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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:道徳と不倫)

道徳と不倫

このQ&Aのポイント
  • 道徳と倫理について考える
  • 不倫と社会の変化
  • 不倫の是非について

質問者が選んだベストアンサー

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  • pojipoji
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回答No.4

学者の作った公式の歴史とは別に、明治維新頃まで日本には各地にいろいろな風習が残っていました。これらはもともと一地方の風習であったのではなく、古来の日本人の生活習慣や考え方が少し形を変えて変化の少ない地方に保存されたものであると考えられます。 たとえば、岡田一郎氏の「川島町の婚姻習俗について」によれば、「昔は聟入婚が普通であった。聟入婚とは、男が女のもとヘ通い、婚姻成立祝を嫁方であげ、婚舎もある期間嫁方に置かれる婚姻方式である。若連中は、夜になると夜遊びといって若い娘のいる家へ四、五人が連れだって遊びに行く。娘の家では喜んで若連をむかえる。(中略)こうした場を通して相手を知り、意気投合すると、娘の家へ夜這いに通い、やがて結婚へと進むのが通例であった。そして、このような男女交際は若連組の承認の上でおこなわれ、親が反対しても、若連の力で推進することさえあった。(中略)「ヨバイ」から足入の儀式にいたる婚姻習俗は、村人の承認する正常なコースであっこ。「ヨバイ」は、自由の中に若者仲間、娘仲間のおきてが守られ、決して放埓無秩序な交りではなかった。しかし、明治以降聟入婚より嫁入婚へかわるにしたがって、次第に「ヨバイ」は不道徳な行為とみられるようになった。」 未婚の男女による自由恋愛が明治維新頃まで日本の農漁村に存在したことは「娘宿」や「若者組」、「若衆宿」、「夜這い」などの言葉での検索により推測されます。自由恋愛が禁止されるようになったのは、明治新政府の意向ではないかと考えられます。 参考 過去の娘宿の紹介 http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/rekishi/kenshi/asp/hakken2/detail.asp?record=399 ほか、るいネットに夜這い婚も含め婚姻習俗等についての記事がたくさんありました。 婚姻後の自由恋愛については、タブーとされているためか真面目な研究対象にもならない状況が考えられ、ご指摘のような文化の腐敗又は道徳社会の崩壊ととられがちですが、それは人類は未開から西欧的なものへと進化しており、西欧の規範が最も優れているという西欧人の思い上がりの反射ではないかと考えます。 「ボアズらはこのような進化主義的立場に抗してそれぞれの文化はそれぞれの価値において記述・評価されるべしであると言う文化相対主義を主張した。このように理論を排除する立場をとったため、アメリカ文化人類学派はイギリス社会人類学に対して理論的な発展では後れを取ったが、現在では文化相対主義の立場は、世界の文化人類学者にとって広く自明のものとして認知されている。」 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E5%8C%96%E4%BA%BA%E9%A1%9E%E5%AD%A6 日本は中国的なものや、西欧的なものを吸収してきましたが、西欧的なものの吸収は、明治維新という国策によったものであり、敗戦後の国策の変更により日本の地の文化が出てきたものであると考えます。

noname#136565
質問者

お礼

私の見落としていたポイントとして、ご意見を前向きに受け取ります。 異なる視点からのご意見をありがとうございました。

その他の回答 (4)

回答No.5

倫理的なお話で、大変ありがたく思います。 私は、不倫は絶対悪だと思います。 > 不倫は駄目だと諭すことが出来なくなってしまう自分に戸惑っています。 事実として不倫は道徳的に悪いことでありながらも、現実的には、それを指摘してもあまり意味がない、ということだと思います。 > 道徳と倫理とは一体何だろうと、振り返って考えてしまう。 2つの問題点があると思います。 (1) 道徳的善悪とは、相対的なものか、それとも絶対的なものなのか。 (2) 道徳的に正しい行動をとることが、その者の幸福につながるか。 (1)の点については、道徳の本質が利他性(思いやり)にあると考えることに意味があると思います。ある社会において、人々がそれぞれ利己的に闘争的に行動するよりも協力的に行動した方が様々な利益があり、その社会の人々は幸福である、という状況はありうるでしょう。そのような立場に立って、個々人の利他性というものに価値を見ることが、道徳という観念の原則的な根源であると思います。それによる、「思いやり深い者は、利己的な者よりも尊い」という考え方そのものは、世界史において一般的に観察されると思います。端的に言って、道徳の価値は相対的ではなく絶対的だと考えます。 そこから考えを進めて、社会にとって幸福な男女のあり方というものを考えた場合に、男女が互いに尊敬し合い、思いやり合うことが社会の幸福につながると考えることができると思います。男女が刹那的に性的関係を求める社会状況よりも、男女が情緒的に深く思いやり合って関係を持った方が、生まれてくる子供には幸福な環境が与えられるでしょう。またその男女関係が、生涯を約束するほどに深い想いに基づくことは望ましいでしょう。さらには、ズルをする者が得をすると社会全体のために真面目に生きる者は損をしますから、社会倫理に背く者に罰をもって報いることは、古来普遍的な考え方だと思います。 そのように種々の点を考慮すると、不倫は道徳的に確かに不当であると言えるかと思います。 (2)の点については、道徳的行動というのが、自己への見返りを求めてのことなのか、ということがあると思います。道徳という観念の発端においては、社会の総員への具体的見返りを前提しての行動だったと考えることができますが、それが文化的に発展し、「生き方に対する美意識」として精神的に昇華され、前提的な価値観として定着した、という面が道徳にはあると思います。その関係で、ただ生涯を私欲に生きるよりも、倫理的感性を持って他者と通じ合って生きる方が楽しい、という面があると思います。 また、現代の人々は一般的に、テレビなどの影響もあって父母の恩に疎く、さらには歴史的な人々のどれほどの努力によって現在の幸福があるか、というような恩義に対して無知であると思います。つまり、実際には現在の幸福は他者の利他性によって実現しているにも関わらず、多くの人々は、そのような利他性が存在しなくても現在の幸福が得られる、というように思っていると見受けます。つまり、多くの人々は、利己的に生きれば社会(さらには自分)が不幸になる、という事実を知らないがゆえに、利己的に生きていると思います。 そのように種々の点を考慮すると、道徳的に人を諭すことには価値があるでしょうし、時として効果もあるでしょう。 道徳というものは、「人間の幸福」という形のないものに繋がる話題であるだけに、論理としては難解になると思います。 現代には2種類の人間がいます。時代に道徳的腐敗を感じてそれを憂える者と、それを全く感じずに生きる者です。 より良い世の中を求めるあなたの善性に、心からの敬意を表します。

noname#136565
質問者

お礼

有難うございます。ご意見に全く同感です。 ご参考までに、私なりに行き着いた考え方の骨子は、下記の通りです。 刑罰史 日本の代表的な四大刑罰は、大宝律令(飛鳥時代)、御成敗式目(鎌倉時代)、御定書百箇条(江戸時代・享保の改革)、新律綱領(明治維新)であり、その特徴は、宗教が為政者や軍よりも上位に立つことが出来ず、武士及び軍隊が政権を掌握し、国民を配下と見做して服従の行儀を求め、死の威嚇によって軍隊的な秩序を現出してきました。今日の日本人が持つ行儀偏重と、禁止罰則の日常感性は、こういう日本軍事史の下流に位置しています。 婚姻習俗と性風俗 武士は「嫁入婚」、庶民は「婿入婚」。武士や富裕層は家督相続の理由で多妻婚(側室)が許されていた。村落では婿入婚、若衆組という固有の生活様式の中で、夜這いは、村の置かれた現実の経済状況に対して、村落共同体という自治集団を維持していくための実質的な婚姻制度、もしくは性的規範とされていた。夜這いの風習は、地域によっては昭和30年代頃まで残っていた。 公娼制度は、江戸の吉原遊郭から始まり、赤線区域と名前を変えて、昭和33年の売春禁止法まで、合法的に存在した。つまり、戦前においては女性の浮気・不倫は社会的に許されなかったが、男性の浮気・不倫は昭和33年まで許されていた。 伝統文化の変遷期 明治維新と文明開化、そして敗戦後のGHQによる政治経済体制の再構築は、伝統文化の変遷の過程に於ける非常に大きな節目となり、日本の現代文化はここから始まったと言っても過言ではないでしょう。 文化人類学(文化相対主義) 文化相対主義とは、個々の文化は一見して野蛮に見えるものでさえ、それぞれ固有の価値を持っており、自文化/異文化の優劣の差をつけるのは不適当であるという考え方です。文化人類学の主流です。しかし文化とは、日常生活を快適にするために形成された「生活の文化」、そこから派生した「感性の文化」と、学問・論理の領域である「知性の文化」が、相互に影響を及ぼし合いながら発展して来たものです。この文化相対主義は、植民地主義の頃の人種差別や感性の文化の分野では妥当性のある理論ですが、生活の文化には必ずしも全面的に受け入れられる考え方ではありません。 社会規範 我々は社会生活の中で、社会集団の方向性と秩序を保つため、社会規範を遵守しなければなりません。社会規範とは、「法」、「慣習・習俗」、「道徳」などのことですが、時代の流れの中で、これらは往々にして重なり合ったり対立しあったりします。 社会秩序と不倫 浮気・不倫も「生活の文化」の構成要素ですが、自分だけの快楽の追求で、間違いなく文化の中で有害と言われるものです。蔓延すると、社会の秩序は崩壊に向かいます。そうかといって、ひとたび民主主義的政治を経験した社会では、もはや、再び国家や社会集団の強制力を強めて、その構成員に対する強度の締め付けを復活させるわけにも行かないでしょう。それでは、社会の健全な秩序を維持・改善するためにはどうすれば良いのでしょうか。伝統・道徳というものが、長い歴史の流れの中で現代社会のスピードに後追いの形となり、論理的でない点が生じても、その理由を以て、伝統道徳そのものを否定するのではなく、現代社会に順応しない或いは足らない点は補足説明しながら、子供の時からキチッと教えることが寛容で、それが親の責任であり学校教育であること、不倫を煽るようなTV番組を含むマスデディアの社会的責任、宗教的な導きで解決、その他の色々な考え方がありましょう。こういったことを地道に、或いはセンセーショナルに、人々の関心を喚起していくことが大事なのではないかと思います。つまり、問題の解決は一朝一夕では片付かず、永遠のテーマとなるかも知れませんが、効果的なプロパガンダにより、文化の担い手である一般大衆の中の社会的無関心層(Apathy)の人達を少なくしていくことが、突破口になるのではないかというのが、とりあえず私の行き着いた私見です。

noname#159166
noname#159166
回答No.3

>>不倫は駄目だと諭すことが出来なくなってしまう自分に戸惑っています。 日本人は宗教と規範を有しない、との指摘は比較文化論においてほぼ定説となっています。 若い頃、この指摘に対して大変憤慨しましたが、数十年経った今はまったくもってそのとおりであると考えています。 キリスト教においては、汝、殺すなかれ、姦淫の罪を犯すなかれ、という戒律があることはご存知と思います。 人を何故殺してはならないか、これを人智で追求しても答えはでません。 姦淫の罪(不倫)もしかりですが、多少とも論理的にアプローチできるとっかかりに同じくキリスト教の罪という概念があります。 キリスト教では人は罪人であるとしています、ノンクリスチャンが大いに反発するポイントです。 罪とは何か?ですが、罪を人間レベルの価値観で表すなら、人にとってマイナスとされる価値観、世俗的な表現をすれば、殺意、攻撃、ねたみ、他者の不幸を喜ぶ心、その他諸々ある訳ですが、これとプラスの価値があるもの、善的なものも人は有し、この二つマイナスとプラスが渾然一体となった感情を情念などとの表現であらわされていると思います。 性は人が行うものであり、人の情念の発露、性は単に愛情の発露のみならずマイナス要素を有するものであり、性には人の持つ罪、猟奇的なものが内在しているといえます。(男女共に、、) 淫売という言葉がありますが、淫らを追求すること、マイナスの価値を追及することは罪だ、というのがキリスト教の価値観だと考えます。 そして性愛からアガペーへと昇華した性が理想である、とする訳ですが現実にはそうは中々いかず、すくなくとも契りを交わした男女間の約束として自己の欲望で相手を裏切らない、が教えであり又制度としての結婚の形態に関わらず、男女間の性的過ち、裏切りは相互のみならず周囲にも100%不幸をもたらすことを人は理解しており、それ故、宗教を持たぬ国民でもは不倫に対し論理は構成できずとも経験即として否定するのでしょう。 不倫を実行して喜んでいる人間を理解できない、とするのは振り込め詐欺で利益を得て喜んでいる人間を理解しようとすることと同じでは? 恥とする人間も確かに存在するのです。

noname#136565
質問者

お礼

人智で追求しても答えが出ないもの・・ご指摘の通りですね。これを、キリスト教(エホヴァ)と同じ神でありながらも、イスラム教(アラー)では、厳しい規律で戒めているんでしょうね。イスラム原理主義は更に厳しいです。外国の道徳は、宗教的要素が入っていることが多いですが、日本の道徳は、天皇の理想的な政治形態(徳治)から始まり、長い歴史の中で積み上げられてきた伝統道徳ですから、それなりの美徳はあるものの、現代社会にそぐわない、或いは論理的に語れない部分があるのでしょう。今はこのようなことが一層混在している世の中だから、戸惑うのかも知れませんね。 最後に、ご回答のおっしゃる主旨は良く分かりました。ありがとうございます。

noname#136565
質問者

補足

一番目の方の打てば響くように迅速なリアクションでのご意見、そして、あなた様の貴重なご意見を踏まえて、私なりに再考しました。やはり「不倫」を「道徳」だけで片づけようとする、私の考え方には無理があるようです。この問題を病気に例えて考えてみました。 人の体内には絶滅できない有害菌がある。それが僅かなら生命活動に何ら支障がない。しかし増殖すると障害や病気となり死に至る。病気という症状が出てきた場合、その治療法を対症療法たる西洋医学が良いのか、病気の根源から治癒するという考えの東洋医学が良いのか、意見をまとめるために時間をかけて喧々囂々と論議することではなく、いずれも素晴らしい医学なのだから、それぞれの判断でやれば良いことだ。一番良くないことは何の治療もせずに放置しておくことだ。 不倫を含めて罪を犯す人が無くならないのも同じことでしょう。しかしこんな人達が大多数を占めれば、社会秩序は腐敗・崩壊するのも事実です。その治療法として、伝統道徳というものが、長い歴史の流れの中でスポット的に、現代社会のスピードに後追いの形となり、その結果馴染めにくい又は論理的でない点が生じても、その理由を以て、伝統道徳そのものを否定するのではなく、足らない点は補正しながら、子供の時からキチッと教えることが寛容で、それが親の責任、学校教育、不倫を煽るようなTV番組を含む社会的責任を標榜する人達。責任を取らせる形、或いは制裁という形で、身を以て体験させるという考え方の人達。制裁を厳しい規律で戒めようと考える人達。あるいはサラリーマンであれば、不倫は役員降格、昇格停止、或いは馘首だということになれば、絶滅しなくても減少はするのではないだろうかと考える人達。宗教的な導きで解決を考える人達。その他の色々な考え方があるでしょう。このことの是非を論議で終わらせずに、こういったことを一つ一つでも前向きにやっていくことが大事ではないかと思います。やはり一番悪いことは「無関心」でしょう。無関心層が大多数を占めれば社会秩序は失われます。こういった問題の解決は一朝一夕では片付かないことは重々承知していますし、永遠のテーマとなるかも知れません。しかし問題の即時全面解決にはならなくても、この「無関心」の人達を少なくしていくことが、一つの突破口になるのではないかというのが、とりあえず私の行き着いたところです。これが果たして正しいかは分かりません。かの孔子は70歳で悟りを開いたと言います。ましてや小生は凡人、年齢的は未だ余裕もあることだし、もう少しじっくり考えて行きたいと思います。ご意見ありがとうございました。

noname#105813
noname#105813
回答No.2

>通常は人間に本能行動は殆ど無い」というのが、大方の考え方となっています。 なら不倫は起こらないと思いますが・・・・ 不倫は本能から起こるものだと思いますが。 不倫は駄目だ、文化の腐敗又は道徳社会の崩壊だと嘆いたって、 法で規制したって、不倫はなくならないし、世の中かわりはしません。 不倫だ性の乱れは、太古の昔からあるんです。 昔は道徳が厳格だったなどは幻想です。 そんなものだけにすがっているから、戸惑うんです。 まぁ、何かにすがらないで、周りn惑わされず自立しましょう。

noname#136565
質問者

お礼

おっしゃることは、一理も二理もあると思います。 それがやっぱり現実論なのですかねぇ・・・ 残尿感はありますが、いや~この残尿感は歳の所為ですかね(笑)。 私の投稿の本来の目的は、討論ではなく、ご意見を拝聴することなのですが、そういう意味で申し訳ないですが、最後に、「不倫は本能だ」というご意見に対して、私のモヤモヤを言わせていただきます。不謹慎かもしれませんが、男性であれば、既婚者といえども、素敵な女性を見て、自分のものにしたいと思ったことあるでしょう。妻と比較して、こんな素敵な女性と結婚出来ていたらなぁと、思うこともあったでしょう。その実行に当たっては、通常は自制心というものが抑えます。そうは言っても、自制心を抑えきれずに、一度や二度は浮気をすることだってあるかも知れません。そのことには敢えてトヤカク言いません(*注)。しかし同一女性とそれを繰り返すと、どういう結果と問題が生じるかということは、少なからず分かっている筈です。私は女性のことは分かりませんが、同じようなことが言えるのではないでしょうか。一般的に不倫とは単発的に終わる男女のお付き合いではありません。だから本能とは別のものが根底にあるのではと・・・つまり自制心・理性・分別というものであり、それに大きく絡んでいるのが道徳ではないないのかという気がするのです。私の書き方が拙かったらお詫びしますが、「腐敗/崩壊」とただ嘆いているのではなく、この投稿欄を通じて、改善の可能性の一助でも、見つかれば良いのだがという、建設的なポイントが私の最終目的です。 尚、(*注)一度の浮気でも許さない女性、またはご亭主が長い海外単身勤務の場合、同一女性との反復ではなくて、一回限りの浮気であれば許す寛容な女性、口ではそう言いながらも潔癖であって欲しいと祈る女性もいるでしょうし、このことの是非や、さらに「浮気と不倫の違い」については、ご意見あれば別の機会に拝聴したいと思います。 いずれにしても、お時間を割いてご助言いただき、ありがとうございました。お考えは良く分かりました。もう少し他の人の意見も(もしあれば)伺いたいと思います。

noname#105813
noname#105813
回答No.1

不倫を道徳で否定しても無理です。不倫を起こすのは本能ですから。 道徳的な問題を法で罪にして脅しや縛っても、必ず歪みは出ます。 かつて不義密通は厳罰。姦通罪があった時代を道徳心があったかと思いがちですが、 遊郭・岡場所・夜鷹、陰間茶屋、夜這い、船宿など、 男女問わず不義密通の商売・場所は存在しましたし。 とにかく諭して聞かない者が、後で問題を起こしても 責任は自分でとらせたら良いんです。

noname#136565
質問者

お礼

早速のご回答ありがとうございます。参考にさせていただきます。 しかし、本能という言葉は、従来から多くの意味で使われており、人間に本能があるかどうかは、その定義次第だと言われるものの、現在では、「通常は人間に本能行動は殆ど無い」というのが、大方の考え方となっています。

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