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英語の文章を日本語訳して下さい
- オスマン帝国とアラブ、そしてイギリスの間で続いた一連の小競り合いと小衝突の後、イギリスは一般的には成功したが、内陸地域を支配することは不可能であることがわかった。
- 1916年初頭、オスマン帝国はイギリスがアデンに後退し、そのまま戦艦の援護射撃の射程圏内に撤退し、数ヶ月間活動していないと主張した。
- オスマン帝国の主張の多くは大袈裟であり、一部は完全に誤りであった。イギリスの議会で、1916年2月、ジョン・プレティマン・ニューマン少佐(当時)がアデン近くでの戦闘に関する情報を求めた。インド国務大臣だったオースチン・チェンバレンは、オスマン帝国の成功という主張は、アデンの駐屯隊の偵察カラムとオスマン帝国軍の間で行われた1月12日の戦闘に基づいたものであると述べた。我々の損失はイギリス人の将校1人とインド人兵士35人が戦死し、イギリス人兵士4人とインド人兵士35人が負傷した。敵の損失は甚大で、約200人が戦死または負傷した。イギリスのカラムは全滅せず、敗北もせず、動きの目的が達成された後に撤退したとチェンバレンは述べた。
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以下のとおりお答えします。 オスマントルコ軍と英国軍との、戦績の主張に見る違いを述べています。 >A series of minor engagements and skirmishes between the Ottomans and Arabs and the British followed, during which the latter were generally successful, but found it impossible to hold the country far inland. Early in 1916 the Ottomans claimed that the British had been driven back on to Aden itself, and had retreated to within range of the covering fire of their warships, where they had been inactive for some months. Many of the Ottoman claims were greatly exaggerated, and some wholly false. ⇒オスマントルコ=アラブ軍と英国軍との間で、小さな交戦と小競り合いが続いていた。その間は、概して後者英国軍が功を奏していたけれども、その英国軍は、遠い内陸にその一国を保持することは不可能である、と知るに至った。1916年の早い時期に、英国軍はアデンだけに追い返されて彼らの軍艦の砲弾の射程内に退却し、そこで数ヶ月もの間活動がなかった、とオスマントルコ軍は主張した。(しかし)オスマントルコ軍の主張の多くは、大々的な誇張であり、全体的にかなりの偽りがあった。 >In February 1916, Major John Pretyman Newman, MP*, asked in the British Parliament for any information about the fighting near Aden. Austen Chamberlain, then Secretary of State for India, responded that the Ottoman claim of success which had recently been put forward would seem to have been founded on an engagement which took place on 12 January between a reconnoitring column of the Aden garrison and an Ottoman force in the neighbourhood of Shaikh Othman. ⇒1916年2月、国会議員*のジョン・プリティマン・ニューマン少佐が、アデン付近の戦闘に関する何らかの情報を求めた。そこでインド担当の国務長官オースティン・チェンバレンは次のように答えた。すなわち、最近出されたオスマントルコ軍の成功(奏功)の主張は、1月12日にシャイク・オスマン付近でアデン守備隊の偵察隊とオスマントルコ軍隊との間で起こった交戦(のみ)に基づいているようであります、と。 * MP:Member of Parliament「(英国)国会議員」の略語。 >The loss on our side was one British officer and thirty-five Indian rank and file killed, and four British and thirty-five Indian rank and file wounded. The enemy losses were severe, amounting to about two hundred killed and wounded. The British column was neither annihilated nor defeated, but withdrew when the purpose of the movement was completed, Chamberlain said. ⇒我々の側での損失は、1人の英国人将校と35人のインド一般兵員が殺害され、4人の英国兵員と35人のインド人兵員が傷害を受けました。敵損失は甚大で、殺傷された兵員は約200人に上ります。英国軍の縦隊は、大打撃を受けたわけでもありませんし、撤退したわけでもありませんが、機動の目的が完了した時に引き返しました、とこのようにチェンバレンは語った。
お礼
回答有難うございました。