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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:ブータンの民族浄化)

ブータンの民族浄化で幸福な国になったのか?

このQ&Aのポイント
  • ブータンは、民族浄化によって「幸福な国」となったのか?
  • ブータンは、自国の文化を尊重し、家族の絆を大切にすることで幸福な国を目指しているが、その一方で南部の民族を浄化し、経済発展や若者の問題により幸福度は下がっている。
  • ブータンの幸福度は、北部の民族にとっては高いが、難民問題や経済発展に伴う新たな問題により幸福度は揺らいでいる。

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回答No.1

私は、ブータン難民事件当時、当該地域(Zone I)で働いて いた唯一の日本人です。 1970年代まで直接車で入国できる道がなく(当然空港も)、 ヒマラヤ山中で実質鎖国していたおかげで、数百年続いた 自給自足の生活を保ち、開国して西欧の資本主義の影響を 受けるようになったら、すぐにバブルがはじけて問題点が 明らかになったおかげで、国王は「GNH(国民総生産量) ではなくGNH(国民総幸福量)を発展の指標とする」を 国是とし、国家財政の過半を占めていた海外からの援助を 抑制し、仏教を国教として日本人以外の白人ボランティアを 追い出し、民族衣装の着用や伝統建築デザインを義務化して、 衣食住自給自足の伝統生活において貧富の格差が出ないよう にするという荒ワザを講じた。 (写真は農閑期に歌いながら互いの家を改築する村人) キリスト教布教を禁じたため(&“非民主的”王制だったので) 西欧諸国から目の敵にされ、インド国境に不法に住み着いた ネパール系住民を追い出したら(10年以上の居住を証明でき れば居住権を与えたのに)、西欧メディアから「難民を生んだ」 「住宅を焼き討ちした(追い出しても戻って来るので焼いた)」 「民族衣装を強制した(合法的に滞在しているネパール系住民 (中には大臣まで出ていた)は自分の民族衣装で良かった)」 など、いわれなき非難を受けて私の上司のジグミ・ティンレイ 閣下(王様の右腕といわれた敏腕知事。後の民主化時の初代首相) が国連総会で弁明して鎮めたりした。 ブータン難民事件の本質は、キリスト教系のボランティア団体 主導による、世界で唯一の仏教を国教とするブータンいじめと、 前年にネパールで王政打倒したネパールの共産主義者(中国の 息のかかった)の侵入&扇動によるテロであった(郡知事の首 が切られて役所前に置かれていたり、銀行が爆破されたりした 事実が先である事は、世界に発信する白人メディアは伝えない)。 ブータン人は寛大なので、自分達の主食であるジャポニカ米の 栽培に適さない南部のインド国境沿いのジャングル地域に不法 侵入して来たネパール系住民をずっと放置していた。 そこに目をつけたネパールで王政打倒に成功した共産主義者が 侵入して王政打倒を掲げてテロ活動し始めたので、不法滞在者を 追い出そう(それでも10年以上滞在した証明ができればブータン 国籍を与えるという寛大さ)としたという、国家として当然の 措置だったにも関わらず、ブータンでキリスト教を布教して 追い出された白人ボランティア団体の陰謀によって、悪者に 仕立て上げられたのだ。 「民族衣装の強制事件」は、ずっとネパール系住民はネパールの 民族衣装が許されていたのに、南部の学校の校長が拡大解釈して 学校の制服(ブ―タン風)を強制したものだし(そのニュースが 流れてすぐ政府はそれは誤った対応である旨公布した)、髪の毛を 長くしていた生徒を「ブータンの伝統的髪型(短髪)に切った事件」 も普通に見られる校則による生活指導だった(短髪を強制した事実 はなく、ロングヘアの女性は普通に歩いている)など、ブータン内部 から見ていると、白人による宣伝の偏向ぶりにいら立ったものである。

chashironeko
質問者

お礼

大変詳しくありがとうございます。 不法滞在していたネパール民族のみ、猶予は持たせつつ、やむを得ず追い出したということでしょうか。 資本主義を受け入れず、宣教師の白人を追い出したために、西欧に睨まれ、偏ったニュースを流された可能性があるとは、思いつきませんでした。 その渦中にちょうどネットで難民の記事を読んでいたのかもしれないです。 やはり、両サイドの方から聞かないといけないですね。 格差をなくし、自給自足や独自の文化を重んじる政策は、やはり個性的で素敵です。 行き場のない難民は気の毒ですが、日本も不法滞在者は厳しく取り締まっていますし。やむを得ない事情が色々とあったのですね。

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  • IXTYS
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回答No.2

こんにちは。 #1の方の詳しい説明で背景がよくわかりました。 私はダショー・ニシオカ(西岡京治先生)がご健在だった90年に一カ月ブータンに滞在しました。 南部のgaylagfag(ギャレフー)の砂糖きび農園を調査するのにも南部は紛争中とのことでグンゲリオン(軍の司令官)に頼んで小隊12名を護衛に出して貰って首都のティンプー/ギャレフー間を往復した経験があります。  その当時から南部に移住させられて来たネパール系住民と土着のブータン人の間にトラブルが頻発していました。  民族浄化とは少し大げさな表現に映ります。 こういう違う民族間のトラブルは南西アジアの国々ではごく日常のことのように見えます。 事の起りはイギリスが植民地として統治していた時代に鉄道やインフラ整備のために違う民族を連れて来て作業させ、彼らがそこへ定着したことから土着の民族との間にトラブルが発生したのです。 ギャレフーに滞在していた時にも小学校の先生がゲストハウスにやって来てネパール人の略奪に逢って苦労していると直訴して来ましたので、『ティンプーに帰ったらラムドルジ(司令官)に伝えて置く』と約束したのを覚えています。 

chashironeko
質問者

お礼

ありがとうございます。 私が当時読んだ記事は、ネパール系民族が北部の民族に文化を強制され、さらに追い出されて、その際暴行や略奪もあり、多数の難民が出たとブータンを一方的に悪く書いたものだったのですね。 そもそもが、南部の民族はネパールからの不法滞在者だったことや、北部へのテロ、略奪など犯罪行為があったという経緯は何も書かれておらず、知りませんでした。 差別で追い出して難民にしたのではなく、元は不法滞在で、迷惑もかけるためやむを得ず追い出したら難民になってしまった、という形ですね。

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