岩の語源について

このQ&Aのポイント
  • 岩の特徴を人間や動物の行動によって説明し、その呼称の由来を考えてください。
  • 概念の議論が花盛りな今日この頃、下町庶民としては概念を説明するのに概念を使うのは理解しづらいです。
  • 下町行動科学の発展のために、岩の特徴を分かりやすく説明し、呼称の由来を考えましょう。
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岩の語源について

看てくだすって私はちょっと嬉しいかもしれないです。 概念の議論が花盛りな今日この頃ですが、下町庶民としては、概念を説明するのに概念を以て説明しても、概念の重ね合わせが概してわかりにくいんですよね。そこで、行動をもとにして、概念を説明しちゃえば、庶民にも分かりやすくなると思ったのです。 ここからが質問です。人間または動物の行動によって、岩の特徴を説明し、岩という呼称の由来を、自分なりに根拠を考えて、教えてください。(たとえパクリであっても、理解に及んでいれば、自分の意見とみなしてください。) めんどくさい注文で申し訳ないですが、義理人情を科学する、下町行動科学の発展のために、よろしくおたの申します。

noname#208724
noname#208724

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回答No.1

中国の陰陽五行説、特に五行説によれば、自然は5つの要素からなる。 火・水・木・金・土の5つ。 この五行説に基づいて、それに太陽(日)と月をくわえて、7曜をつくった。 そこに「岩」は含まれていないけど、「岩」は砕けば「土」になる。 また、その「岩」には「金」つまり金属を含んでいる。 だから、「岩」の語源は陰陽五行説にある、というのが私の思い付き。 思い付きだから、正しいという保証はない。 アリストテレスの4原因説によると自然界は、下から土・その上に水、さらにその上に空気、さらにその上に炎(火)がある。 これは物体の重さを基準に取った区分。 だから土が一番重く、水がそれに続き、空気・炎とつづく。 古代ギリシャでは、空気は今のような空気ではなく、エーテルのような媒質から出来ていると考えられていた。 つまり何らかの物体で出来ていると考えていた。 アリストテレスが「自然は真空を嫌う」といったように真空というのは存在しないと思われていた。 そして「岩」は炎よりも空気よりも水よりも重いのだから、土と同じものと見做すことができる。 よって、ギリシャ的に考えると、「岩」の語源は「土」だということができる。 だけど、これも私の思いつきにすぎないから、正しいという保証はない。

noname#208724
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 日本語でも岩(いわ)には、大地という意味もあるらしく、そうすると、五行説にしてもギリシア説にしても、当時の基本的な元素としての土が基になっている、という見方は有力だと思います。といいますのも、大地の上に山も石も乗っかっているからです。そうすると、人間の行動としては、「目で見た。」という分析の類に入れたいと思います。とても参考になりました。

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