――何もわかりませんね。これでわかったと言う人は、嘘が下手です。 そんな時は、外国語に翻訳してみるという手があります。民主主義も民主政も、英語では“democracy”ですが、その語源はギリシア語で「民(デーモス)」の「力(クラティア)」という意味らしいです。それが本当なのかどうかは知りません――たぶん本当なのでしょう――が、日本語との共通点はわかりました。とりあえず「民」です。それから、「民」の「力」とか、「民」が「主」になるとか、「民」の動きや状態が問題になるということですね。 しかし、「民」とは誰のことでしょうか(あるいは何のことでしょうか)。「民」の「力」とは、「民」が「主」になるとは、あるいは「民」を「主」にするとは、一体どういうことなのでしょうか。どうも、このまま言葉を分解していっても実りが少なさそうなので、この辺りで学問の力を借りることにしましょう(具体的に本にあたってみます)。 政治学では、デモクラシー(民主主義/民主政)が成り立つために必要とされる二つの要素として、「政治的平等」と「人民主権」を挙げるのが一般的です(ロバート・A.ダール『民主主義理論の基礎』(内山秀夫訳、未来社、1970年)、77頁)。政治的平等とは、政策決定に対する影響力が平等に分け与えられるということを意味します。王政・貴族政や独裁政治が民主的でないと言われるのは、そういう体制では政策決定に関する影響力が一人または少数の人に集中しており、その他の多くの人々が政治に対する参加や発言をすることができない状態、つまり政治的不平等が存在するのが第一の理由です。 もう一つの要素である人民主権は、国家を動かしていくただ一つの意思であり、最高権力である「主権」を、「人民」が持つということです。「人民」に含まれる範囲については様々な解釈がありえますが、基本的には平等な人同士で構成された集団を意味しています。一人または少数の人間が政治を動かす体制がデモクラシーに反すると言われる第二の理由は、そこでは主権が人民ではなく一人または少数の権力者に握られているからです。 さて、ここまでで、「民」の「力」とか「民」が「主」になるなどといった言い方の意味も多少ハッキリとしてくるでしょう。「民」とは、互いに平等な政治的影響力を持つ人間の集団、つまり「人民」のことです。それが「力」を持つとか「主」になるとか言うのは、政策を決め、国家を動かしていく原動力としての主権を手にするということを意味しています。まとめて言えば、多数の平等なメンバーによって構成される集団の意思(こうしたい/こうしよう)と行為(こうする/ああする)によって国家が運営されることを、デモクラシー(民主主義/民主政)と呼んでいるということです。 理念と体制――民主主義と民主政の区別と役割 以上で初歩的なところは押さえることができたはずですから、引き続き言葉の意味に注目しながら、より深いところに進んで行きましょう。できるだけわかりやすく話すようにしますから、どうか気負わずに付き合ってください。 先ほど言ったように、民主主義も民主政も、英語では同じ「デモクラシー」です。英語では一つの言葉が日本語ではなぜ二つに分かれて存在しているのかは、それ自体として考える価値のある問題ですが、ここでは無視します。とはいえ、せっかく二つに分かれているのですから、そこに意味を認めて両者を明確に区別することは、デモクラシーについての考えを整理するのにとても役に立つと、私は思います。 民主主義は、「主義ism」ですから、一つの理念的立場、それも価値に関する理念です。つまり民主主義とは、「何が良く(善く)て、何が悪いのか」についての判断を下す基準となる、ありうる様々な立場のうちの一つです。そのような立場として他に例えば、自由主義、社会主義、無政府主義、全体主義、個人主義、などがあります。 これに対して、価値理念としての民主主義と区別して考えられる場合の民主政とは、一つの政治体制(政体)を意味します。「政体」とは、ある社会において政治的な決定を行う場合に必要な手続きと組織――その中には公式のものも非公式のものも目に見えるものも見えないものも含まれます――の総合した全体のことです。ここで「政治的な決定」と言うのは、その社会内部において人々が対立する問題(だけれども決定を行わなければならない問題)についての決定のことを指すのだと考えておいてください。つまり、政体には「人々の意見が対立する問題、しかも社会全体として統一した決定が要求される問題について、結論を出す」役割が求められます(長谷部恭男『憲法と平和を問いなおす』(筑摩書房(ちくま新書)、2004年)、39頁)。 政体としては、民主政の他に、君主政や貴族政などがありえます。他の政体と比べて民主政が特殊なのは、(1)社会の成員全て――未成年や精神障害者などを除く社会のメンバー全て――に対して、政治に参加する権利を平等に認めるということと、(2)彼ら対等なメンバーの間で行われる討論と投票によって政治的決定を行おうとすることの二点です。君主政や貴族政は政治的権利が不平等に分配されていますし、決定のために討論や投票などの手続きを踏む必要はありません。決定は、君主の独断や有力な貴族の合意、あるいはそれ以外の権力者も含めた全体の力関係に基づいて行われるからです。先ほど、「民」の「力」について考えた時にお話した通りですね。 ところで、ふつう、私たち一人一人には、人間として保障されるべき様々な自由や権利が認められていると考えられています。それは憲法上の「基本権」として国家が保護を約束していますし、「基本的人権」として国際的にも保障が求められています。そうした権利の中には、自分自身にかかわるモノゴトについて、他人の不当な干渉や強制をはねつける「自己決定」の自由(権利)も含まれます。 私が何を食べ、いつ眠り、どんな本を読み、どんなTV番組を観て、どこに行き、誰と話し、どんな仕事につき、誰と遊び、誰と結婚し、何を信じ、何を楽しみに生きるか、など様々な選択(決定)について、いちいち他人が割り込んできて意見を言われたり、特定の選択を押しつけられたりした日には、たまったものではありません。だから、ありとあらゆること全部とは言わないまでも、ルールを守り、他人に大した迷惑をかけない範囲では、一人一人の好きに任せておくべきだというのが、多くの社会で共有されている合意になっています。それは、そういう自己決定の自由を認めることが、私たち自身にとって都合がよいので、そうした合意が成り立ったということです。 しかし、ルールは誰が、どのように決めるのでしょうか。人々の望みや考え方は、それぞれに違います。だから人々の間に対立が生まれるのですし、その対立を防いだり解決したりするために、ルールが必要とされるのです。でも、そのルールそのものを決めようとすると、どうやって、あるいは、どのようなルールを作るのかについて、また対立が生まれてしまうのではないでしょうか。みんなをケンカさせないためのルールを作ろうとすることでケンカが起こってしまうとすれば、ケンカを止めるためにはどうしたらいいのでしょうか。 結論から言えば、そういう広い範囲での大規模なケンカを止め、みんなが従うようなルールを作るためには、一番ケンカが強い人(たち)が暴力でみんなを従わせていくしかありません(少々雑に言えば、これが国家の成り立ちの仕組みです――教科書で習う「社会契約論」は嘘です)。子どもに対する親や生徒に対する教師がそうであるように、ケンカを止めるには、ケンカをしている当事者より力や立場が強い人が介入するのが一番手っ取り早い方法です。ただ、手っ取り早いのは確かなのですが、この方法はケンカを止める側(支配者・統治者)にとってはいちいち介入する効率の悪さがついてまわりますし、ケンカを止められる側にしてみれば、暴力や権力で上から押さえつけられたという不満が残ります。どちらにとっても、もっと良い方法があれば、それに越したことはありません。 その方法を見つけるのは、簡単です。なぜなら、この時点ではすでに、ルールを作ろうとすることで起きるケンカを止める(暴力的な)仕組みはできあがっているわけですから、あとは、より良い作り方で、より良
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- haklyu
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もう一つの観点で 革命もデモも、ありえない とうこと 「つながり」が求められている現在、私は「ナショナリズム」を重視するが、デモには懐疑的である。なぜか。それを知るための手がかりを、若者の著作に求めよう。 「戦後」日本の構造を深くえぐりだした白井聡氏の著書『永続敗戦論』(太田出版、2013年)はきわめて誠実に言葉を連ねるが、デモや革命を主張するとき、こうした言葉に陰影は失われ、赤裸々な感情と暴力、憤慨が躍り出てしまう。 氏は「戦後日本の核心」と副題し、戦後日本に内在的に肉薄しようとした。白井氏は、原発問題こそ戦後を考える重要な転換点だと考えている。その上で尖閣諸島をふくめた対外関係にまで広く言及し、戦後日本の根本構造である「平和と繁栄」の物語を破壊しようと企てるのだ。 具体的にはこうだ、戦後とは、保守も革新も同じ過ちを犯してきた歴史のことである。保守は「親米」であることで、右翼的な立場をとることができた。一方、平和主義を唱え続ける左派陣営も、同じ過ちから抜け出せない。アメリカの地政学的な事情=政治的事情から、平和を口にできている日本のお粗末な状況を、理解できていない。確かに一見、イデオロギー上の左右の対立はあった。だがしかし、戦後の保守と革新は、同じ舞台のうえを踊っていただけではないのか――白井氏のいう「永続敗戦」とは、この対米従属の構造を言い換えたものだ。 今日、このような白井氏の発言は、それなりの評価を受けるのだろう。事実、若手の論客にみられる「保守主義」は、総じて反米的であり、白井氏の論理にも近い。だが私は、白井氏の発言内容が、最近の保守に近いから引用しているのでも、賛成しているのでもないのだ。 「言葉」の使い方、「言葉」の佇まいを考えているのである。 たとえば、白井氏は、日本が核武装すべきと思っているわけではないとことわったうえで、平和主義と核武装について次のように言う。 「唯一の被爆国である日本は……」というフレーズの後に「いかなるかたちでも絶対に核兵器に関わらない」といった類の言葉が自動的に続くことになってしまうという事態は、もうひとつの論理的可能性を排除することによって成り立っている。それは思想の衰弱にほかならない(158頁、傍点原著) 白井氏はここで「思想の衰弱」を恐れている。それは言葉の役割を手放さないということだ。矛盾する現実を直視する勇気を手放さず、江藤のいう第一の政治=支配の力学に抗うことを目指している。すなわち氏は、日本では珍しく「言葉」にこだわり、考える忍耐をもっているように見えるのである。 だがこの言葉への愛着が、文章後半で乱れ始める。 文章の後半、豊下楢彦氏の著作『安保条約の成立』などを参考に、白井氏は戦後の「国体」について考える。戦後の国体とは、安保体制にほかならず、アメリカとの間の「永続敗戦」にあると。さらに、「国体とは、一切の革新を拒否することにほかならない。かくて、問題の焦点は、革命・革新に見定められなければならない」ことに白井氏は気がつく。つまり、戦前であれ戦後であれ、一切の革命的なものを否定すること、これが戦前戦後をつらぬくわが国の最大の問題=「国体」だというのである。 こう結論づけた白井氏の文章は、戦後体制その象徴として原子力政策に触れつつ、次のように締めくくっている。私はそこに、現在の知識人=言葉にかかわる者が陥る、課題が典型的に現れていると思う。 それはとどのつまり、伊藤博文らによる発明品(無論それは高度に精密な機械である)であるにすぎない。3・11以降のわれわれが、「各人が自らの命をかけても護るべきもの」を真に見出し、それを合理的な思考によって裏づけられた確信へと高めることをやり遂げるならば、あの怪物的機械は止まる。われわれの知的および倫理的な怠惰を燃料としているのだから。(184頁) もちろん、「怪物的機械の停止(破壊?)」という結果を得るためには、私たちは「革命」を起こさねばならない。それだけが唯一、近代日本の「国体」を破壊するからだ。 この発言を、左翼だと言って批判しても、恐らくほとんど意味がない。問題は、氏がここで無意識のうちに「言葉」を放り出している事にある。批評をふくめた文学的な営みは、基本的に自分の内側にある倫理だけに忠実であればよい。ただ、現代批評のチャンピオン・小林秀雄が言ったように、批評とはついに、懐疑的に己を語ることでなければならない。 つまり、言葉にかかわるものは、自分の根本に懐疑を、疑いの眼をつねに抱きしめていなくてはいけない。にもかかわらず、氏を支配しているのは懐疑ではなく、暴力的なまでの正義感である。 自己への懐疑が、引用の文章にはどこにも見当たらない。なぜここで氏は「われわれ」と複数形で人に呼びかける必要があるのか。本物の「言葉」は、そう容易に人と人とを架橋できないこと、越え難い「ズレ」があることを感じた人間が発する、技巧的作品ではないか。だが自らの「怒り」の感情をおさえきれず、強引に「われわれ」に共有を求めていないか。それは言葉の抛棄である。 また第二に、白井氏自身が抱きしめている「確信」は、いったい何を根拠に成り立っているのだろうか。倫理も正義も、「人間の意志に関わりなく、人間と人間の関係」から、つまりは「関係の絶対性」(吉本隆明)からしか、生まれない。だがここで、性急に「倫理的な怠惰」を戒める時、それが真面目であればある程、純粋主義へと近づいてしまう。 確かに震災以降、国内は混乱し、戦後的価値は疑問にふされている。戦後体制の下で進められてきた原子力政策もその象徴なのであろう。 また東アジア情勢に目を向ければ、新しい動きに充ちていて、これまた従来の国際秩序は破綻の兆しを見せている。この混乱した時代にあって、暴力的な苛立ちが生まれている。しかしそのとき、暴力=自らの正義の斧を振り下ろす対象を求めて何になる? しばしば言われる「権力の可視化」、すなわち「こいつを叩けば全てうまく行く」といった「言葉」に私は懐疑的である。権力が視えるようになったと絶叫した瞬間、人は現実を見る眼を実は失っている。複雑なモザイクの現実は、絶対に「見通す」ことができない。 私にとって、確かだと思われる「つながり」は、だから一時的、瞬間的、情緒的でないものだけだ。怒りだけでは人は「つながり」つづけることは出来ない。つまり「くらし」を営むことができない。そのとき、今あるべき共同性とは、死者たちが積みあげてきた時間が与えてくれる「馴染み」ある「くらし」に他ならぬ。死生観と倫理観は、個人の独善とは無縁のものだ。こうした歴史への思いを含んだ「ナショナリズム」こそ、今、必要な「つながり」ではないのか――これが私の考える『ナショナリズムの復権』なのである。
お礼
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- haklyu
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ーつづきー 具体的な東アジア情勢から始まったこの文章は、1人の女性政治学者を経由して、ナショナリズムの必要性にまでたどり着いた。 ところで、わが国の戦争体験は、「8月15日」という言葉に集約されていると思う。この日をどう評価するかで、「戦後」への評価も変わる。二つのカギカッコ付きの言葉が、激しい渦を巻きながら激突し、あらたな言葉を生みだしたのが、他ならぬ1960年、安保闘争の季節にほかならない。 ここでの主役は、丸山眞男と江藤淳である。 彼らが炙りだした問題は、50年以上も後の現在にまで影響を及ぼし、参照軸となっている。すでに早く、昭和22年の時点で、丸山は8月15日を「無血革命」だと唱え、戦後=再出発と肯定的にとらえた。 だが丸山のあの日への評価が、一躍脚光をあびたのは15年後、1960年5月の安保闘争の時期だった。吉田茂によってアメリカとのあいだに締結された日米安全保障条約、この条約の更新をめぐって戦われたのが、60年安保闘争である。このとき内閣は、「昭和の妖怪」岸信介内閣に代わっている。岸内閣による安保更新の強行採決がおこなわれた5月の状況を、丸山は次のように考えた、「つまり、5・20以降の事態は、本来ならば20・8・15において盛り上がるべきものがいま起こっているように思われる」と。 無血革命による「戦後民主主義」の誕生は、本来、8月15日から始まるべきであった。だがたとえ15年後であったにせよ、今、眼の前の政治行動には民主主義の萌芽があるではないか。安保反対を訴える国会周辺の人波を、丸山は「騒然とした空気のなかに終始見えない形でただよっている秩序意識と連帯感」があると感激的に書きつけた。課題ははっきりした、倒すべき対象は目の前にある。8月15日にもどれ、そしてどちらの側につくかを強く求め、「中間の考え方」を排除し、人びとは「つながる」べきではないか――丸山は、こう考えたわけである。 だが丸山が叫んでやまない、こうした「連帯感」こそ、最も恐ろしい集団である、そう考える思想家がいた。 文芸評論家の江藤淳である。江藤は思った、政治という「言葉」には二つの意味がある。第一に、自分の考え方を人びとに言葉巧みに拡大し、どこまでも支配領域を広げてゆくこと。このとき言葉は、デマゴキーやスローガンとなり、問題は単純化される。言葉は支配の道具に堕落する。 丸山の安保肯定の発言は、この意味での政治に堕落する可能性がある。「中間の考え方」などない、と人びとを追い詰める問いただし方こそ、民主主義=意見の多様性を排除してはいないか。 次に、政治にはもう一つの意味がある。 壊れやすさを宿命とする秩序、人びとの生活を維持し続ける静かで、しかも目立たない行為の連続、これも政治である。人から称賛されないかもしれない、だが黙って問題に対処し、次の世代に共同体の存続を受け渡していくこと――この地味で、しかも緊張に富んだ営みを政治と呼ぼう、江藤はこう思った。第一の政治でなく、この第二の政治にこそ、政治本来の役割はある。 こう思うようになってから、江藤は、岸政権の強硬策だけでなく、安保反対のデモにも懐疑的になった。「私はデモが嫌いなので、一度もデモに参加しなかった」――。安保闘争を、丸山はあまりにも美化しすぎている。どうして知識人はこうも、過剰なまでの「つながり」を、つまりはデモを肯定できるのか。それはおそらく、いつも自分自身が「正義」を握りしめていると思いたいからだ。だがそれは「独善」ではないか。 そして唯一の現実=真実は、次のようなことではないのか。たとえば太宰治が『斜陽』という作品で描いたように、この国は敗戦で、あらゆる価値観の「崩壊」を経験し、傷つき、めまいを感じたのである。ただそれだけが、真実である。この現実の直視を避け、知識人は夢と理想に立てこもった。その方がよほど楽だからだ。「戦後知識人」は、敗戦経験の苛酷さに耐えられず、だから革命・民主主義・平和主義などの言葉に立てこもり、自らの不安を慰めるために過激に「つながろう」としている、江藤はこう思ったわけである。 「砂粒化」の時代 彼等の緊張感溢れる精神のドキュメントを、私たちがすっかり忘れて生きてきたのには訳がある。1980年代以降、経済でいえばバブル、思想でいえばポストモダンが隆盛した。これが忘却の原因なのである。この時代の特徴を一言でいえば「つながり」の否定・忘却の時代である。 階級であれ、地域共同体であれ、私たちは自らを位置づける場所を次々に壊していった。19世紀のマルクスは、どの階級に属しているかに注目し、人間を定義しようとしたが、同時代のトクヴィルは、人間がバラバラな存在となり、そのことに不安を抱く存在だと定義した。トクヴィルだけではない。ギデンズやベックなどの学者も指摘したこうした事態、人びとが個別化し、自分の世界と嗜好に閉じこもってしまう社会が、1980年代以降の「戦後日本」に、登場してきたのである。 こうした時代状況を、宇野重規氏は「砂粒化」の時代だと言っている。自分の世界にだけ興味をいだくバラバラな私。このイメージを宇野氏は砂粒のようだと言っているのだ。 ただ80年代、私たちは、バラバラな自分に特に不安を抱かないですんだ。未曾有の経済的な繁栄は、会社になど所属しないでも十分な金銭を獲得できたし、国家など考えずとも、防衛はアメリカに、思想的には何でもありの相対主義で暮らしていくことができたからである。ポストモダンとは、歴史と国家、そしてつながりからの逃走である。あらゆる価値観から逃げ出して、所属することを重荷であると否定して済まそうという思想運動であった。 だが今や、時代は急速に代わりつつある。不況、震災、そして近隣諸国との軋轢を目にした私たちは、今や80年代以降のバブルと思想を捨て去り、再び、「つながり」を求めようとしているのだ。「現在では、脆弱な個人の〈私〉の自意識がますます鋭敏化する一方で、同じような意識をもった他者とのつながりは築けないままでいます」(『〈私〉時代のデモクラシー』)という危機を宇野氏は指摘する。「砂粒化」は、今やあきらかに危機なのだ。 時代は転換しつつある。東日本大震災以降、人びとは「砂粒化」から逃げだし「つながろう」としている。反原発デモから、地域援助のNPOまで、さらにはデモクラシーの再定義から、ナショナリズムまで、今や、思想的左右なく時代全体が共同しようとしているのだ。この現状、思想的左右なく人びとが手を握りあおうとしている時、「ナショナリズム」はなぜ特権的に重要なのだろうか。
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ご回答のほど、 ありがとうございます。
- haklyu
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多くの国々が民主主義を擁している。アジアで民主主義が育ち、発展してきた背景には、何があるのか。アジアにはそれぞれの地域に根付く様々な思想や宗教が存在する。それらは一見異なるように見えるが、しかし、既存の枠組みを超え、通奏低音として共有される普遍的、根源的な価値観、たとえば他者への配慮、自我の抑制、互いの尊重などがあり、それがアジアの民主主義を下支えしてきたのではないだろうか。 「ナショナリズム」を語ることは、流行なのかもしれない。 国家という言葉を、以前に比べ格段に私たちは口にするようになった。「この国のかたち」を考えることは、半ば当たり前のことになった。以前は、国家を口にすることに批判的だった人まで、国家を議論するようになった。鼻歌交じりの平和主義は時流にあわない、だから国家の存在については最低限認めよう――こうした雰囲気で語ろうというのだ。 ただいずれにせよ、昨今のナショナリズムへの関心の原因が、震災など国内で相次ぐ危機だけだとは思えない。東アジアで台頭するナショナリズム、つまりは近隣諸国との不安定化もあってのことなのだ。 最近の尖閣をめぐる問題だけではない。たとえば民主党政権時代、天皇陛下の謝罪を要求し、野田佳彦首相の「遺憾の意」を書いた親書をはねつけた当時の韓国大統領、李明博氏は、最後は竹島への上陸を断行し国威発揚につとめた。政権は朴槿恵氏に移ったが、きしみの現状は増す一方で、解消する兆しさえない。中国が防空識別圏の拡張を宣言し、韓国がこれに対抗策をうちだすなど、昨年来、東シナ海をめぐる情勢は風雲急を告げている。 こうした東アジアの急激な緊張の背景は何か。 もちろん、国内に抱える矛盾を他国批判でガス抜きするとは、しばしば言われる「原因」である。人びとの不満のはけ口に、他国批判は恰好の材料となろう。だがそれだけならば、これまでにもよくあったことではないか。いまの東アジアをめぐる緊張には、何か根本的で文明的な、より「巨大な原因」があるのではないか――私はそう考えている。たとえばその一例が、東シナ海と南シナ海で相次ぐアジア諸国の緊張だ。急激に大国化する中国の海洋進出は、国策による「膨張主義」に他ならない。佐藤優氏がしばしば指摘する「新・帝国主義の時代」とは、より巨大な市場を求め外へ外へと進出=帝国主義化していく状態をさす。こうした東アジア全体を巻き込んだ「膨張主義」の巨大な運動に、日本は「戦後」始めて晒されている。戦後、一貫して経済的豊かさを追求し、軍事的緊張をふくむ国家について一切の思考を停止させてきた私たちは、東アジアからドアを叩かれた。東アジアの国際秩序の変更に促され、日本人はナショナリズムを直視する時代に入ったのである。 一時的「刺激」としての国家 そう言えば、私自身も登壇した本年元日の討論番組『ニッポンのジレンマ』(NHK Eテレ)の題目も、「僕らが描くこの国のカタチ2014」というものだった。この、若者による討論番組の主題が「国のカタチ」だったことは、とても象徴的なことである。 番組の最中、『ニッポンのジレンマ』は次のように質問し、視聴者に意見を求めた。いわく、「あなたが一番、“国”を意識するのはどんな時ですか?」――。選択肢は次の四つである。「A オリンピックなどの国際試合」「B 選挙などの政治参加」「C 領土問題などの外交交渉」「D TPPなどの経済問題」。 回答は、驚くほどはっきりしていた。 今、若者たちの多くはAとCだけを、つまりはオリンピックと領土の危機をもって、国家を感じるというのである。言われてみれば、ロシアのソチ・オリンピックはこの事態をあからさまに示していた。オリンピックで高揚した気分になり、国家を意識した彼ら若者は、恐らくサッカーの国際試合でも同じ気分を味わうはずだ。 これは当然の回答、とも思えた。なぜなら戦後のわが国は、東アジア諸国とは異なり、軍事力を徹底的に抛棄してきたからである。アメリカの庇護のもと、考える必要性を抛棄したからだ。経済の奔流と沸騰の最中、国家は溶解し、無色透明のぶよぶよした皮膚のような「クニ」ができあがった。そこで私たちは生きてきたのである。 だとすれば、国家について考える機会はオリンピックのときか、あるいは領土問題で否応なく国境を皮膚で感じるときしか、ないだろう。両者は「瞬間的」である点で同じであり、国家は一時的な「刺激」にすぎない。 それは国家について考える、あくまでもきっかけにすぎない。 本来、ナショナリズムとは常にもつべき問題意識のことであり、瞬間的なものではない。経済的な豊かさで自信をもったり、その逆に不況によって自信喪失するようなものではない。 だから、ほとんど回答のなかったB=「政治参加の仕方」と、D=「TPPの賛否」も、きわめて重要なのだ。 今一度、まとめよう。東アジア情勢をめぐって、「膨張するナショナリズム」という問題があった。次に、テレビ出演で明らかになったのは、民主主義の問題と、生活や文化などの価値観をどう守るのか、これが重要だということだった。ナショナリズムが、生活や文化にまで根を下ろすとき、それは「戦後日本」を超える。「膨張するナショナリズム」とは全くちがうナショナリズムが、今、求められている。生活や文化に根ざしたナショナリズムを考える段階に、わが国は直面しているのだ。 そのとき私たちはどのような「言葉」で、この世界を、日本を語るべきなのか。今、言葉の態度も問われている。 全体主義とナショナリズム そう思って、私は昨年『ナショナリズムの復権』(ちくま新書、2013年)を世に問うたのだった。 膨張主義時代に晒された私たちは、どのような危機にあるのか、そのときナショナリズムの役割とは何か――東アジア情勢とテレビ出演は、その思いをさらに強くさせた。 私の基本的な考えはこうだ、「ナショナリズムは外交問題でも政治問題でもなく、死をめぐる問題であり、私たちにとって最大の問い――どう生きるのか、死とは何か――死生観、倫理学にまとわる問いだと、心の底で合点がいく」(31―32頁)。 国会突入を図り、警察部隊と衝突する全学連主流派の学生ら つまり国家とは、法や制度、政治や外交だけでは語りきれないのであって、死者たちが紡いできた伝統や習慣を守り、思いをめぐらすことなのだ。それはきわめて落ち着いた「くらし」を守る営みに他ならない。「死生観、倫理観」とは、そういう意味である。 このような態度で国家を考えること、それが私のいうナショナリズムである。 その重要性を証明し、後押ししてくれる思想家たちの「言葉」を、以下で追いかけてみる事にしたい。 注目すべき時代は決まっている。 あの戦争を経験した人間たちの言葉である。死がもっとも身近なものになる戦争体験は、人間を「思想家」にする。 まずはナショナリズムを、帝国主義の問題から考えた思想家がいた。政治学者のハナ・アーレントである。彼女の精密な帝国主義分析は、現在の東アジア情勢の「巨大な原因」を探るのに役立つ。 彼女が眼をつけたのは、1884年から1914年までの帝国主義の時代であった。その特徴は、「膨張」あるいは「拡散」といった言葉でイメージできる動きである。それはあたかも、モーターが駆動し続けるように新しい市場を目指して膨張することを善とみなす。それに成功したのは、イギリスとフランスであった。 また、ドイツ・ファシズムとスターリニズムにも、彼女は注目した。イギリスやフランスに後れをとったドイツとロシアは、現状への不満の気分と「負い目」の意識をもった。他国に比べて「遅れ」ているという意識、これが怒りの気持ちを増幅させる。負い目と怒りの感情は、激しい現状否定と、秩序の変更欲求へと駆り立てる。世界各地に散らばり、憂き目をみている同胞たちの結束という現状変更への欲望、すなわち「血」による結びつきの強調が浮上してくるのだ。散らばった同胞の結集――これもまた「膨張主義」がもたらす危険な結末なのである。 アーレントは、これらの国々の「膨張主義」が、最終的には「全体主義」を生みだしたと結論した。そして全体主義とナショナリズムは全くちがうものだとも、主張した。なぜならナショナリズムとは、領土、民族、国家を「歴史的」に共有するからだ。歴史とは、つまり時間の積み重なりのことに他ならない。 一定の場所の「くらし」と、土地での記憶を人びとが分かちもつことで、ナショナリズムは生まれる。 だとすれば、「膨張するナショナリズム」など、あり得ない。それはナショナリズムではない、全体主義と呼ばれるべきなのだ。 みずからが今いる場所、課された条件を宿命として受け入れたとき、人の心は安定する。それは充たされた心だ。それがナショナリズムのつながり=連帯感を根本で支えている。現状にたいする怒りと不満、膨張へのあこがれとは無縁の心の構えが、ここにはある。 全体主義とナショナリズムの違いを描くこと、これが決定的に大事だとアーレントは思った。そうすることで彼女は、時代を診る医者になったのである。
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- haklyu
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現行の義務教育は、この目的が守られているであろうか。体制の側も、反体制の側も民主主義の名前を借りながら、この目的も原則も踏みにじっているのが現状である。それ故に、日本の民主主義も自由主義も危機に瀕している。 これは、民主主義国家、自由主義国家に対する反逆である。 主体的な意志というのは、自己にある。この自己の主体性を発掘し、伸ばすことによって、主体的意志を確立させ、個人を基礎とした、自律的な社会を築こうというのが民主主義である。 つまり、主体は、生徒の側にある。このことを現行の教育制度は忘れている。そして、自己を確立するどころか、反対に、自己を喪失させている。 その結果、社会に適合できない人間や、人間関係を作れない人間を、生み出してしまっている。 自己を確立させるのは、環境である。自己は、意識と経験によって触発され、目覚める。この様な意識や経験を触発するのが、環境である。故に、民主主義教育は、生徒を取り囲む環境を整備するところから始まる。 教育の現場は、社会そのものである。なぜならば、民主主義教育は、民主主義の基本的な仕組みを、体得させることに、目的があるからである。 教育の主体は、生徒と保護者にある。しかし、未成年者は参政権を認められていないので、保護者が、義務教育期間はこれを代行するのである。故に、義務教育期間中の、教育の主権は、保護者、特に、親にある。保護者は学校のカリキュラム、教科書、教師、校則全般に対し、自分の主張を反映させる権利がある。権利があるというよりも義務がある。教科書を選ぶ権利は、学校でも、出版社でも、教師でもなく、生徒と保護者にある。現行教育制度の問題は、その生徒と保護者が、教育の現場から排除されている事にある。 学校や教師に、主権者である生徒や保護者が服従しているのは、主客の転倒である。また、学校が地位社会から隔絶した、閉鎖的な社会を形成しているのは、民主主義の精神に反している。 民主主義は、国民が主体的に政治に関わることを前提とする。国民が主体的に政治に関わるためには、民主主義の仕組みやルールを身につける必要がある。そのためには、学校は、地域社会に開かれたものでなければならず。学校の運営に対しては、地域住民と保護者は、積極的に関わっていく必要がある。学校と保護者、地域住民との関係は、会社と株主の関係ににている。 戦後の我が国の教育では、儀式、典礼、形式を軽視している。儀式や典礼、形式は、封建的だと考えている向きがあるが、民主主義こそ、儀式、典礼、形式を重んじる体制はない。それは、民主主義が、属人的な体制ではなく、法という理念に基づく体制だからである。理念という観念的で、抽象的なものに基づく以上、何らかの形に現す必要がある。それ故に、儀式や典礼が必要となるのである。また、民主主義とは、本来手続きに基づいている。手続きで重要なのは、形式である。 民主主義教育の原点は、この手続きや形式を学習と経験によって身につけながら、自己を確立させていくことである。そのためには、教育の現場は、実社会におかなければならない。学校の役割は、実社会における教育を補助することである。つまり、実際の人間関係や出来事を通じ、民主主義とは何か、自由とは何かを、自分で理解していけるようにするのが、教育本来のあり方である。 礼節の根本には、信念がなければならない。信念の本質は、思想信条である。信念がなければ、人間関係での問題は、迷惑と言う事に要約される。結果、迷惑さえかけなければ、何をしても良いという事になる。しかし、迷惑という概念には、人間の行為を起立する基本的な基準が欠落している。 礼節の基本的な形を教師が教え、それを通じて、その根本の精神を生徒自身に体得させる。それが民主教育の本当の姿である。 現行の教育制度は、民主主義の名の下に、民主主義とは、全く正反対のことを行っている。そのために、民主主義も自由主義も危機的な状況におかれている。このまま、放置すればいずれは、民主主義的な社会は崩壊するか、国家そのものが破滅することになるだろう。それは、戦前に学校や教師が犯した過ちを繰り返すことである。 民主主義教育の原点は、生徒の自律した自由な意志、すなわち自己にあることを忘れてはならない。そして、子供達の中にある彼らの未来や可能性こそが、最も大切な宝であることを思い起こすべきなのである。 民主主義教育の偽名の下に子供達の可能性を潰してはならない。国民投票などの手段は、間接民主制を補完する手段として 非常に重要なものであるという認識は今も変わりませんし、 日本でも一定程度には積極的に取り入れるべきだと思っています。 しかしそんな私でも、今回のイギリスの国民投票の結果にはぶっ飛びました。 誤解を恐れず極端に言えば、日本で憲法9条が改正されるとか、 脱原発するか否かが国民投票で決まるというレベルではありません。 文字通り全世界に影響を与える大変化が、「Yes / No」を二元論で問いかける国民投票で決定されたのです。 これは民主主義の可能性とリスク、両方を示唆する出来事でした。 EU離脱という結論が良いのか悪いのかは、まだ判断することはできません。 ただひとつ言えることは、 「どんな変化であれ、急激に起こるものは大きな混乱を招く」 という確かな事実です。 イギリスを真っ二つに割り、予想外の結論が出た今回の国民投票は、 少なくとも短期的には、英国と世界に大きな禍根を残すことは間違いありません。 ■ 今回、この結果から私が特に注目しているのは、 「『政治家』から国民の意思が乖離しつつあるのではないか?」という点です。 キャメロン首相や現ロンドン市長を始め、 「主流」と言われる有力政治家の多くはEU残留を主張していました。 民意で選ばれた代表者であるはずの政治家たちの意思を、 同じく民意である直接投票の結果が真っ向から否定してしまった。 小さな政策レベルでこうした事象が起きるならまだしも、 「国体」という根源的な問題でこれが起きたことは、政治史上に残る衝撃だと思います。 先進国はどこも等しく低投票率に悩み、 少子高齢化に伴う「シルバーデモクラシー」に直面しつつあります。 実際、今回の「EU離脱」に英国若年層の多くは反対であったそうです。 参考:EU離脱という高度に政治的な判断を国民投票に委ねた結果 http://blogos.com/article/180956/ 本来、国民の代表者として政治を司り、 中長期的な視点で国家運営を行うはずの政治家への信頼が損なわれ、 短絡的な「国民投票」という手段の濫用で、近視眼的な決断が繰り返されていく…。 こんなことが、我が国でも起こらないと、誰が断言できるでしょうか。 イギリスを含めた民主主義先進国はいま、大きなターニング・ポイントに立っています。 最悪のシナリオに進まない方法は、単純ですが一つしかありません。 国民の政治的関心を高め、投票率を向上し、選挙で選ばれる政治家への信頼を取り戻すこと。 それによって常日頃から、国民と政治家の「ズレ」を最小限にする努力を続けていくこと。 こうすることで、いざ「国民投票」をすることになっても、 その前段階で充分な熟議が行われ、極端な分裂につながることは避けられるはずです。 ■ 「政治とは妥協の産物であり、可能性のアートである」 プロイセンの大宰相・ビスマルクが残した名言であり、 私が常に政治家として頭の片隅に置いている言葉でもあります。 0か100かはありえない。 急激な変化を避けながら、それでも着実に前に進めていく。 これが政治の勘所です。 でもその「まわりくどさ」ゆえに国民の政治離れは進み、 ときに国民投票という拙速な決断を求めてしまうのかもしれません。 「Yes / No」の二元論に集約してしまう国民投票は、 あくまで間接民主制を補完する一つの要素であるはずでした。 基本は、自分たちの代表者を議会に送り込むこと。 選挙で自分たちの意思を伝えること。これがうまく機能しなくなった問題点を、 奇しくも民主主義の母国・イギリスがいち早く示唆したのかもしれません。 だからやっぱりみんな、選挙に行こう。 常日頃から政治に興味関心を持ち、自分に一番近い政治家を選ぶ努力をしよう。 回りくどくても、わかりづらくても、少しずつ国を変えていく気持ちをもとう。 そんなことを強く感じた、英国のEU離脱国民投票。 今まさに行われている我が国の参院選に、良い意味での刺激となることを願うばかりです。
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- haklyu
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例えば、日露戦争(明治37年(1904年)2月6日~明治38年(1905年)9月5日)を終わらせたポーツマス講和会議(明治38年(1905年)8月10日~9月5日)では、戦勝国である日本は賠償金を受け取ることができませんでした。そのため、戦争犠牲者の遺族や戦費拡大に伴う増税に苦しんできた人々の不満が高まりました。 その不満は、同年9月5日から7日にかけて、東京・日比谷に人々が集結して国民大会を開くまでに到り、付近の内務大臣官邸や講和賛成を唱えていた国民新聞社を焼き討ちするというかたちで噴出します。警官隊や軍隊がこれを阻止しようとしましたが、群衆との衝突が起きました。これが、いわゆる日比谷焼討ち事件です。 (1) は、政府が戒厳令(非常時事態に際し、軍隊に治安権限を与えた天皇大権の一つ)を敷くことで騒擾をやっと沈静化した様子を克明に語っています。 日露戦争前から、政権は藩閥と政党という二つの勢力が、妥協と抵抗を繰り返しながら桂太郎と西園寺公望が政権交代を行う、いわゆる桂園内閣時代を迎えていました。こうした政治情勢の中から新しい民主政のあり方を模索する動きがますます活発になっていきました。その端緒となったのが、第二次西園寺公望内閣の総辞職です。 大正元年(1912年)11月、陸軍大臣上原勇作(1856年~1933年)は朝鮮への二個師団増設を閣議で要求しましたが、当時の首相西園寺公望(1849年~1940年)は財政上の理由で拒否しました。これを受けて上原は、直接、大正天皇嘉仁に上奏し、その支持を求めました。玉座の幕のなかへの上奏、つまり「帷幄(いあく)上奏」をしたのです。 このような街頭での騒擾を契機に、中小企業主や商店主といった旧中間層に加えて、都市におけるホワイトカラーなどの新中間層、さらに労働者も加わって「民衆」が誕生したのです。この「民衆」がデモクラシー運動の主役となって藩閥政権からの脱却をはかり、第一回普通選挙を実現させるに至る大正14年(1925年)までの政治的民主化の過程は、大正デモクラシーと呼ばれています。この運動を、アジ歴の資料で追ってみましょう。 大正デモクラシー運動を代表する思想として広く知られるのが、東京帝国大学教授の吉野作造博士(1878年~1933年) (2) が唱えた民本主義です。吉野が言う民本主義は、単に概念的なデモクラシー思想に止まるものではなく、その体系的な理論として提示されたのが論説「憲政の本義を説いて其有終の美を済すの道を論ず」(『中央公論』1916年1月)でした。吉野は民本主義を「一般民衆の利益幸福並びに其の意嚮に重きを置くという政権運用上の方針」としています。つまり「君側二三者の意見に諮る」閥族政治が、「人民一般の意嚮に聴く」議会政治に比べて如何に非合理的で非立憲的であるかを示し、政党政治の実現、選挙権の拡張、衆議院の重視などを主張したのです。吉野は、主権在君の明治憲法の下で立憲主義への筋道を切り開くために、この「民本主義」という言葉に実践的なデモクラシーの理念を託して、果敢に取り組んだのです。 (3) は、戦前の警察行政にあたった内務省の警保局保安課による、米騒動についての資料の一部ですが、ここからは、デモクラシー思想が吉野作造をはじめ、大山郁夫、北澤新次郎といった学者だけではなく、長谷川如是閑や鳥居素川などのジャーナリストを通じて社会に広まっていった経緯がよくわかります。
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- haklyu
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民主主義体制下では、国民が権力者であり国民が支配者であり、同時に国民が被支配者です。国民の自己責任で政治を行います。その結果が良くても悪くてもすべて国民に跳ね返って来ます。 ところで質問者は”国”と”国民”を相対的に捉えていないでしょうか。だとすればその認識は誤りです。国民の集合体が国なのです。 社会運動、政党政治、普通選挙――民主主義的な言論や運動が活発に行われた「大正デモクラシー」。しかし、その後日本は戦争の時代へと突入してしまう。なぜ大正デモクラシーは戦争を止められなかったのか。歴史学者の成田龍一氏に話を伺った。 まず、「大正デモクラシー」という言葉についてですが、これは同時代に使用された言葉でもなければ、歴史用語として定着しているわけではありません。論者によって「大正デモクラシー」といったときの時期や内容や評価が様々です。「大正」という元号と、「デモクラシー」というカタカナとが結びつけられた造語で、1950年代ころに登場しています。定着していない、といったとき、例えば、高等学校の教科書では、「大正デモクラシー」を重要なテーマの一つとして扱い、章のタイトルとして用いるものから、かんたんに註でしか触れていないものとがあるのです。「大正デモクラシー」が本当に「デモクラシー」だったのかと、根底的な疑問を投げかける人もいます。ことは、きょうの主題となっている、「大正デモクラシー」のあとに戦争の時代がやってきてしまったことの評価にかかわってきています。 一般的には、1905年(明治38年)~1931年(昭和6年)までを「大正デモクラシー」として把握し、政党政治が実現し、社会運動が活発であった時期として捉えられています。ここでも「大正デモクラシー」は、このように必ずしも、大正時代にすっぽりと収まる出来事として把握されているわけではありません。 また、大正デモクラシーは、1918年の米騒動を境に前半と後半に分かれます。それぞれで内容と担い手が変わってきます。
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- hekiyu
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民主主義は、徹底的に話し合うこと ↑ ちょっと違います。 徹底的に話し合う、というのは多数決原理を 基礎づける理由です。 何故、多数決で決めることが出来るのか どうして反対派は多数意見に従わねば ならないのか、を説明するのが話し合う、 ということです。 どれかに決めねばならないが、他に方法が 無いから仕方なく多数決で決めよう、 その前提として徹底的に話し合ったから ということです。 民主主義の利点、欠点、限界、盲点とは? ↑ 民主制というのは、国民や国家の為の制度に 過ぎません。 民主制の為に国民や国家があるのではありません。 この点を勘違いしている人が多すぎます。 民主制は民意を反映します。 しかし、国民は政治には素人ですし、情報も持って いません。 そんな国民の意思を反映するのが民主制です。 民主制にすれば何でも良い、なんてものでない ことは、アラブの春の結果がどうなったか を考えれば判ることです。 民主制の良いところは、国家の総力を結集 出来ることです。 だから、最初に民主化した欧米が世界を席巻 できたのです。 日露戦争において、世界の大多数は日本の敗戦を 予想しました。 しかし、時の米国大統領、ルーズベルトは日本の 勝利を予言しました。 「ロシアは独裁だが、日本は民主化が進んでいる ので日本が勝つ」 反面、民主化したため、王侯貴族だけの争いであった 戦争が、広く庶民にまで及ぶことになりました。
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- potatorooms
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〉民主主義は、徹底的に話し合うこと、 〉多数が少数の権利を入れることを言うのか これ、本質から、まったくずれています。 話し合うことが大切なのではなく、 自分の意見を言える権利 と 相手の意見を聞く義務 があることを言います。 名目的な民主主義でいいなら、ほとんどの独裁国の国体は民主主義です。中国や北朝鮮もです。 最大多数の最大幸福が民主主義の定義なら、選挙で多数を取ればなんでもできるわけです。 英国のすごいところは、議会で少数政党だからと、発言を制限されることがなかったことです。チャーチルの発言に、「黙れ」とヤジを飛ばした議員に対して、チャーチルは、私はあなたの存在もあなたの考えにも賛成できないが、あなたが議会で発言する権利のために命を賭するよ、と返して相手を黙らせたことがあるそうですが、これが議会制民主主義の本質的な部分です。 第二次大戦で英国は追い込まれ、時の首相が退陣に追い込まれ、次の首相には三権のほとんどと軍事権の全てを渡して挙国一致内閣を作ろうと決まりました。これ、普通に考えたら独裁政権ですよね。 この権限を安心して渡せる人物として、傲慢で政党替えという裏切りをして、人気がなかったチャーチルが選ばれたのは、彼の揺らがない民主主義観のためでした。全権を託して不安にならない人物だったんですね。 国民と議員は、非常時に託せる人を知っていて、まさに戦争に勝利したその国際会議参加中に、チャーチルは首相の座を追われます。 たった一人でも何でも言える、国民の意思が揃ったら何でもやれる、その権利が守られている状態の維持が民主主義の根っこです。 「話し合い」の怖いところは、仲間を組むことがあることです。話が合わない人を排除すること、発言権をさまざまな理由で封じることがあります。 中国、北朝鮮の大会は形上は話し合いの場で、参加者に名目的な発言権はありますが、行使はされません。これが最も怖い民主主義の状態です。
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- meido2010
- ベストアンサー率15% (68/448)
同じ言葉をIS(イスラム国)で言ってみましょう。 大笑いされるか、バカにしてるのかと罵倒され銃殺されますよ。 北朝鮮でも同じこと。 日本は言論の自由が保障されています。 誰もが政治に関心を持ち、首相に物申すことも自由です。 しかし、イスラム国や北朝鮮では許されません。 利点と言えばこのことです。欠点は多数が必ずしも正しいとは言えないこと。 限界はありません。盲点は個別的な絶対君主を生んでしまうと。それは 犯罪として裁かれる事案だが、犠牲者が出てしまうことです。
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