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無宗教の人間としての道徳の根拠は何でしょうか?

日比野 暉彦(@bragelonne)の回答

回答No.6

 こんにちは。  1. 《根拠》は 究極としては ありません。《無根拠》が根拠です。つまり これを 一般に《神》と言っています。  2. 神の解釈としていちばん分かりやすいのは 《人間性》もしくは《良心》でしょうね。《自然法》と言ったりもしますが。  3. それだけを言って 問題点を挙げます。それはわたしたち人間は 《となりびとを愛しなさい》と言われて それが倫理としてよい中身であると考えて実行するわけではないということです。  4. じっさいにみづからもそれがよいと考えたのだから それでいい道徳ではないか? ――違います。  5. 実際には《となりびとを 自分と同じように 愛せ》と書いてあります。これで かろうじて《おのれの考えと意志とでふるまう》ことになるのではないかと考えられます。  6. それでもただ外からの倫理規範にうながされて行動するというようでは ダメだというのが ほんとうの道徳であり倫理であるということではないでしょうか?  7. そのことは 《実存》という思想が言っているかと思いますが 要するにそのつどその相手に対してその情況のもとで 自分のよいと思う主観を実行する。これが ひとにとっての道であり じつにそこには根拠はありません。  8. 強いて言えば そう信じるからでしょうね。そして つねに・絶えずそのただしさを考えなおし続けて行くのが 実存の思想でしょうね。  9. 言いかえると 宗教のオシエは クソくらえです。それに従う人間は 人間〔の自由な心――無根拠なる自由――〕を放棄したも同然です。勝手に根拠をさだめそれを後生大事に持って 凝り固まって行く そのくせ そのオシエをけっきょく守り切るひとは誰一人としていない。シュウキョウは 愚の骨頂でしょう?   10. 根拠無し――義無きを義とす――に立って 互いに自由に思惟と想像とそして行動とをおこなって行く。その中でマジハリをとおして互いによりよき思想をかたちづくって行く。この道を 特定のシュウキョウは 閉ざしている。反社会的な心的現象です。(行動としては いいこともやってるぢゃないかと言い返して来るでしょうが)。

yuniko99
質問者

お礼

そうですか 最初神が・・・と書いてたので 神を信じてるのかと思ったら。愚の骨頂ですか 出ましたね 伝家の宝刀 愚の骨頂。^^ 宗教が気に入らないのですね 宗教と無宗教とどちらが良いのかまだ分かりませんが 僕も自由のない宗教に従う気にはなれませんねえ。 しかし神はなくても、宇宙の方向性はあると思っています その方向にどう関わるかが問題ではないでしょうか? どうもありがとうございます。

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