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イタリアの戦争参加の決定に関する要約
- イタリアは第一次世界大戦に参加する側を決定するために、サランドラは「神聖なエゴイズム」という言葉を使用しました。
- 1915年2月16日、オーストリアとの交渉と同時に、イタリアはエンテントからの良い提案を受け入れる準備ができていることをロンドンに密使を送ることで示しました。
- 1915年4月26日、ロンドン条約が締結され、イタリアは1ヶ月以内に戦いに参加することを義務付けられました。
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>Salandra used the term "sacred egoism" (sacro egoismo) to define Italy's outlook on which side Italy would enter the war. Expecting the war would be short – over by the late summer of 1915 – there was some pressure on the decision to make. ⇒サランドラは、イタリアがどちら側について参戦するかに関する、イタリアの展望を定めるために、「神聖なる利己主義」(イタリア語:sacro egoismo)という語を使用した。戦争が短期で ― 1915年の晩夏までには ― 終ることを期待してので、決定するのには幾分プレッシャーがかかった。 >Negotiations had been started between Sonnino, the British Foreign Secretary Edward Grey and the French Foreign Minister Jules Cambon. ⇒交渉は、ソンニーノ、英国の外務大臣エドワード・グレイ、およびフランスの外務大臣ジュール・カンボンの間で始まっていた。 >On February 16, 1915, despite concurrent negotiations with Austria, a courier was dispatched in great secrecy to London with the suggestion that Italy was open to a good offer from the Entente. ⇒1915年2月16日、オーストリアとの交渉が並行していたにもかかわらず、急使が極秘裏に、イタリアは協商国から良い申し込みを受け入れたとの提唱を携えてロンドンに派遣された。 >The final choice was aided by the arrival of news in March of Russian victories in the Carpathians. Salandra began to think that victory for the Entente was in sight, and was so anxious not to arrive too late for a share in the profits that he instructed his envoy in London to drop some demands and reach agreement quickly. ⇒3月にカルパチア山脈でロシアが勝利したとのニュースの到着によって、最終的な選択が促進された。サランドラは、協商国の勝利が見えたと考え始めて、利益の分け前のために到着があまり遅れないことを願ったので、要求をいくらか削って、早急に合意に達するようロンドンの使節に指示を出した。 >The Treaty of London was concluded on April 26 binding Italy to fight within one month. ⇒「ロンドン条約」は、イタリアが1ヵ月以内に戦闘(開始)するという拘束づきで、4月26日に締結された。 >Not until May 4 did Salandra denounce the Triple Alliance in a private note to its signatories. ⇒サランドラは、(その条約)署名者宛の私文書で、5月4日まで三国同盟に対する敵対宣告をしなかった。
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