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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:日本語の動詞で英語の不定詞に当たるのは何形?)

日本語の動詞で英語の不定詞に当たるのは何形?

このQ&Aのポイント
  • 日本語の動詞で英語の不定詞に当たるのは未然形です。
  • 未然形は否定の判断や意志表示の判断、準名詞としての用法があります。
  • また、連用形や終止形も使用されることもありますが、特定の活用形が分かりにくい場合もあります。

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  • Nakay702
  • ベストアンサー率79% (10004/12513)
回答No.2

>日本語の動詞で英語の不定詞に当たるのは何形? ⇒よく分かりませんが、私は次のように考えます。 不定詞(原形)そのものではないかも知れませんが、例えば英語のto-infinitive、ドイツ語のinfinitiv、フランス語のinfinitif、スペイン語のinfinitivoなどは、その使われ方を見る限りでは、日本語動詞の連体形に一番近いのではないでしょうか。 例えば、 英語:To see is to believe. スペイン語:El ver es creer. 日本語:見ることは信じることだ(百聞は一見にしかず)。 連用形がそのまま名詞になったもの(学び)と、連体形の構成する名詞句(学ぶこと)との間にある違いの1つに、「目的語を取ることができるか否か」があります。つまり、「言葉を学ぶこと」とは言えますが、「*言葉を学び」とは言えませんね。 この意味でも、連用形より連体形の方が不定詞により近い関係にある、と思われます。 英語:To learn the language is very fun. スペイン語:El aprender le lengua es muy divertido. 日本語:言葉を学ぶことはとても楽しい。 少なくとも、こう言えると思います。連用形は、そのままの形で名詞に転化することが多いが、それをもって即「連用形が不定詞に当る」とは言えないだろう、と。ということは、上述の2点ほどの理由から、「連用形よりは連体形の方が不定詞に近い」ということになるのではないでしょうか。いかがでしょう。 以上、何かが抜け落ちているか、短絡的な見方をした結果か、よく分かりませんが、とりあえず現段階での個人的主観によるご回答まで。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ 連用形がそのまま名詞になったもの(学び)と、連体形の構成する名詞句(学ぶこと)との間にある違いの1つに、「目的語を取ることができるか否か」があります。つまり、「言葉を学ぶこと」とは言えますが、「*言葉を学び」とは言えませんね。  ☆ なるほど。こういった視点を期待していました。  なかい702さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  特に正解が欲しいとかの問いでもなく 趣旨もあいまいだと思われたかも知れません。  言ってみれば 途中の過程で――というのも漠然としていますが―― 言葉についての捉え方がいくつかあるかも知れないと思って たずねてみました。  ★ 連体形の構成する名詞句(学ぶこと)  ☆ ですか。なるほど。つまりたとえば    聞くは一時の恥ぢ 聞かぬは一生の恥ぢ  などとも言います。これは 連体形ですね たぶん。《聞かぬ》が――もとの形(古語)であるとしても――連体形です。《聞かず》ではない。つまり 《聞かぬ》というのは《聞かざる〔こと〕》という連体形だと思われますから。  《聞く》のほうは どちらとも取れるようには思います。つまり――現代語から見れば――終止形であるかも知れない。  けれども    聞くも涙 語るも涙。 / 見るも無残。  などは どうですかね。《聞く〔こと〕〔をして〕も語る〔側として〕も涙につながる》でしょうか? だとすれば 連体形ですが。  《見るという動作もが無残だ》というよりも――つまりその場合は 終止形らしい―― 《見ることをしても無残。あるいはつまり 見てしまうと よほど無残である。見るに堪えないほどだ。》といった意味合いでしょうか?  なるほど。もしそうだとすれば おもしろいですね。  あっ。次はちょっと物言いをはさみます。:  ★ 「*言葉を学び」  ☆ そのとおりであると同時に 《言葉‐まなび》とは言いますから。  ただし    * 言葉-まなびは たのしい。  とは マチガイではなくとも あまり言いません。(あっ。砂‐あそびはたのしい とは言いますね)。  ううーん。いろいろですね。  つまり 連体形で辞書の見出しをつくるのは 終止形と同じく 未然形や連用形などが 《まなば-》か《まなべ》か《まなび》か《まなぶ》かがよく分からないでしょうから。別の一面もありそうには思われますから 一長一短なのでしょうか。

その他の回答 (4)

  • Nakay702
  • ベストアンサー率79% (10004/12513)
回答No.5

再々度、「お礼コメント」を拝受いたしました。 > 《見るも無残》というときの表現形式としては 《見ることすらも》と言っているのではないでしょうか。 > ただし その《も》の表わす対比としては 確かにその悲惨な事態をこうむった渦中の人の体験と傍から見ることとのふたつである。 ⇒なるほど、そうですね。これできっとほぼ完璧な理解と言えるのではないでしょうか。 >《対格+動詞》の場合には 説明しておられるような《分析》による生成過程があってそのまま当てはまるように見えますが では 《主格+動詞》の場合はどうでしょう? とは思い返しました。 > 《日暮れ・日差し》の事例ですが これらなどは 単純に表層も深層も 動作主格+動作述格(つまり S+V)で単純に生成して来ると言えるのではないでしょうか? ⇒そうですね、深層と表層の間の変形や結節(node)が最小限で、ほとんど直結しているような状況と言えるでしょうね。そして、さらに、 >動詞の連用形にも 連体形と同じように動詞としての役目を保っている側面がある。 ⇒ということが確かに言えると思います。 一連のやりとりで、普段ほとんど意識していなかった日本語の構造の一隅をかいま見て、ある種の認識を得ることができたように思います。ありがとうございました。

bragelonne
質問者

お礼

 いえいえ そこまで言われると何とも恥づかしさが先に立ちます。どこかできっとマチガイを侵しているんぢゃないかと。  《結節( node )》って知りませんし でも 《S+V》の場合には 単純でいいんですね?  でも こういったやり取りでこそ問い求めがすすむというところがあるように思います。  命令形を 不定詞に当てることは無いでしょうが 連体形を推し出すということも発想の外でした わたしにとって。  おもしろくたのしかったです。  ありがとうございます。  しばらく開いていて 明日にでも締めます。  重ねてありがとうございます。

  • Nakay702
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回答No.4

再度の「お礼コメント」をありがとうございました。 > ★ 「見るも無残」についても同じです。国語辞典によれば、この「も」は、「活用語の連体形を受けて、『ても』・『でも』と同義」、とあります。そし て、その「ても」は、接続助詞「て」+係助詞「も」で、「条件を示す部分に接し、あとに述べる事柄がその条件に拘束されない意を表す」といいます。 > ☆ 《見ることをしても無残》ということでしょうか。同じく連体形だとは思います。 ⇒「(当の渦中の者にとってはもちろん)見る者・傍観者にとっても無残だ」の意ではないでしょうか。 > ★ すなわち、この「言葉学び」や「砂遊び」における「言葉」や「砂」は、意味分析上はそれぞれ「学び」や「遊び」の対格や具格ですが、構造上は単なる2つの名詞結合でしかありません。 > ☆ ん? 対格であれば 連用形の《まなび・あそび》が動詞としての意味を保っていませんか? > ・ (対格+動詞):トンボ釣り・魚取り・大蟻食い・竹取り物語 > ・ (主格+動詞):日暮れ・日差し・肥立ち(=日経ち)・日の出・日の入り ⇒はい、おっしゃるとおり、「動詞としての意味を保って」います。つまり、意味上(=深層構造)は「対格+動詞」で、形式上(=表層構造)は単なる2つの名詞結合である、という状況ですね。いわゆる「変形生成文法」の理論を借りて、「トンボ釣り」を考えてみましょう。こんな感じです。“最深層にS+V+O(NP)「~がトンボを釣る」があって、それがV+O(NP)「釣るトンボを」 → V(NP)+O(NP)「釣りトンボを」→O(NP) +V(NP)「トンボを釣り」のように変形していって、最表層でNP+NP「トンボ釣り」という形をとって表出された。”平たく言えば、「トンボ釣り」と表現する人の意識の最深層には、あらかじめ「~がトンボを釣る」という『文』があって、それが一連の変形操作を施されて「トンボ釣り」という『名詞+名詞』の形となって言表された、ということでしょう。 > ★ なお現代の日本語では、終止形と連体形が同形になってしまいましたので、「国語辞典の動詞の見出しは(もちろん終止形と考えることもできるけれども)連体形である」と言っても、おそらく齟齬をきたすようなことにはならないのではないでしょうか。 > ☆ 上一段や下一段活用は それぞれ上二段や下二段の語形が わづかながら現代でも残っているとは思われます。 ⇒そうですね。口語だけの現象ですから、早とちりでしたね。言えることは、せいぜい「口語では、終止形と連体形が同一化する傾向がある」くらいでしょうね。失礼しました。 以上、再々伸まで。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  残った問題点を片付けてまいりましょう。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~   ☆ 《見ることをしても無残》ということでしょうか。同じく連体形だとは思います。  ⇒「(当の渦中の者にとってはもちろん)見る者・傍観者にとっても無残だ」の意ではないでしょうか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この意味は 次の(え)の解釈と同じであるように思われます。  ▼ 見るも無残とは:日本語表現辞典 Weblio辞書  ~~~~~~~~~   http://www.weblio.jp/content/%E8%A6%8B%E3%82%8B%E3%82%82%E7%84%A1%E6%AE%8B  (あ) 直視できないほど痛々しい様子。  ▼ 見るも無残な:Weblio類語辞典 ~~~~~~~~~~~~  http://thesaurus.weblio.jp/content/%E8%A6%8B%E3%82%8B%E3%82%82%E7%84%A1%E6%AE%8B%E3%81%AA  (い) 状況が極めて悲惨なさま:    地獄の ・ 戦場のような ・ 地獄絵図の ・ 地獄のような ・ 死屍累々の ・ 殺伐とした ・ 生き地獄のような ・ 生きた心地のしない ・ 最悪の ・ この世のものとは思えない ・ 修羅場の ・ 戦地のような ・ 戦のような ・ どん底の ・ 奈落の ・ 奈落の底の ・ この世のものと思われない ・ おぞましい ・ 見るも無残な ・ 悪夢のような  (う) ものが余りにも酷い状態になって、見ることすら嫌になるさま:     見るも無残な ・ 見るに堪えない  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 同じ辞書からの引用ではありますが 少しづつ違っているようにも思えます。  つまり (う)が《見ることすら嫌になる》のなら 《渦中の者ならなおさらである》と言っているように思われます。  と同時に 渦中の人であっても第三者であっても その事態の後始末をしているそのこととそして見る(傍観する)こととを比べているのかも知れない。  (あ)と(い)とは どういう意味になりましょうか?  《情況じたいについて 痛々しい・おぞましい・生きた心地のしない》というのは分かるとして では《見るも》は 何と並べられているのか? 《見るだけではなく すでにその情況の渦中にあって体験していること》に対してでしょうか?  あっ。分かりました。  つまり 《見るも無残》というときの表現形式としては 《見ることすらも》と言っているのではないでしょうか。  ただし その《も》の表わす対比としては 確かにその悲惨な事態をこうむった渦中の人の体験と傍から見ることとのふたつである。  なぜなら 《〔渦中にあって体験する者はもちろん〕見るだけの者すらも無残》というふうに捉えると そこに何らかのむごたらしい事態が起きているということからいくらか目を離してしまうような感じがするのですが どうでしょう?  ★ 平たく言えば、「トンボ釣り」と表現する人の意識の最深層には、あらかじめ「~がトンボを釣る」という『文』があって、それが一連の変形操作を施されて「トンボ釣り」という『名詞+名詞』の形となって言表された、ということでしょう。  ☆ 成算が無いと言いますか 結果を考慮せずに この論点では物言いをさらにつづけてみます。  つまり 《対格+動詞》の場合には 説明しておられるような《分析》による生成過程があってそのまま当てはまるように見えますが では 《主格+動詞》の場合はどうでしょう? とは思い返しました。  つまり 《日暮れ・日差し》の事例ですが これらなどは 単純に表層も深層も 動作主格+動作述格(つまり S+V)で単純に生成して来ると言えるのではないでしょうか?  そういう意味では ご説明内容に全面的に納得が行くかと言えば いまひとつの点があったように感じるのですが どうでしょうか。  以上 二点でしょうか。第一点はあまり生産的ではないかも知れません。適当にあしらってくださって構いません。  つまり 動詞の連用形にも 連体形と同じように動詞としての役目を保っている側面がある。こういう物言いになると思います。

bragelonne
質問者

補足

 お礼欄について 訂正です。  第一パラグラフ:  x ☆ この意味は 次の(え)の解釈と同じであるように思われます。  ○ ☆ この意味は 次の(う)の解釈と同じであるように思われます。

  • Nakay702
  • ベストアンサー率79% (10004/12513)
回答No.3

「お礼コメント」をありがとうございました。気まぐれに、つまみ食い的な返事を書かせていただきます。 >聞くは一時の恥ぢ 聞かぬは一生の恥ぢ などとも言います。これは連体形ですね たぶん。《聞かぬ》が――もとの形(古語)であるとしても――連体形です。《聞かず》ではない。つまり《聞かぬ》というのは《聞かざる〔こと〕》という連体形だと思われますから。 > 《聞く》のほうは どちらとも取れるようには思います。つまり――現代語から見れば――終止形であるかも知れない。 ⇒「聞くは」とは、「聞くことは」ということで、終止形というより、(私は)連体形だと思います。「聞かぬ」は、「聞く」の連用形「聞か」+打消しの「ぬ」の連体形で、やはり「聞かないこと」という連体形だと思います。 おなじみの「聞くことは一時の恥であるが、(知らないことを)聞かないことは一生の恥だ」という口語訳表現には、より如実に「連体形ぶり」が含み込まれていますね。 >聞くも涙 語るも涙。 / 見るも無残。 などは どうですかね。《聞く〔こと〕〔をして〕も語る〔側として〕も涙につながる》でしょうか? だとすれば 連体形ですが。 > 《見るという動作もが無残だ》というよりも――つまりその場合は 終止形らしい―― 《見ることをしても無残。あるいはつまり 見てしまうと よほど無残である。見るに堪えないほどだ。》といった意味合いでしょうか? ⇒「聞くも涙、語るも涙」は、「聞く側も涙、語る側も涙」ということで、やはりいずれも連体形だと思います。 さらに、「見るも無残」についても同じです。国語辞典によれば、この「も」は、「活用語の連体形を受けて、『ても』・『でも』と同義」、とあります。そして、その「ても」は、接続助詞「て」+係助詞「も」で、「条件を示す部分に接し、あとに述べる事柄がその条件に拘束されない意を表す」といいます。ということで、この「聞く、語る、見る」もすべて連体形のようですね。 >★ 「*言葉を学び」 >☆ そのとおりであると同時に 《言葉‐まなび》とは言いますから。 >砂‐あそびはたのしい とは言いますね。 ⇒この「言葉学び」や「砂遊び」は、例えば「道徳教育」や「海外遠征」などと同じで、2つの名詞を連結して名詞句を造語しているわけですよね。ドイツ語の例、Kinder「子ども」+Garten「庭」でKindergarten「幼稚園」になるのと同じようなものでしょう。すなわち、この「言葉学び」や「砂遊び」における「言葉」や「砂」は、意味分析上はそれぞれ「学び」や「遊び」の対格や具格ですが、構造上は単なる2つの名詞結合でしかありません。こういう、いわば構造と意味の「錯綜状態」は極めて頻繁にありますね。例えば、有名な例として「彼の肖像画」his portraitというのがあります。「彼」は構造上では属格ですが、意味上では、(i)主語「彼が描いた」、(ii)目的語「彼を描いた」、(iii)所有「彼が持っている」などを表す可能性があるのですから。 >連体形で辞書の見出しをつくるのは 終止形と同じく 未然形や連用形などが 《まなば-》か《まなべ》か《まなび》か《まなぶ》かがよく分からないでしょうから。別の一面もありそうには思われますから 一長一短なのでしょうか。 ⇒辞書では、古語辞典でも現代語辞典でも、動詞の代表形としては終止形を挙げているのが普通ですね。もちろん、現代印欧諸語ではくだんの不定詞が代表形として扱われます。一方、古典ラテン語では、直説法現在1人称単数形が代表形(辞書形)です。 なお現代の日本語では、終止形と連体形が同形になってしまいましたので、「国語辞典の動詞の見出しは(もちろん終止形と考えることもできるけれども)連体形である」と言っても、おそらく齟齬をきたすようなことにはならないのではないでしょうか。 分かり切ったようなことをぐだぐだ書きましたが、以上、再伸まで。

bragelonne
質問者

お礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ 聞くは一時の恥ぢ 聞かぬは一生の恥ぢ:おなじみの「聞くことは一時の恥であるが、(知らないことを)聞かないことは一生の恥だ」という口語訳表現には、より如実に「連体形ぶり」が含み込まれていますね。  ☆ 了解しました。  ★ 「聞くも涙、語るも涙」は、「聞く側も涙、語る側も涙」ということで、やはりいずれも連体形だと思います。  ☆ 同じく了解します。  ★ 「見るも無残」についても同じです。国語辞典によれば、この「も」は、「活用語の連体形を受けて、『ても』・『でも』と同義」、とあります。そして、その「ても」は、接続助詞「て」+係助詞「も」で、「条件を示す部分に接し、あとに述べる事柄がその条件に拘束されない意を表す」といいます。  ☆ 《見ることをしても無残》ということでしょうか。同じく連体形だとは思います。  ★ すなわち、この「言葉学び」や「砂遊び」における「言葉」や「砂」は、意味分析上はそれぞれ「学び」や「遊び」の対格や具格ですが、構造上は単なる2つの名詞結合でしかありません。  ☆ ん? 対格であれば 連用形の《まなび・あそび》が動詞としての意味を保っていませんか?  ・ (対格+動詞):トンボ釣り・魚取り・大蟻食い・竹取り物語  ・ (主格+動詞):日暮れ・日差し・肥立ち(=日経ち)・日の出・日の入り  ★ なお現代の日本語では、終止形と連体形が同形になってしまいましたので、「国語辞典の動詞の見出しは(もちろん終止形と考えることもできるけれども)連体形である」と言っても、おそらく齟齬をきたすようなことにはならないのではないでしょうか。  ☆ 上一段や下一段活用は それぞれ上二段や下二段の語形が わづかながら現代でも残っているとは思われます。  ・ 尽く(尽くる‐)~尽きる  ・ 果つ(果つる‐)~果てる  ・ す(為)(する‐)~する  ・ 信ず(信ずる‐)~信じる  まぁ 言えるところは目いっぱい物言いを並らべました。

  • f272
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回答No.1

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E5%AE%9A%E8%A9%9E 伝統的な日本語研究を引き継ぐ日本語学では、日本語に不定詞という動詞の活用カテゴリーを認めることはまれだが[1]、西ヨーロッパ言語を中心とした用語法において、いわゆる連用形を不定詞と見なすことがおおい[2]。 私も連用形が不定詞にあたると考えるのがもっとも適当だと思います。

bragelonne
質問者

お礼

 えふ272さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ▲ 西ヨーロッパ言語を中心とした用語法において、いわゆる連用形を不定詞と見なすことがおおい[2]  ☆ これは 参照文献として 外国人の研究が挙げられているようですね。  ▲ (ヰキぺ:不定詞) ~~~~~~~~~~~~  脚注  [1] 益岡隆志・田窪行則『基礎日本語文法改訂版』くろしお出版、1992。  [2] Martin, Samuel. A reference grammar of Japanese. New Haven: Yale University Press. 1975. §9.1.  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ★ 私も連用形が不定詞にあたると考えるのがもっとも適当だと思います。  ☆ わたしもどちらかと言うと 同じ見方をしているのですが それに対して 未然形がむしろ不定法〔としての活用形〕ではないかとも考えています。もっともその場合には 辞書の見出しに出しても なかなかはっきりとは動詞として確認できないかとも思いますので 考え方として言ってみている程度にはなるようですが。  ありがとうございました。不定詞との突き合わせをも超えて 動詞の活用形についての見方を回答として得られたならとも思っております。

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