• ベストアンサー

無宗教の人間としての道徳の根拠は何でしょうか?

雪中庵(@psytex)の回答

回答No.8

法規や道徳といった自己の喜び以外の(それを抑制する) 外的権威や他律的価値は、社会性の発達における利己と 利他の対立において、他律的に社会行動をとらせる方法 として発達したものだ。 自己の生の社会的拡張をフォローできるだけの認識の深 まり=社会生命的自覚化において、自律的に社会行動を とれるならば、利己は社会的な繁栄(利他)を経由して 果たされる=利己と利他の一致において、宗教や法規と いった拘束衣は不要となる(生きる事自体による充足= 人生を通算した精神的充足量の充足化の達成)。

yuniko99
質問者

お礼

先生はよく 人生を通算した精神的充足量の充足化 と言われますが 何も通算しなくても 終り良ければすべて良しと言うのもあるのではないでしょうか 結果が良ければ少々の苦労は報われるのではないでしょうか? 道徳は確かに他律的ですが それを教えてもらわないと どうやって利己と利他が一致するか分からないのではないでしょうか? 僕はそのような道徳観に嫌な思いではなく もう一度考えてみたいなと思います 仁義礼智 忠信孝梯の八つの徳とか懐かしい。南総里見八犬伝でしたねえ。 どうもありがとうございます。

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