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神が死んだのなら 生きていたときがあったのですか
stmimの回答
- stmim
- ベストアンサー率24% (57/236)
逆になぜ、神が生きたり死んだりしないものなのかお聞きしたいです。 なぜなら神とはよくわからないものでしょう? 死ぬとか生きるとか決められないと同時に、そうでないとも決められないと思いますよ。
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お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ なぜなら神とはよくわからないものでしょう? ☆ ですね。ですから しかもこの場合の《分からない》ということの中身を しっかりと捉えなくてはならない。 なぜなら 人間が認識や思考やあるいは想像によっても《分からない》という場合 けっきょく《未知》と《不可知》とそして《非知》とがあるからです。 《未知》は 大きく《可知》に分類され 《既知》ではない知になります。やがて既知になるであろうと見なされています。 《不可知》というのは ややこしいですが 《可知》ではないわけです。ですから同じ《分からない・知らない》でも 《未知》とは別です。 つまり 数学の定理か何かで《人間には知り得ないと知った(証明し得た)》というような事柄があるようです。これを言うはずです。 人間の論理で明らかになった事柄であれば その限りでこの《不可知》なるナゾは 経験事象であるということになります。人間と同じ経験世界に属しているけれど その人間には知り得ない現象や想像じょうのものごと。これが 不可知であると。 ところが人間にとって分からないナゾとしては 《非知》が さらにあります。 どう定義すればよいでしょう。 《人間にとっては知り得るか知り得ないか そのことさえもが 知り得ない》ナゾ。ではないでしょうか? もし この定義がみとめられるならば とうぜんのごとく 《非知》なるナゾは: ★ 生きたり死んだりしないもの ☆ であるとなります。あるいはつまりそんなことは 人間には分からないわけです。 生き死にの経験世界を超えているナゾである。これが 神です。 《生きたり》は あとでも触れますが 《生まれたり(つまりは 人間がこしらえたり)》の意味に採れるゆえに アウトです。 ★ 死ぬとか生きるとか決められないと同時に、そうでないとも決められないと思いますよ。 ☆ これについては 《有るか無いか(居るか居ないか)》としてそのいづれかを人は好きにえらんで 自己表現の中に用いればよい。となるはずです。 有る神か 無い神か です。どちらも 非知を仮りに分かりやすいように表現し変えたものです。ふたつは 表現の差にかかわりなく 互いにひとしい。 《有る神》派は たしかに《神は生きている》といった表現をも用いるでしょうね。そしてそれは 《非知なるナゾ》について おのれの信仰〔としての主観〕の範囲内で表現しているのだという説明のもとに成りたちます。 ところが 《無い神》派にしても 神は生まれたとか死んだとかというふうな表現は――論理的な定義の問題ではなく表現のカザリやインパクトをのみ狙った文学でないかぎり―― 通用しません。 生まれる・死ぬは 時間的な事象であり 経験世界におけるものごとです。《既知かまたは未知であるものごととしての可知 あるいはそして不可知》でしかないと考えられるからです。 死後のことは分からないとしても 死のこととその時点は 可知です。(同じ人間である他者の死について 可知です)。この経験事象である死によってあたかも始まったと見られる死後の時間・空間(?)は その起点が経験的であるかぎりで 経験世界の問題となるはずです。 よって 神については 《生まれるとか 死んだとか》というふうに哲学として規定することはあり得ない。こうなるはずです。 人間がこしらえたあたまの中の観念の神なら それは 概念であり観念であるのですから 《生まれた・生きている・死んだ》という表現を用いたければ用いるでしょうが それは 哲学にとって意味がありません。 死んだと言いたいときには 初めから《居なかった》と言うべきです。そしてそれは 《無い神がいる》ということに――《非知》なるナゾとして―― なります。《非知》の想定にもとづくかぎり 絶対的にそうなります。