日本語の「岩」 その意味と、発音の由来など

このQ&Aのポイント
  • 日本語の「岩」という言葉の意味や発音の由来について、調査しました。
  • 「岩」とは、地面から露出した堅い所を意味し、地面と岩は不可分であるという仮説があります。
  • また、「岩」は洞窟信仰とも関連しており、農業や漁業といった人々の生活に欠かせない対象として崇拝されていました。
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日本語の「岩」 その意味と、発音の由来など

閲覧してくだすって、私としてはありがたい気がします。 先の質問に続いて、日本語の「岩」という、誰もが発音を知っていながら、それがどのような概念なのかを知らないという、摩訶不思議な概念について、あくまでも、仮説を作るための下調べというかたちで、さまざまな角度から探っているところです。 先の哲学カテでの質問によって、一つの予備的な仮説にたどりつきました。 「基になるのは地面(土)であり、地面から露出した堅い所(岩盤)を意味する概念になった。つまり地面と岩は不可分である。(地面から露出していて、かつ、その岩盤がどこまで続いているのか見た目ではわからない状態。)」 というところまで、たどり着きました。逆に、地面に転がっている物は、どんなに大きくても「岩」ではないという仮説です。 以下、私が本日、Webで検索して見つけたこと。 ―――――――――――――――――――――――――― 鎌倉(かまくら) 「万葉集」には「可麻久良」と記されている。鎌倉幕府が成立した当時の鎌倉は、辺鄙で海人や野叟のほかに住む人がいないといわれた半農半漁の地であった。なお「カマ」は洞穴、「クラ」は岩の意という。(角川日本地名大辞典) 洞窟信仰は、日本に限らず東アジアに残されている。(とある論文よりパクリ。) (露出した岩盤に、洞穴が開いているのを見つけ、当時の人は、そこが神と人とを結ぶ入り口だと思っていたのではないでしょうか。) 【ごうら】: 強羅など。岩石が露出している所。土佐には「ゴウロ」の地名が多い。 【はが】: 崖を意味する。 【はげ】: 岩崩れ (この三つは出典不明なんですけど、「が」「げ」「ご」は、崩れて、ごつごつした岩盤を意味するかのように思われるんです。) ―――――――――――――――――――――――――― 以上を私なりにまとめると 「万葉集にある「可麻久良」とは、ゆるぎない安定した地面から、雨、波、風、に浸食されて露出した所であり、わりと安定していて、その表面は、いかにも堅くてごつごつとした感じの、岩盤に開いた洞穴であり、農業、漁業、を営む人々の生活に欠かすことができない信仰の対象としての(概念)があった。それは大自然への畏怖であり、恵みをもたらす神への、(おもてなし)であり、ここでもやはり自然を表すものである、火・水・空・土(焚火、雨と波、風、地面)は、かかわっていたのであり、数量的な大きさや、重さという概念では語ることはできない何かであったにちがいない。しいていうならば、余りに人間的な、信仰の深さを表す概念というべきであろうか。したがって、「岩」とは、神と結ばれる場所であり、大地から露出した、神への入り口ではないだろうか。そしてその表面は、堅くてごつごつしていながら、ゆるぎなく安定した場所なのである。」 上記の考察じゃ物足りなくて、付け加えるべきことなど、あるいは別な見方からの考察(たとえば発音「い・わ」 「い・は」からの考察)など、ございましたらご回答ください。 また、「そんなんじゃ納得できないしぃ こっちにはもっといいのがあるよぉ。」など、新しい考えがございましたら、ご回答のほど宜しくおたの申します。 ただし、「岩」の概念を、他の概念で説明することは、混乱を招きますので、人間の行動を以てご説明のほどお願いします。

noname#208724
noname#208724

質問者が選んだベストアンサー

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  • Nakay702
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回答No.2

>こっちにはもっといいのがあるよぉ。 ⇒かどうか分かりませんが、全然違う観点から、「散文詩」(のようなもの)を書いてみようかな~と思います。 「岩に倣(なら)いて」 岩は、ずっと前から岩だ オレは、ほんのちょっと前からオレだ 岩は岩で、ゴミ屑なんかじゃない しかし、オレはオレか? そして、オレは人間か? 人間は、人間に生まれるんじゃない、という 人間は、人間になるんだ、という とすると、オレは… オレはオレかも知れない けどオレは、きっと人間じゃない きっとまだ人間じゃない 人間になりかかってるだけだろう 岩は、それだけで完結している オレは、オレだけで完結しているか? 岩は、周囲の自然と調和している オレは、オレの周囲と調和しているか? オレは、岩に倣おう 自己完結を目指そう 己を持ちながらも、周囲と調和しよう そうしてオレは、ホントのオレになろう 以上です。(どうも、お粗末でした。)

noname#208724
質問者

お礼

おお! まさに世のならはしに突き動かされ そしらぬ運命に脈略なく流されし我らは その不可逆性を伴いながらも 存在者としてまた現存在として ゆるぎない決意性を求めては死を受け入れつつ先駆し 不動の岩に親愛と畏怖をもって拝するのである。 願わくば岩のように 人々から不動の信頼を得て 我は人間であると宣言することを欲するのである。 なんとしても我らは生き抜き 岩に倣い あたかも大地に育まれたかのような まさに大地と一体であるかのごとく 弱者のモラルを超越した調和を求めずにはいられようか。 唯一の救いである存在可能性により、移ろいゆく未完成な我々と、ゆるぎない存在である岩との対比による、存在すること、そのことを散文で表現していただきました。感激このうえなく、恐悦至極に存じます。

noname#208724
質問者

補足

先日は、ご回答いただきまして、ありがとうございました。 他に新しい回答も、反証も無いようなので、人間から見た畏敬の対象として、岩という特別な概念があったということで、ほぼ一致した見解をみましたので、ベストアンサーに決めさせていただきたいと思います。

その他の回答 (1)

noname#224207
noname#224207
回答No.1

>それがどのような概念なのかを知らないという、摩訶不思議な概念について、 ???? 具体的な事物や概念のないところに言葉は生まれません。 仮に生まれたとしてもお互いに全く通じないでしょう。 「岩」という事物も概念もないのであれば、そもそも、ご質問自体が成り立たないのではありませんでしょうか。 何を指して「岩」と言われておられるのかという事前説明が必要になるのではありませんでしょうか。 「岩」という漢字は草書体を基にして簡略化された文字です。 元々は「巌」です。 山にあるゴツゴツしたもの、という意味を表す文字です。 漢字の字義からすれば「岩」は山にあるゴツゴツしたものということになります。 この文字をやまと言葉の「いわ」に当てはめました。 つまり「いわ」も巌も同じ事物、概念を表していると考えても差し支えはないのでしょうか。 この事物をなぜやまと言葉では「いわ」と言い習わしたのかは知りません。 >地面から露出していて、かつ、その岩盤がどこまで続いているのか見た目ではわからない状態。 >逆に、地面に転がっている物は、どんなに大きくても「岩」ではないという仮説です。 とありますが オーストラリアにあるウルル(エアーズロック)は世界で二番目に大きな岩とされています。 マウントオーガスタスは欧米人として初めて命名した人が山と勘違いしてマウントと名付けましたが、現在は世界一の岩とされています。 岩盤とは独立しています。 どのようにお考えになられますか。 地学、地質学、鉱物学などの世界では岩と石は区別せずに岩石(がんせき)という言葉を使っています。 一方で土木業界などでは、砕石、玉石、砂利、砂など細かく規定しています。 言葉として「岩」を議論するのであれば「石」も同時にしませんと片手落ちになってしまいます。 万葉集のお話をされておられますが。君が代の歌詞をどのようにお考えでしょうか。 もとは古今和歌集に収録された和歌です。 謳われているさざれ石をご覧になられたことはありますでしょうか。 「いわおとなりて」とあります「いわお」とは何を指しているとお考えでしょうか、概念が無いとなりますとこの国歌は意味不明なままうたわれ続けてきことになりますが如何でしょうか。 習慣的には岩と石との区別は感覚的な大きさでしょう。 ただし、これも杓子定規な線引きはしていません。 墓石やお城の石垣どに使われているものは大きさに関わりなく石と呼ばれています。 お墓や建築部材などとして切りだす場所は石切場と呼ばれます。 山肌を削りとっていますが岩切場とは言いません。 飛鳥にある古墳の跡と言われている構築物も石舞台と呼ばれ岩舞台とは呼ばれません。 盛岡市にある石割桜も岩割桜とは呼ばれていません。 河原や山にあれば岩ですがウインチク運んで庭に据え付ければ庭石になります。 同じものでもそれがある場所や目的で名前が変わっています。 蛇足 慣用的に使われている言葉に一々杓子定規に理屈を付けると際限がなくなります。 川、河、池、沼、湖、山、丘、岡、台地、(富士山も待乳山も山と呼ばれています) これらの言葉についてどのような概念を持たれて区別されておられますでしょうか。

noname#208724
質問者

お礼

お待ち申しておりました。さっそくのご回答ありがとうございます。もしや回答が寄せられないのではないかと思って、少しへこんでいたので、とても嬉しいです。 1.エアーズロック さっそくエアーズロックの写真を見てみました。下のほうは地面の中に、どこまで埋まっているのか、見た目にはわからない。表面がごつごつしている。という感じなので、これは岩だと思います。 2.国歌 「いわお」については、これこそまさに「岩」だと思います。 千代に八千代に さざれいしの いわおとなりて(数千年を経て さざれいしが 岩となり) これは地中において、さざれ石が成長し、大きな岩になるという意味だと思います。つまり、地面(土)と不可分なのであり、どこまでも果てしなく続くという、私が考えた概念そのものです。ゆるぎない国家を目指す、まことにめでたい歌であります。 しかしながら、少なくとも私個人におきましては、意味を知らずに歌っておりました。 (国歌を拒否する先生もいらしたようですし、生徒を責めてもしょうがないです。) 3.岩盤からの切り取り 岩盤から切り取ってしまえば、岩ではなくなると私は考えていますが、ただし、切り取ったものであっても、そこに信仰心を以て人が集まり、信仰の意を示したならば、それは岩となる可能性があると考えています。 4.飛鳥にある古墳の跡と言われている構築物 石舞台 舞台が地面から離れているので、岩ではないと思います。 5.盛岡市にある石割桜 ウィキペディアより 「盛岡駅から徒歩15分の、盛岡地方裁判所構内に所在する。1923年(大正12年)に国の天然記念物に指定された。寛永年間頃に南部藩主の分家にあたる北監物の庭園であったといわれ、明治初期には桜雲石と呼ばれていた。家老の屋敷内の庭にあった巨石が落雷をうけてできた割れ目にエドヒガンザクラという桜の種子が入り込み成長したという伝承も残っている。」ということで、石だそうです。また、表面が、つるっとしているので、私も岩ではないと思います。

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    英語のdirectの発音は、ディレクトウまたはダレクトウと聞こえます。日本でダイレクトと言うのは、英語が入ってきた時、誰かが勘違いして i だからアイ としてしまったのでしょうか?いきさつを知りたいと思います。私は最近まで英語でもダイレクトウと発音するものとばかり思っていました。

  • 発音について(日本語)

    私は、発音が悪くてサ行が正しく出せませんでした。 友達に指摘され、治さなきゃなぁと思って通院しました。 結局、舌の位置が悪かったらしいのですが、 治した今でも正しく出せていない気がします。というか、出せていません。 文末の「す」、例えば「~です」「~ます」の「す」の時に 息が漏れ出ていて、「スー」と息の音が聞こえます。 原因としてあげられるのは、前歯の隙間だと思います。 その事をクラスメートにバカにされたりします。 それで、今度私はどうしても日直をしなければならなくて、号令をかけなければなりません。 その時に、からかわれるのが嫌なので、何とか「スー」とならないようにしたいです。 この事を、通院していた時に担当してもらった先生に聞いたところ、 「前歯と前歯の間に隙間があることを考慮して発音の指導をしたから大丈夫、気にしなくていいよ」 と言われました。 でも、やはり気になってしまい、歯科へ行ったところ、 「前歯の隙間を埋める場合は、歯の矯正が必要になる」と言われました。 歯の矯正が必要なら、お金もたくさんかかるし、時間もそれなりに必要だと思われます。 でも、今のままの発音でいるのも嫌です。 矯正するかしないか…迷っています。 日直を含めて、今後も人前で話す機会は必ずあります。 その度に、からかわれたり初対面の人から「おや?」と思われるのも嫌です。 分かりにくい文章でごめんなさい。 とにかく、迷っているのでアドバイスをお願いします。 また、姉には「努力次第で何とかなるんじゃないか」と言われたのですが、 息が漏れ出ない発音の仕方などがあるんですか? あるのなら、教えてください。

  • 日本語の発音について

    日本語の発音について質問をさせていただきます。 日本語の発音はいつ、どのように作られたのでしょうか よろしくお願いいたします。