• ベストアンサー

無宗教の人間としての道徳の根拠は何でしょうか?

宗教を熱心に信じてる人は その宗教の教理が道徳の根拠に成るのかもしれませんが 宗教を信じてない人の道徳の基本、根拠は何にあると思いますか? 日本人などは宗教を熱心にやってない人も多い様です そういう人も道徳というか行動の規範として 自分のポリシーなり考え方があると思います そういう人にとっても参考になると思うのですが。 貴方はどういう根拠で道徳なりポリシーを持っていますか? どうかよろしくお願いします。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
回答No.12

自らが人間であり、人間らしく振舞いたいと言う宗教だよ。 この場合、人間であると言う教育はほとんど宗教と同じ役割だった。 そんな実情により、私は、 仏と言う言葉を現代語訳すると人間と言う言葉になる。 こう言っている。 まさにそんな人間信仰だ。

yuniko99
質問者

お礼

人間信仰とは成る程ですねえ。 人は人間として生まれ 死んだら仏となる。その仏を現代語訳したら人間という言葉になる 人間性とかヒューマニズムに繋がるといいですねえ どうも大変ありがとうございます。

yuniko99
質問者

補足

良い回答が多くて悩みました。秩序もいいし自分が身につけたものも、母から教わったものも良かったのですが 中でもこの答えが面白くて 成る程と唸りました。 今回は難しかったです。

その他の回答 (18)

  • a_hona
  • ベストアンサー率21% (95/444)
回答No.19

最近思うのは、人生は一発勝負だということです。一か八かではなく、一発勝負故に、自分の本当にしたいこと、自分の本当の気持ちを確かに持って事に当たることが生き方の重要な点かと思います。 そのためには、自分の本当の気持ち以外の装飾を除いて、素になることだと思います。 どうでしょう。人生でやり残したことや、これからの生き方などを超えて、まさしく自分らしい自分でいられないでしょうか。

yuniko99
質問者

お礼

病気さえしなければ 僕は自分のやりたい様にやって来ました 労働も貧乏もしたくてした様なものです。 確かにかなり軟弱になりましたねえ。優柔不断のような気がします。 しかしまだまだこれからです。 どうもありがとうございます。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.18

Ano.15です。 yuniko99様、ありがとうございます。 >「自由と平等って 日本にありますかねえ?そんなものが??」 「Aを選択するとA・・・、Bを選択するとB・・・が待っている」 (「機会の平等」や、「インフォームド・コンセント」については、充分かどうか)

yuniko99
質問者

お礼

成る程 そういう意味で自由と平等なのですね ガッテンです。 どうも大変ありがとうございます。

  • Nouble
  • ベストアンサー率18% (330/1783)
回答No.17

済みません 書き間違えました 道理 摂理、真理、 事情 人の設計 と、書きました が 道理 摂理、真理、 叙情 人の機能的設計 ですね 済みません

yuniko99
質問者

お礼

事情ではなく叙情でしたか これは僕も誤解してしまいました 気がつかなくてすみません どうも大変ありがとうございます。

  • kohichiro
  • ベストアンサー率21% (306/1447)
回答No.16

NO・11 です。 先の文中での「小乗仏教」は「大乗仏教」のあやまりでした。訂正します。 ついでというと何ですが、回答が半端だったので、補足しておきます。 >貴方はどういう根拠で道徳なりポリシーを持っていますか? 私自身のことを書かねばならなかったのですね。それは当然先に書いたようなことがいえると思います。特に深く考えたことはなかったのですが、私の道徳観念は思えばやはり両親、特に母からのものが大きいように思います。今思えばごく日本人的な家父長的大家族的儒教的な考えと仏教的な人生観、生活観(うちは高田派の浄土真宗でした)で、ご近所との調和の取れた無難な生活を維持できるように、特に贅沢はせず勤勉に自分の社会的な立場を責任を持って守っていくというようなものです。父は多少変わっていて、個人主義、悪く言えば利己主義的考えの強いひとでしたので、若い頃は反発することもありましたが、今となってみればそれも、確実に私自身の心に影響を与えていたことを感じています。 普通にわれわれ一般庶民が社会生活を営むためには、上記のようなことで殆ど事足りているように思えます。ただ、公的な活動、多くは一市民として国政選挙に一票を投じるとか、このようなサイトで具体的な考えを主張したりするときには、たしかに仰るような >貴方はどういう根拠で道徳なりポリシーを持っていますか? こういう質問が具体化するというか、問われることになるということでしょうね。 「おまえは、偉そうなことを主張しているが、その根拠は何なんだ?誰の主張を代弁しているんだ?ただの無名の、権威の無いお前個人の主張など誰が信用するというんだ?」 そういう意味なら、仰るとおり、何の価値も無い考えを言っているのかもしれない、とも思います。なので、私自身はできるだけそれだけで基本的に筋の通って居るように読める考え方を書くようにしています。 強いて政治的なことを言えば「全体主義」よりも「個人主義」を重んじるというようなことは言えると思いますが。

yuniko99
質問者

お礼

私も父には反発心がありました。道徳ポリシーも父から影響を受けましたが 父は非常に我侭で、今で言えば自己チューでした。今もでしょうけど。 しかしその悪い影響も受けてますねえ。父は「俺は反面教師だ」と言っていましたが じゃあ反対にどうすればいいのか、お手本がないので困りました、今も困っています。 個人主義もあります。人間は集団になると恐ろしい事をしかねませんので 個人の良心に主体を置いた思想信条が良い様に思います。 全体主義は犠牲を省みなくなる事がありますからねえ。 母はおとなしいと言うか 父の我侭に支配されていたので もっと母が主張してくれると 有り難かったのですが・・・お陰で私は幸せを捨てて哲学なんぞにのめり込み・・・ どうも大変ありがとうございます。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.15

yuniko99様、こんばんは。 >「宗教を熱心に信じてる人は その宗教の教理が道徳の根拠に成るのかもしれませんが」 しばしば熱心過ぎて問題になる、ということが起きております。(信教の自由の逸脱) >「宗教を信じてない人の道徳の基本、根拠は何にあると思いますか?」 ですから、上記を割り引くとして。 >「日本人などは宗教を熱心にやってない人も多い様です そういう人も道徳というか行動の規範として 自分のポリシーなり考え方があると思います そういう人にとっても参考になると思うのですが。 貴方はどういう根拠で道徳なりポリシーを持っていますか?」 「人権侵害は、不可能」ですね。全ての法律を牽制する憲法の最高原理です。 ここにおいては、「信教の自由」も相対化されます。 人権侵害状況を引き起こすような法律は「違憲無効」です。 (「一票の価値」問題など) ・・・それらは「自由と平等」という問題に帰結するのでしょうか?

yuniko99
質問者

お礼

ちょっと分かりづらいですねえ。 >>「宗教を信じてない人の道徳の基本、根拠は何にあると思いますか?」 >ですから、上記を割り引くとして。 上記を割り引くと 熱心過ぎる を割り引いて 普通に宗教を信じると 道徳の根拠がある。或いは宗教を信じなくても熱心過ぎなければ道徳の・・・ よく分かりません。 人権侵害は不可能と仰ってる様ですが 日本に於いては人権を侵害されてない人の方が少ないのでは? 日本人の悪口とかすごいですよ、暴力はいけないと 見えるものには厳しですが 見えない所では言いたい放題 悪口陰口 誹謗中傷 揶揄嫌味 ヘイトスピーチ 目を覆うものがあります。あれが人権侵害でないとでも? 宗教差別も本音と建前では全然違うじゃないですか。 自由と平等って 日本にありますかねえ?そんなものが?? どうもありがとうございます。

  • Nouble
  • ベストアンサー率18% (330/1783)
回答No.14

私は 多々あります が、 幾つかだけ 挙げると 道理 摂理、真理、 事情 人の設計 等も挙げられますね 此が最優先 と、言う訳 ではないの ですが

yuniko99
質問者

お礼

道理、真理、摂理は関係が多いですねえ。 事情というのは事実の有り様の様な事でしょうか? 人の設計 人間が作ったものに関してでしょうか? 確かにそれらは根拠になり得ますねえ。 色々と参考にする、複数の根拠を持つという事でしょうか? 成る程どうも大変ありがとうございます。

回答No.13

自己としての揺るがぬ確信です。 非人情はいいが不人情は許さぬ。 人にされて困ることはしない。 人からしてもらいたいことはして差し上げる。

yuniko99
質問者

お礼

成る程 根拠は 確信にあるという考えですね。 幾ら色々言っても 確信がなければ良いとも悪いとも言い様がないですねえ。 確信を得るまで考えるか、信じるか? どうも大変ありがとうございます。

  • kohichiro
  • ベストアンサー率21% (306/1447)
回答No.11

>宗教を信じてない人の道徳の基本、根拠は何にあると思いますか? それこそひとそれぞれなのでしょう。多くの人は意識をして特別な道徳観念を生活に取り入れることはしては居ないでしょう、特に日本では。 一般的な日本人の現在の道徳観は、ほとんどが生まれてからの環境、親の行動や言動の影響や一緒に遊んだり交わる友人知人からの感化によるものだろうと思います。私のような戦後っこや団塊の世代は、戦中派の親や明治以後の祖父などからの影響があったとおもいます。 日本人の道徳の規範は封建時代からの武家社会が受けた儒教によるものが大きかったと思います。なのでその系譜に明治以後天皇崇拝がまざった神道の考え、さらには一向宗や阿弥陀崇拝による農民たちの小乗仏教の庶民的なものもあるかもしれません。 そういった思想がなお形を変えて現在のマンガやTVやマスコミの中に様々に混ざっているので、現代の子供たちは小さい頃からそれらにも影響を受けているのだろうと思います。

yuniko99
質問者

お礼

歴史の中で入ってきた、あるいは復活した色んな考えが親を通して子どもの心に入ってくる訳ですね 色んな思想を持っているから色々と補ってるかもしれませんねえ タコ足で立ってる様なものかもしれません。 一つの考えとして日本の特徴でもあると思います。 どうも大変ありがとうございます。

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7194/21844)
回答No.10

"無宗教の人間としての道徳の根拠は何でしょうか? "   ↑ 秩序です。 人間は独りでは非力です。 しかし、人間が集まると、神も驚くような力を 発揮します。 事実、ヘーゲルはこれを神としました。 この人間集団を形成維持するためには秩序が 必要です。 秩序を乱すのが悪で、形成維持するのが善、という わけです。

yuniko99
質問者

お礼

秩序ですね。 エントロピーでしょうか? これは素晴らしい 言えてますねえ どうも大変ありがとうございます。

  • a_hona
  • ベストアンサー率21% (95/444)
回答No.9

身に付いたものとしての行動規範は 持っているでしょう。それは、成長の過程において自ら喚起したか、或いは学んで来たものであって、その根拠は自らの生き方でもって立証して行くものだと思われます。自らの人生において、それが正しかったのだと証明せねばならない性質のものではないでしょうか。外的な保証は存在しないと思います。

yuniko99
質問者

補足

自らの人生において証明するもの。成る程 そう言われるとそう思えますねえ でもそれでは 証明できなかったら 間違ってたことになるのでしょうか? それではイチかバチかという感じもしますねえ。 もっとなるほどと思えるような根拠はないものでしょうか しかしそれは一理あると思います どうも大変ありがとうございます。

関連するQ&A

  • 宗教と道徳について。

    外国で無宗教と言ってはいけない・・・と聞いたことがあります。 宗教=道徳という考えがあって、無宗教は道徳を持たない人と見なされるから、ということらしいですが・・・ でも、どうして外国の人は宗教と道徳を一緒にして考えるのでしょうか? 私の考えとしては、宗教と道徳は別物だと考えているので、 無宗教でも必ずしも道徳や常識のない人とは思いません。 人としてやってはいけないこと(殺人など)は、宗教に関係ないと思っています。 ちなみに、私の宗教の概念とは、神に対する信仰や厳しい戒律のことです。 道徳は、日常の中で使われている常識などです。

  • 無宗教者の道徳心と宗教の役割

    人間の善悪の基準は、宗教に入っている人なら経典や神父や牧師などによって基準が作られるのだと思います。 しかし、無宗教の人の道徳心というものは、どこでやしなわれるのでしょうか?また、犯罪に走ったり、反社会的な行動を規制する自制心はどこでやしなわれるのでしょう? 善悪の基準は、現代社会と古代ではまったく異なってたものだと思います。人間の考える現代における悪とはなんですか?

  • 宗教を信じておられる方は、何を根拠に宗教を信じておられるのですか。

    宗教を信じておられる方は、何を根拠に宗教を信じておられるのですか。 また科学との折り合いをどのようにつけておられますか。 例えば死後3日たったキリストが復活したとか。 むかーし、「エホバの証人」の信者さんがうちにきて見せてくれたパンフレットには 墓からたくさんの人が蘇ってでてくる様が描いてありました。 そのような話をいかにして信じるに至ったのでしょうか。 「知性の犠牲を強いることである。」と武部宗彦さんはおっしゃっていますが。

  • ひとつの宗教のみが正しい根拠とは

     数日前に、ひさびさにひとつの宗教にこり固まっている  人たちと話をしました(論戦?)  日蓮宗系の人たち(女性)で、日本人が全員、法華経に  帰依しなければ日本が滅ぶとのこと。  まあ、そうした信仰そのもは法華経の信者ならば、(過激かどうかの  違いはあるにしても)ありうる話で、目くじらを立てることもありません。    ただ、問題はその根拠です。  その方々にそう主張する根拠を問うと、  自分たちの教団の経典のここに書いてあると  「自分たちの経典」の一節を指し示すのです。  私が「世の中には色々な宗教があり、その数だけ  経典や聖書のたぐいがありますね。その人たちも  あなた方と同じように「自分らの経典」だけを根拠として  自分らが正しいと言い募るならば、その両者のあいだに  どうやって対話が成り立ちますか?  あなたがたは、ほかの人を説得したいんでしょう?  あるいは少なくとも理解してもらいたいんでしょう?  それならば、自分らの経典をいったん離れて  相手の立場にたって、相手にも分かるような  議論の進め方をしなければいけないんじゃないですか?  だからこそ釈迦は「たとえ話」を多用したんじゃないですか?」  と言うと、「いや、自分らの経典が正しいんだから」  とか、なんとか話がそれ以上、かみ合いません。  そこで質問です。  どうしてこのようなことが起こるのでしょうか?  彼らは他人を説得したり納得させたり  さらには自宗に改宗させたりしようということを  放棄しているのでしょうか?  それぞれの経験と立場でご回答いただければ  幸いです。    

  • 性的道徳とは具体的にどういうものですか?

    わいせつ表現をめぐってわいせつの三要件や判例に出てくる「性的道徳(道義)」やその維持とはどういうことを言っているものなのでしょうか? かりにそれが行動規範(その維持)のことだとすれば、たとえば「レイプはいけない」などがその内容になってくると思います。 たとえば女性が強姦される筋の成人向け漫画がありますよね。性器が修正された状態で流通しているでしょうが、このような処置は、強姦するという話自体は一切変えません。 裁判と出版社とのいたちごっこをめぐってこのような修正方法が確立されたと考えると、司法は「話の筋」のような行動規範に影響を与えそうなものは問題としなかったと考えられます。 なので性的道徳は少なくとも行動規範のことを言っているものではないということになり、ふりだしに戻ってしまいます。 結局わいせつな表現を修正して守ろうとする性的道徳の中身にあるものは何なのでしょうか? その維持が目的というからには、わいせつな表現で世の中がどう変わるのがまずいのかということだと思います。 自己解決を試みても埒が明かなかったので、性的道徳とは何なのかもう少し具体的に教えていただるとありがたいです。よろしくお願いします。

  • 「可哀想」と道徳

    「可哀想」という価値判断は、個人にとっての道徳的な行為規範とはなりませんか? 可哀想=相手に共感し、思いやる気持ちからくるのであれば、相手にとって「可哀想」な結果となることはなるべき避けるべきことという帰結になるように思います。 ところが、「可哀想なこと」を「すべきでないこと」と考えるかは人それぞれであって、可哀想なことと道徳は関係ないと主張する人がいます。 「可哀想」と道徳はあまり関係ないのでしょうか。関係あるのでしょうか。

  • どちらが道徳なのか倫理なのか

    外からの規範に強制されるのが道徳なのか倫理なのか 内からの良心によるのが倫理なのか道徳なのか。 ネットで調べてもどっちも書いてある。一体倫理とは、道徳とはどちらとするのが正しいのか? 詳しい人教えてください。

  • あなたは信じている宗教がありますか?

    あなたは信じている宗教がありますか? もしあったならそれはどんな宗教ですか?またなぜその宗教を信じているのですか?心のよりどころですか?教理に共感してですか? もしくは、信じる宗教がなかったなら、あなたは何を信じて生きているのですか?科学ですか?自分ですか?家族ですか?仕事ですか?会社ですか? 人は何かを信じて生きていくべき生物なのでしょうか?その方が精神衛生上良いのでしょうか? 質問が散文的ですが、あなたが思っていることをお書き下さい。

  • 道徳と不倫

    年齢を重ねる中で、時代の流れのギャプを痛感しています。 かつての非常識が今や常識となり、その逆も然りの事象が、巷に溢れている。これまで深くも考えず、当たり前の言葉として使ってきた、道徳と倫理とは一体何だろうと、振り返って考えてしまう。「道徳」とは、「人としての道」であり、「倫理」とは、社会の中で「人間として生きていく場合の自己規範である」と言われる。道徳も倫理も、日本独自の風土習慣の中で長年に亘って培われてきたものだろう。しかし、今やインターネットの普及や経済のグローバル化で、世界の情報が善悪の垣根を越えて氾濫している。ここでいう「人」「人間」とはなんだろう。「犬畜生」ではないということか。今や犬も猫もペットとして可愛がられ動物愛護法も出来ている。人非人ではないということか・・道徳を論ずるときに、このような差別用語は引き合いに出されるべきではない。また現代社会における正しい「自己規範」とは、具体的にどのような規範なのだろう。概念的であり、不確定表現であり、言っていることが十分に解せない。今までは「不倫とは人にあらざる道」だと、躊躇なく他人に説教してきた。かつては日本にも「姦通罪」があり、北原白秋も処罰されたと聞く。しかし第二次大戦後の日本国憲法の改正で、「男女平等」に違反するため廃止となった。廃止ということは罪ではなくなったということだ。現在でも不倫を処罰する法律は皆無である。民法上では、肉体関係が或る場合に限り、不貞行為として規定されているが、不倫相手への妻の慰謝料請求権や離婚訴訟権を認めるものの、罰則規程ではない。このように考えてきたとき、新生語がどんどん辞書に取り込まれるように、不倫も時代の流れの中で、セフレやPMと名を変えて常識に変貌し、道徳上のいけないことではなくなったということか。それとも、これが文化の腐敗又は道徳社会の崩壊ということか。不倫は駄目だと諭すことが出来なくなってしまう自分に戸惑っています。どなたか論理的に説明できる方がおられたら、ぜひともご教授お願いします。

  •  宗教と道徳と法律とは矛盾するものでは・・・・・

     「宗教と道徳と法律とは矛盾するものではありません。」  こう云ったのは明治から大正にかけて活動された山崎弁栄(やまざきべんねい)というお坊さんです。  このお方が地方伝道に行脚されている間、留守居のお坊さんに伝道資金を預けておいたところ、そのお坊さんは、預かった資金をあることに“消費”してしまったので、その非を懇々と諭された。が、懺悔する様子がないので「それでは法律に訴えますぞ」と裁判沙汰にしたのを「宗教家らしくもない」と非難する人に云った言葉が「宗教と道徳と法律とは矛盾するものではありません」です。  裁判後の結果は悪用された三宝物の半金をその兄弟が出すことで示談になったと云う事ですが、他日、弁栄というお坊さんは「監獄(刑務所)は個人の力では直せぬ罪悪を、国家の力で直してくれる所である」。また「人の心霊は名刀のごとし、はなはだしき錆(さび)は荒砥(あらと)を用いて除き去る」とおっしゃって、本人の更生を願われたとのことです。  宗教。道徳。法律。  これらをどう捉えるかで、意見が分かれると思いますが、私は単純で無知、且つ素直なので何の疑問も持たずに、なるほどと思うばかりです。  よろしければお考えを聞かせてください。