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因果応報説は 共同主観にはならない。

kurinalの回答

  • kurinal
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回答No.3

B様、こんばんは。 >「わが心の内なるいわゆる善行の道は捨て去ることもない。」 信教の自由を逸脱しては、なりません。 (というか、逸脱して、初めて、それと知る?) ・・・それでは、「宗教とは厄介なものかな」ということでしょう。 問題は、「契約」ですか。 ・・・では、なんで、それが「血縁」などに縛られるのか?

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     1. 因果律とは 別です。  2. なぜなら善悪ないし苦楽という主観による規定が含まれます。  3. すなわち 善因悪果(ないし善因楽果)また悪因悪果(ないし悪因苦果)という考え方は・という意味は 善悪を主観が判断するのだから けっきょく自業自得という考え方は ゆえに 主観の範囲を出ない。  4. 言いかえると その前提(初期条件)として 神の愛の――または  ブッダの慈悲の――えこひいきがあることを意味する。のではないか?  ものごとが自業自得であったならば えこひいきではないのだが 自業自得というのは 主観の範囲を出て有効になることはないのだから そう(自業自得として)規定することはできない。    なら 初期条件は ナゾの何ものかによるエコヒイキである。  5. ▼(風は気ままに吹く) ~~~~~~   わたし(=神)は 〔双子の兄の〕エサウを憎み   〔弟の〕ヤコブを愛した。 (マラキ書 1:2-3)   ~~~~~~~~~~~~~~~~~  6. 言いかえると 神の愛を われわれ人間が勝手にこれこれこうだと決めつけてはダメであるようだ。  ダメというより もし人間が理解できるようなその愛ないし慈悲の仕組みであるならば その仕組みをわれわれ人間が仕組みなおすことも可能だとなってしまう。  ですよね?  7. ただし 主観の問題としてわが心の内なる善行の道は捨て去ることはない。と考えてよいか?  善と言うのも 主観による判断なんですけれど。

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