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おかげ参りで大混雑。
年間数百万人の群集が伊勢に向かった年もあったそうです。 多い月には、30万人以上の人びとが伊勢街道を通ったことになります。 参勤交代の大名や、公用の旅や巡回をする幕府や藩の役人などにとっては大いに迷惑なこともあっただろう、と想像しています。 大混雑で困ったとか、前もって混雑を避けるようなことをした事例があれば教えてください。 よろしくお願いします。
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#1です。補足です。 >>しかし、伊勢街道が大混雑したことには違いないので、大名、幕府や藩の役人が通行するのに困ったとか、あるいは混雑を避けるような工夫(日程や順路を変える)をした、というようなことはなかったのですか、という質問です。 これは「大混雑したことには違いない」という前提に立ってのご質問なので、僕は白紙の立場からお答えしておりました。 下記の地図では、伊勢への街道には、和歌山街道、伊勢本街道、表街道、などがあり、大阪からは暗越•奈良街道、奈良からは上街道、などがあったそうです。 http://homepage2.nifty.com/kaz-iku/ise10.htm#rekishi また、「伊勢本街道」も、「初瀬街道」のように、ほとんど山中を進む街道も少なくなかったようで。道幅も限られていたことが想像されます。 さらに伊勢に行くというのは名目で、嫌な仕事から「抜ける」のが主目的の、実際にはそこまでは行かないおかげ参りも少なくなかったと思います。 しかも、江戸時代以前の町は今のような高度に人口の密集した都市ではなかったと思われますし、尊い神域への参拝客が多すぎたと書き残す無能な役人は居無いでしょう。 一ヶ月に30万人以上というと、混雑しそうですが、径路が多く、地形も険しく、道幅も狭く、人口も少ない時、現在のような「混雑」は殆ど無かったとおもわれます。 また、仮にあっても、伊勢の評判がよ過ぎて人が来過ぎて困ったなどと書くと、神様の所へ行くな、とも言えないでしょうから「記録」には残さなかったのではないかと思います。 かつて殿様の参勤交代に使われたという「街道」の貧弱さに驚いたド素人の寝言です。
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No.3です。 補足を頂戴しました。 補足の論拠に多少誤解があるのではないかと思い追加で説明させて頂きます。 >大坂城代が巡見に出るに際して、お陰参りで大和路が大混雑しているとの理由で、中止を議論した」そうです。 ご提示された書籍の新見日記の項の一節でしょうか、 中止は混雑が理由ではなく天候とされていませんか、 ・・・はたせるかな二日は「曇り、昼後より雨」翌三日は終日雨である。と記載されていませんか。 文章全体が確かに誤解を招くような構成になっていますが、お蔭詣りの混雑で巡検が中止されたとは明確に記載されていません。 書籍に記載されている文化13年の人出は未曽有鵜のものだったようです。 一年を通じての混雑か特定の期間であるのかの記録は寡聞にしてしりません。 短期間ではなかったであろうと推測しています。 混雑が理由であれば、、文化13年には城代の巡検が1年間行われなかったことになってしまいます。 1年間巡検が行わなかったという史料は寡聞にして知りません。 尚、ご指摘の書籍にも記載がありますが、大阪では祭礼の際に武士を札止めという足止めをしています。 大阪と江戸では武士の振舞と町人の対応が異なっていました。 祭礼での町人の群衆と武士との接触を避けることが大阪の治安維持には必要でした。 お蔭参りで人手が増えたから足止めをしたという史料は寡聞にして知りません。 お蔭参りが武士の公務に支障をきたしたことはないのか、という御質問ではありませんでしょうか。 オレは本を読んで知っているけれど、オマエラは知っているか、という主旨のご質問でしょうか。
お礼
ご高説承りました。 大坂城代の話は、何年か前、図書館で拾い読みしたときのうろ覚えでした。 失礼しました。
>多い月には、30万人以上の人びとが伊勢街道を通ったことになります。 お伊勢さんへお参りされたことはありませんか。 お伊勢さんのある位置を確認して下さい。 伊勢街道を使う武家とはどこの家中の武家とお考えですか。 下記のサイトにもありますように数百万人といいますのも伊勢参りの根拠地になった伊勢松坂での記録です。 伊勢松坂へ入る道筋は幾通りもあります。全国の一つの街道当たりでは邪魔になるほどの人数ではありません。 伊勢松坂とお伊勢さんとの間は混雑したであろうと思われます。 他の回答者さんがご指摘されているような参拝に使われた道を参勤交代に使う大名がいるとお考えですか。 お伊勢さんを領内に抱えているのは津藤堂家です。 藤堂家が江戸へ出府するのに、わざわざ西のお伊勢さんへ向かうと思いますか。 紀州徳川家以下の西国大名が東海道へ出るのにわざわざ伊勢街道を使うと思われますか。 歴史がどうの以前に地理の問題ではありませんでしょうか >参勤交代の大名や、公用の旅や巡回をする幕府や藩の役人などにとっては大いに迷惑なこともあっただう、と想像しています。 現代の価値観に基づく発想です。 現代感覚からいけば参勤交代の行列の方が余程はた迷惑です。 江戸時代に最も往来が激しかった東海道で約2000人/日です。 宿場の収容人数も最大の桑名で3000人です。 つまり街道には2000人/日程度の人を捌く能力しか持ち併せていないということです。 ここへ数百人規模、場合によって千人を越える大名行列が割り込めば、大迷惑です。 当時は身分社会です。大名行列が最優先です。 渡船でも武家と町人百姓が行き会えば武家が優先される社会です。 宿場の旅籠だけでは当然賄いきれませんので周囲の民家へ全て泊まり込みました。 「ひと駅を一人の大名でおつぷさぎ」という川柳もあります。 川止めにでもなったら大騒動間違いなしです 大名同士もお互いにかちあわないように先達を出して慎重に探りながら行列を進めています。 江戸を出立する日も出府する日も事前にお互いに調査していました。 万が一行き会って、石高の違いで、下手をすれば殿様が駕籠から降りるという事態が起きてしまいます。 駕籠を止める、黙礼する、駕籠から降りる等喧しい習慣儀礼がありました。 大名行列も自領内の城下町や他の大名の城下町付近や大規模な宿場町を通るとき以外には行列を整えることなく各自自由に歩いていました。 駕籠と馬をつれた大集団が通り過ぎていきます。 お蔭詣りの集団などかわいいものです。 参考 お蔭参り - Wikipedia ja.wikipedia.org/wiki/お蔭参り 近世後期東海道における交通量推定について* library.jsce.or.jp/jsce/open/00902/2003/23-0277.pdf 大名行列 - Wikipedia ja.wikipedia.org/wiki/大名行列
お礼
ご高説承りました。
補足
中公新書 藪田 貫著『武士の町大坂―「天下の台所」の侍たち』によれば、 「大坂城代が巡見に出るに際して、お陰参りで大和路が大混雑しているとの理由で、中止を議論した」そうです。 「前もって混雑を避けるようなことをした事例があれば教えてください」という質問です。
- SPS700
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参勤交代の大名や、公用の旅や巡回をする幕府や藩の役人などにとっては大いに迷惑なこともあっただろう、と想像しています。 と想像する人も現在ではあるのですね。下記のように、今で言うセクハラ、パワハラ、何ハラ、などを逃れて「抜け参りする」、重要な安全弁の働きをしていたのではないでしょうか。 http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/rekishi/kenshi/asp/arekore/detail.asp?record=85 同様な動きは、カトリックなどの場合、町町に聖人の名をつけ、巡礼と称して仕事を休んでまわり、土産物の生産や拡散、経済園の拡大化や、流通手段の発達に寄与しています。 中米のオルメカ文化で、安価な土像が広い地域で発掘されているのでも、同様な人の動きが、農業などで固定され気味の住民に、息抜きの機会を与えたことが分かります。 混雑こそ、商売繁盛のしるし、役人も偉そうな顔をする機会ができて賄賂も増え、いいことばかりだったのではないでしょうか。
お礼
ご回答ありがとうございます。 質問文が拙かったです。申し訳ありません。 添付された三重県のサイトは先に読んでいました。 「抜け参り」が日ごろの“何ハラ”から逃れる重要な安全弁であったことは、よく分かります。 しかし、伊勢街道が大混雑したことには違いないので、大名、幕府や藩の役人が通行するのに困ったとか、あるいは混雑を避けるような工夫(日程や順路を変える)をした、というようなことはなかったのですか、という質問です。
お礼
再度のご回答ありがとうございます。 なるほど、大混雑という前提もおかしいということですね。 月に30万人なら一日当たり1万人です。 朝、1万人が伊勢近辺から出ていき、午後1万人が伊勢に入るわけですから、「大混雑」と言うよりは「大賑わい」と表現する方が適切でした。 質問の動機は単純で、 現役の頃、札幌での会議は「雪祭り」を避けて開催してくれと要望していたものですから、そんな思いつきで気楽に質問してすみません。 次から次へと疑問が出てくるのですが、先の三重県のサイトによれば、宝永2年には50日間で362万人、文政13年の場合は約500万人が伊勢に押し寄せたとありますが、この数字も怪しいですね。