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親を亡くした方に聞きたいです。

私の母は医師もお手上げの難病と診断され限界こえた介護も無念で逝きました…。七回忌が済み父も後を追うように母が逝ってから病院の入退院繰り返し、父まで…父は三回忌済んでます。父は老衰でした。 どうやったら、親を失った痛みにも似た悲しみ・寂しさを乗り越えられましたか? 因みに急に一人暮らしになって寂しい限りです。

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  • lucky1267
  • ベストアンサー率44% (449/1019)
回答No.1

心中察します。 自分は父を亡くしました。 若い頃は大酒のみで、酔っては母を泣かす大嫌いな父でした。 晩年はおとなしくなり、ある日突然家で倒れました。 救急車で搬送され結果は非常に危ない胃潰瘍と十二指腸潰瘍で緊急オペ。 なんとか一命は取り留めたものの、退院後はめっきり老け込んで。 そんな父もある日の夕方、母が部屋に行き顔を覗き込むとなくなっていたそうです。 慌てて救急車を呼びましたが、時すでに遅し。 死因は奇遇にも「老衰」でした。まだまだそんな年齢ではなかったのに。 自分は憶えてないのですが、自室に行き、荷物【必要最低限】を抱え、家を出て行こうとしたそうです。 そこで母にビンタを喰らい目が覚めたというか、父の死、という物を現実として受け入れる事が出来ましたが。 自分はまだ良いですね。母がいますから頑張れます。 でも時折ふと涙を流してしまう事があります。 父と交わした最後の言葉が 「明けましておめでとうございます」だったからです。それから10日一切話しませんでした。 後悔先に立たず。 もっともっとお話をしておくべきでした。これは未だに尾を引いています。 お互い頑張りませんか? つまらぬ愚痴回答で申し訳ありませんでした。

ok8787
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 私は父が最後にかけた言葉は独居だった父の家から帰る時、「気つけて帰れよ~…」でした。最後に会った時はあんなに喋ってたのに…やはり70代で父はいろんな事にもう疲れたのか… 又遊びに行こうと思ったら親戚から電話で電報きて、「何て書いてますか!?読んで下さい」とオペレーターに言うと「○○死す。すぐ来て下さい」の内容だったと思います。 もうタクシーで駆けつけたが既に鍵がかかっており、警察に死因調査に…。父は何処行ったの!?って感じでした。父は昼御飯の弁当食べてた途中に逝ったみたい…(泣) 母の時は夜中3時代に突然病院から電話きて「すぐ来れますか?」とナースから。 タクシーぶーっ飛ばしてもらい急いで駆けつけましたが既に息をひきとってたみたいで心臓マッサージしてた。もう当直医から聞きたくない言葉聞き、医師が手を止めたので私が心マッサージしたが ( TДT) おかあさ~ん… 母は逝くにはまだまだ若すぎた…60代だったから… 母の面会行くのはかなり辛くて…でも行くと呼吸困難が四六時中続いて息を吐く事ができなかったのに病室の入り口に入ろうとすると、いつも病室の天井見てたのに必ずこちらを向こうと首を動かしてたんです!(T-T) 母が話せてた時は「私の事を心配や!」と言ってました……… 父も入退院繰り返してた時も「おまえが心配や!」と。 私は葬儀の流れも知らず初めてでまさか!お骨見るなんてショックで足元がふらつきました。あんなに病気と闘っても笑顔をナースに忘れなかった母はスゴい……。 どうやったら、乗り越えられるのかな… 寂しい限りです……

その他の回答 (11)

noname#210533
noname#210533
回答No.12

父が死んで30年近い年月が経ちました。 今でも神棚に向かって毎朝話しかけています。 どうか、今日も一日、私の家族を守ってください、と。 病気でひどい死に方だったので、それはショックだったのですが、 父が早逝したせいで、本来なら知ることのなかった田舎の様々な 付き合いや取引に引きずり込まれてしまいました。 知らないことだらけでしたし、腹が立つことや人間が信じられなく なりそうなことなど、それなりに忙しかったのです。 父が私の腕の中で息を引き取った時に、家族は砂で出来た人間が 崩れ落ちるように、泣きながらしゃがみこんでしまいました。 私だけ、泣けなかった。 父の亡骸を、最後まで帰りたがっていた田舎に、連れて帰らなければ ならない。 葬式の手配もしなければならない。 お金は、死亡届はどうすればいいのか、 色んな色んな事を考えなければならず、私しか、それが出来そうな人が いなかったからです。 私が父が死んだことを初めて、感情的に理解できたのは葬式の席上で 弔問客に喪主の代理として挨拶をしたときでした。 まだ私は社会人として会社の人たちと毎晩飲み歩いていたのですが、 父は毎晩一人でビールを飲みながら私の帰りを待ち続けて、いつも 疲れて寝てしまっていたんです。 もっと父とお酒を飲んで話がしたかっ・・・・そこで、言葉が出なくなり、 風景が決壊しました。 自分が辛かったことさえ、良く判らなかったんです。 余りに、忙しくて。 でも、父の僅かな側面でしたが、田舎の繋がりに関わらざるを 得なくなったことで、私は父を少しづつ捜し歩きながら、彼の 向き合っていた現実を辿ることになったのです。 だから、ある意味、それは父を辿る旅でもありました。 そうして今は自分も親になり、父の年齢に並び、そして それを超えていくことで、不思議な肉親との「縁の連なり」の ようなものを感じながら暮らしています。 若い頃には想像しか出来なかった様々なこと、様々な気持ちを 「父さん、こんな時、どう思う?」と独り言を言いながら 父を忘れることなく、この27年を生きてきました。 一緒に生きて来た、とまでは思わないけれど、いつも父のことを 考え、生きて来れたことに、今度は自分がそのうちに死ぬだろう、 そうしたら私の子供は私を忘れないでいてくれるだろう、そんな 連なり・・・繰り返しと言うのでしょうか。 そういう、言葉で表現しづらいのですが、孤独ではない感じ、 亡くなった父でさえ、孤独ではない感覚があるんです。 良く推敲もせずに、あなたの文章に反応して自分のことを 書いてしまいました。 伝えたいことが余り言葉にならなくてもどかしいのですが、 何か一つでも、私の想いを汲み取って、小さな蝋燭の炎にでも してもらえたら、あなたを力づけてあげられるでしょうか? そんな小さな祈りの様な気持ちを託して、あなたとあなたの ご両親に手を合わせさせて頂きます。 あなたの目が空を見上げることを思い出しますように。 あなたが、懐かしい思い出を翼にして、過去にも未来にも 飛ぶことが出来ますように。

ok8787
質問者

お礼

回答ありがとうございます!! そういえば空を見上げる事、長年忘れてた気がします… あれ以来、人って何の為に生かされてるんだろう…等…考えてばかりで靄がかかった様で、両親の介護の時から今まで笑顔を忘れてしまってた気がします。 両親や、私の為に合掌して頂き感謝です!! (_)

noname#209946
noname#209946
回答No.11

No.9です お見送り…できたと思います。 目を開けているときに 間に合わなくっても まだ 魂があって 見てると思います。 それに その時・のために質問者さんは ご両親を日々 面倒見てこられたんでしょうから 伝わってますよ。。偉いです。 貴方の周りに 犠牲…に感じるまで 両親な関わった人いますか? 私の周りには いません。 時々 いても ちゃんとそれなりに 遺産があったりしてます。 うちは、ただただ…奉仕の親孝行でした。 だから 母は 逆に言えば 最高に幸せ者…だと思うのです。 親への恩返しだけで 夜中問わず 場所問わず いつでも娘がきてくれて(自分で言うのもですが(笑) 私は 親として冥利につきると思ってますよぉ。 自分にも子供がいますけど 同じ位してもらえるか…?と思うくらいです。 きっと あの世で 楽になってますよ^^ 私達が思うほどないです。 でも…私も もっともっと 優しくしてあげればよかったとか 思います。 絶対…誰にもありますよ。 母の手を握りたいです。 一人じゃ寂しいですね? わかりますよ。

ok8787
質問者

お礼

回答ありがとう。 私は葬儀の流れを知らなかった。 私は、母がお骨になる姿見たくて限界超え、犠牲になってまで頑張ってきたんじやない!!だからこそ悔しかった!!…葬儀から帰って1人になって地団駄踏みながら泣き叫んだ。 1人じゃ寂しいこと、わかってくれてありがとう。 どうやったら寂しさを乗り越えられるのかな…

noname#212724
noname#212724
回答No.10

 in_go-ing です。  『お礼』拝読いたしました。  冷たいようですが、質問者様はある意味、今責任から解放されて途方に暮れている状況かも知れません。私の場合は女房を亡くした後娘が希望する高校には入った時は途方に暮れた状態だったように思います。いま、娘も大学を出て就職し、後は婿さんを探すだけ。その後の私の役目はなるべく早く女房や弟のもとへ行くこと。お陰様で何一つ不自由のない生活はさせて頂いていますが、寂寞感は否定できません。まぁ、最近陶芸なんて始めてそれを紛らわせてはいますが。  よく娘のお供でデパートへ行きますが買いたい物が何もない!つい口に出してしまったのは「買いたい物が無いって寂しいな。」ってこと。娘は「パパは車が好きなんだから新車に変えたら?」なんて言ってくれますが、一体その新車にいつまで乗れるのかと思うと買う気も起きない。今の車は女房に泣いて頼んで許可してもらい買ったものです。簡単には捨てられない。  ただ一つ言えることは間違いなく今の私は幸せなんだということだけです。これを感謝して生きていくしかないんです。  質問者様もご自分の幸せを感じて、ご両親様に感謝してください。今度ご両親にお会いする時に「どうだ!」って言えるような人生をお送りになることです。そのためにお互い頑張りましょう。

ok8787
質問者

お礼

ありがとうございます。 「どうだ!」っていえる人生に変えれたらいいな~…と思いました。 たった1人の母と父へ 『Thank you for your kindnes… Thank you for your tendernes Thank you for your smile Thank you for your love Thank you for you eurything さよならの代わりに~…ありがとう…』 (_)

noname#209946
noname#209946
回答No.9

私も 母を亡くしました。 私の中では 死んだ事を受け止めていないと思います。 時々 写真をじっと見ると いないんだな…と。 十数年 毎日介助に通いました。 入退院を 数年繰り返し 言い方を代えれば 犠牲になったように 毎日を母のために 費やしました。 気を付けてね…と ベットで見送ってもらったのが最後で… 私も体調悪く 検査や病院通いに2ヶ月けらい 昼食に付き合えず 納豆が食べたいと言われたけど ネバネバしてるから 食べるのに体力使うから(肺が悪く) 我慢して…と言ったのを 誰にも話さないけど いつも一人で 後悔して 胸が痛みます。 でも…私 前は生活のために 仕事ばかりで。 今の主人と一緒になってからは 仕事もやめれたから 母の介助にも毎日通えて 何より母が 安心していたと思うし 順番通り 逝けた 看取れたと 思うことにしてます。 お墓の草取りをして いつも花を綺麗にしてます 普通は墓参りですけど 性格的に 掃除に行く感じなので たまに 手をあわせるのを忘れてしまいそうになったりして。 最期を見送れたのなら 幸せじゃないですか! 子が先に行く方が 親不孝ですからね。 順繰り… そして 貴方の番がきたら きっと 道案内してくれますよ。 私も母が 迎えに来てくれると思います。 それに…生きてるとき 苦しそうだったから 楽になったかなと 思ってます。

ok8787
質問者

お礼

長年、犠牲という言葉を聞いて、あ…私と同じ経験されてこられたんだな…と感じました。 違うのは私は今独居ということ。 やはり寂しいです。仏壇あるだけで…なんか…凹みそうというか…『最後を見送れたのなら』とありますが、夜中病院から電話を受け駆けつけた時はおかあさ~ん!!って何度も泣きながら避けんでも目も開けてくれなかった( TДT)… 最後を見送れた、と言えるんでしょうか? 元気で長生きしてほしかった…母は元気だった頃はあんなに強すぎたのに…。 母は今…どうなってるんだろうか…

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7193/21843)
回答No.8

母が死んだときはただただ哀しかったです。 父が死んだときは、人生の無常を感じました。 ”どうやったら、親を失った痛みにも似た悲しみ・寂しさを  乗り越えられましたか?”     ↑ その悲しみを詩や文章にする、という方法があります。 これは古来から行われてきた手法です。 だからそういう詩が残っている訳です。 だから、質問者さんもこういう場にどんどん書き込むことを お勧めします。 それから、ワタシは今哀しんでいる、と思っている と思うこと。 そうすると痛みが軽減されます。 これらは心理学では、客観化と言われる手法です。 自己の感情を客観化することにより、痛みが和らぎます。 後は時間が解決してくれます。 時間は最良の薬です。

ok8787
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 哀しみの対処法をお伝え頂きありがとうございます。 寂しさはどうやって乗り越えられましたか?

  • 177019
  • ベストアンサー率30% (1039/3444)
回答No.7

貴方の気持ちの中で、「死は特別のもの」との感覚、感情がある限り三回忌、七回忌が過ぎて10年経っても「親を失った」という悲しみ寂しさを乗り越える事は出来ません。人間は、朝目覚めて夜眠ります。この繰り返しで「生」「死」も特別な事では無く、自然な事の繰り返しなのです。この「死」を一度と考え、いつまででもこの死に執着させる事を教えたのがお念仏と言われる宗派で、だから信徒はなお更乗り越える事は出来ないでいるのです。私も昨年12月に義父をガンで亡くし、先月、「納骨の儀」を終えたところですが、写真を見ながら時折思い出します。義父は病床にあって持っていたデジカメに一枚の写真が残されていました。遺影にと思ったのか、まだ痩せていなくて片手を伸ばして元気な顔が写っていました。「宗教は今生きている者のためにある」が私の持論です。もちろん時折、供養する事も大事ですが社会に根を張って赫々と行きぬく事が、今は亡き両親への供養なのです。

ok8787
質問者

お礼

ありがとうございます。 私の両親は仏壇を置かず仏壇に手を合わす姿を一度も見た事がなかった為、いきなり葬儀で親戚から「宗派は?」と聞かれた時は大混乱しました。 親が別居して母と長年住んできた場合、宗派はどうなるのでしょうか?今でもこのまつり方で良いのか…と思いながら… 朝晩、私より先に仏壇に食事お供えしてから食べてます。 『もちろん』以降の言葉は大事だな~…と思いました。 『根を張って○○と生き抜く事が…』とありますが○○は何と読むのでしょうか

  • kaitara1
  • ベストアンサー率12% (1154/9141)
回答No.6

私は親に死なれてから、自分が死んでも悲しむ人が二人減ったと思うことにしました。あえて私の家庭状況、年齢を伏せますが、自分も死ぬ身であると考えると安心できることもあります。

ok8787
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 そういう風な考え方もあるんですね… 『自分も死ぬ身であると考えると安心できることもあります』 ということですが死ぬのは怖くないんですか? 私の父は要介護でヘルパー来てもらってた時「死ぬのが怖い!!っ」と口走ってましたが…

回答No.5

そちらの地域のグリーフケアの 専門家に会ってみませんか。 生きているということは一つの病気である。 誰もがその病気によって死ぬ。   (Paul Morand) 【The joy of living is the joy of giving. 『Lover Come Back』】 何かしらお役に立つこと、与えることを 継続していれば……あるいは、それぞれ、 お母さまとお父さまがしておられた社会貢献を継ぐ のなども宜しいかもしれませんよ。 All the Best.

ok8787
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 グリーフケアは両親が逝ってから聞いた事はありますが、何処でされているのか把握できてません。 ご存じでしたら教えて下さい。

noname#212724
noname#212724
回答No.4

 還暦過ぎのオジサンです。  当然?のことながら両親は既に他界していますし、女房も癌で亡くし、実弟も心筋梗塞で亡くしています。  私の場合は、とにかく仕事で忙しかった。自分でわざわざ『忙しい』状況を作り出していた部分もあるでしょう。  両親を亡くした時期は30代後半でした。未だ結婚もせず(経済的にそれどころじゃない)、自営ですから休めばその分他の日にやらなきゃならない。お金の心配は頭から抜けない時代でした。『悲しみ』『寂しさ』なんかに浸っているヒマがなかったのです。  女房を亡くした時は娘が中学三年生。ちょうど受験期でした。娘が高校進学で一生懸命の時に父親がしっかりしていなければどうしようもない。『死とは肉体と言う監獄からの魂の解放である』と何かの本で読んで自分を納得させていました。  実弟はともに仕事をしていましたのでこれまた大変。その上、実弟の家族の世話ものしかかる。仕事上では「弟がいてくれたら・・・・」と何度思ったことか。でも自分に課された責任を果たすにはそんなことを考えている時間はなかった。  いま、還暦を過ぎ、昨年は私自身が心筋梗塞で心臓の手術を受けてきました。今やっと女房や実弟を亡くしている寂しさに襲われるようになりましたが、これは私自身が幸せだからなのだと思って、先に逝ったみんなに感謝の気持ちでいっぱいです。

ok8787
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 やっぱり男性は強いですね。 私は在宅介護が始まったのは30代半ば。 母の介護は私だけに負担がかかり過ぎておりました。 母は徐々に書きにくい為代筆、食べにくい為ミキサー食作ったりオムツやケアマネ依頼してもケアマネと合わなくて途中ケアマネ変えたり。事務手続きなど何がなんやらわからない中で車椅子購入、ポータブルトイレ購入や病状進行により、リクライニング車椅子の発注やらもう在宅介護は自分の時間が全く無く緊張性頭痛で不安な中でしてきてたのを思い出しました。もっといろんな人に助けを求めても良かったと思います。徐々に話せなくなっていく、呼吸困難になっていく母を見るのは辛すぎました…。一人で限界超え頑張り過ぎ、母が逝く3カ月前には鬱といわれ葬儀の後、今度は父がで非常に気を張り詰め過ぎてた年数が長すぎた様に思う…。 月日と共にカラー写真からモノクロ写真の様に代わりかけてる気もします…強くなりたい… 私は両親逝った当初、こういう相談できるサイト知らなかったし携帯も持ってなかった… お身体大事にして下さいね

noname#235638
noname#235638
回答No.3

お父様から3年ですか・・・ 残った物は、強く生きるしかありません。 私は、乗り越えるとかは考えませんでした。 自分の家族のことで精いっぱいなのもあったけれど 何も残さなかったわけでは、ない。 まず自分が残っています。 姉もいます。 なので、一人になったわけではないけれど 私が先でなくて、良かったな...と。

ok8787
質問者

お礼

回答ありがとう… そうですか…年上の兄弟がいていいですね…

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