• 締切済み

心はどこにある?

思考はどこにある?と聞くと、みなさんは頭を指しますが、 心はどこにある?と聞くと、ほとんどの人が胸を指します。 科学的には、人間の感情というのは、思考と同じく、脳内で 行われています。ですから、身体の情動の活動も、思考と同じく 脳内で行われているはずです。 でも、なぜか、心は胸にあるように、言います。なぜでしょうか? また失恋すると、頭ではなく胸が痛むのはなぜでしょうか?

専門家の回答 ( 1 )

回答No.4

はじめまして。 読ませていただきました。 お尋ねの内容は、精神と身体の関係というようなテーマになるのでしょうね。 哲学の伝統的なテーマの一つで、身体というのは私たちの個々の精神とどのようにつながっているのかということは、20世紀中ごろから細かく検討されるようになったテーマです。 とはいえ、お尋ねのご主旨は、失恋して頭ではこうだとわかっていても、心の整理がつかない、胸が苦しくなるのをどうしたらよいかという事のようです。 心は、身体も含む空間や時間を備えた出来事の総体に対応しています。 平たく言うと、心には、身体を通じて得られた様々な出来事、これがあった時間や、場所、その時味わった空気や物の感触、見えていた光景、誰とどんな気持ちで会っていたか、何を話していたか、それらすべてが心の中にしまいこまれており、同時にそれらをどうにか消化吸収して心の糧にしようとする働きがあります。 これ出来事は、身体を通じて得られたものですので、身体の感覚を伴っており、身体によるとっさの対応や反応、解釈とでもいうような生理的反応と一体になっています。 また、これには、生命の維持に関わるような感情、怖い、恐ろしい、驚き、うれしい、楽しい、悲しい、などの心理的反応が伴っています。 これは私たちが物事を考えようとして考える活動と並行して行われている、心が自分で自分を維持するために行う半ば自律的な活動です。 これは例えば食事と消化吸収の関係に似ていて、食事をするという意識的行為の後は、食べたものを身体が自律的に消化吸収するわけで、これには長い時間と相当の労力とエネルギーを使っているのと同じです。 食べる行為をする口は小さなものですが、これ以降の消化器官は胴体の大半を占めるくらい大きいのと同じで、私たちの心の構造は、考えるという思考をつかさどる部分というのはとても小さく、精神活動全般としては、これ以降のほうがとても大きいのです。 体験とは、確かにその時、私たちは生身のままそこにいたという出来事を自ら受け入れた事実のことです。消化吸収されて身体に栄養として取り込まれ、生きるために利用可能な状態のものと同じです。 この体験というものを自分の中で作り出すためには、心の中で出来事を消化吸収する必要があります。 失恋などの大きな出来事があると、これを消化吸収するために大変なエネルギーと時間が必要になります。 あなたが失恋して、胸が締め付けられるような苦しい想いをしているのは、まだ失恋という出来事を心の中で消化吸収しきれていないためで、一つ一つの出来事が未消化のまま、様々な出来事があった時間や、場所、その時味わった空気や物の感触、見えていた光景、誰とどんな気持ちで会っていたか、何を話していたかが、出来事そのままに、リアリティをもって心の中に留まっているためです。 あなたが生身のまま遭遇した出来事、その時に感じた身体の生理的感覚がそのまま消化されずに残っているためだと思います。 いろいろ考えてみましたが、伝わりますか?

吉田 修(@osamucom0409) プロフィール

産業カウンセラー(日本産業カウンセラー協会) 吉田修(株式会社Dream・Giver) ■ご質問者・みなさまへ■ コーチング最新メソッドを使い、自分でできる、気持ちの切り替え方法をご提案しま...

もっと見る

関連するQ&A

  • 「心」の在り場所

    「心」の在り場所、というと、皆さん胸に手を当てますし、「心臓」という名の臓器も あります。でも、実際、人間の全ての精神的活動は、脳みその中で行われて いるわけで、「心」の在り場所は胸ではなく、頭のはずです。ですから、 「心」はどこ?というと、頭に手を当てないといけない。でも、そうではないのは なぜなんでしょう?

  • こころはどこに?

    初めて質問させていただきます☆カテ違いだったらすみません; ふと思ったのですが、こころ・感情?はどこにあるのでしょうか? 悲しかったり切なかったり愛しかったり、胸の辺りがきゅ~っとなる感じ。特に悲しい・切ない時はしめつけられるような、ズキズキして苦しい感覚。 思考は脳だと思うんですが、こころはやはり・・・こころ→ハート→心臓・・・でしょうか??こころは心臓にあるのでしょうか?というか、心臓にこころがあるのでしょうか?魂が宿っているというかなんというか・・・。。 胸がしめつけられるような感覚も、心臓がズキズキしてるんですかね? 私が知らないだけで、もしや世の中の人は知ってることかもしれません^^;くだらない質問ですが、なにかご存知の方は回答お願いします^^

  • 『心』の位置はどこにある?

    精神的な活動・本能的な活動の根幹を成すもの、と言われている『心』ですが、その位置はどこにあると思いますか? いつの頃か、心理学の講義を受けたコトがあり、その際に「自分の『心』がありそうな場所を手で押さえてください」と言われ、私は自然と胸を押さえていました。 周囲を見てみると、大多数の人が胸を抑えていたのですが、頭や腕を押さえている人も数人いたのです。 個人の感受性の問題だと思うのですが、皆様はどこにあると思いますか?

  • 心の持ち方

    とてもバカみたいな質問かもしれませんが、悩んでいるのでもしよかったらコメントをください。 色々な事情で複雑な家庭にいます。 過去のことが頭から離れず、ちょっとしたことでイライラし、子どもにも大変つらい思いをさせています。 わかっているんですが、心と行動がバラバラで、生活がつらいんです。 何かにつけて人間関係もうまくいかず、自己嫌悪に陥ることが多いです。 プラス思考にならなくちゃと思う反面、実際は常にマイナス思考になってる気がします。 友達もいません。 色んなことが頭ではわかっているのですが、心が壊れそうになってしまいます。もしかしたらもうすでに壊れてるのかもしれません。 先を考え、不安ばかりで何も出来ません。 離婚して今は子どもと別の男性と生活していますが、その男性に特につらくあたってしまいます。 書いてる内容がバラバラでわかりにくくてすいません。 なんと、表現したらいいかわからなくて…。 このように、心の持ち方や感情の抑え方について、参考になるようなものがあれば教えてください。 また、複雑な環境の中に居られる方がみえましたら、どうしていらっしゃるか聞かせて頂けると助かります。 宜しくお願いします。

  • コンピューターは心を持つか?

    いつもながらこちらに質問します。 姉妹サイトに『人工の意識は可能か?』という質問が上がりました。 具体的には、機械が「欲する」「求める」という意識を持つことが出来るか?という質問でしたが、科学音痴のわたしは驚いてしまいました。 「人工知能」が「欲求しうるか」という問いについて、先ず「人間」の「欲求」について考えてみると、それはひとつには自己保存の欲求であり、それが食べ物を求めたり、安全な住居を求めたり、愛情を求めたりという、様々な「欲求」につながっている。 そこでわたしの第一の疑問は「機械」や「人工知能」が「何故・何を」欲するか?という疑問です。 言い換えれば、「求める」の背景には「理由」があるのですが、Artificial (人工)のものが、何を何のために欲するのか? 人間の自己保存の欲求には、その裏側に、餓えであるとか、危険、恐怖、孤立、孤独という感情が表裏一体に存在していると思われます。そこから逃れるために生存本能が働き、食を求め、安全を求め、愛情を求めるのだろうと。 つまり機会に、AIになんらかの「恐怖」や「危機感」というものは前提され得るか?ということです。 第二の疑問として、人間には、「自己破壊の欲求」も存在します、自己を抹消するという「欲求」を機械が持ちえるか? いづれにしても、「求める」という人間の情動が、「欠乏感」の感覚に基づくものであるならば、機械の認識し得る「己の欠乏感」とはなにか? 敷衍すれば機械の「自我」ということですが、では「嫉妬し」「羨み」「他と比較」して「落ち込んだり優越感を感じたり」「向上心」を持ったり、「喜び」「悲しみ」「怠けたり」という情動=自我を持ちえたもの=機械を、その時点で、いかにして「もはやこれは機械ではない」と判断し得るのか? 「人間」とほぼ同様の「自我」を持った「機械」を、尚これは「人間」ではない、とする基準は? などというようなことを考えました。 話が膨らみすぎましたでしょうか?けれども、「欲する」ということを他の様々な感情・情動と切り離してそれのみを考えるということができるのか?という疑問です。 その質問に寄せられた回答では、「出来るであろう」という意見が多いのにも驚きました。 機械ーコンピューター(人工知能)が「求める」=心を持つ=自我を持つということが可能であるという理由を、なるべく科学的でなく、小学生にもわかるように説明していただけますか?

  • 心が汚れている・・・

    よろしくお願いします。30代男性です。 いつも思うのです。自分の心は汚れているな、と。 過去に父親から奴隷か召使のように時間管理をされ、気に入らなければ殴るけるされたことや 理不尽なことを思い出しては怒りが心に湧き上がってきたり、人間関係がうまくいかなかったことや、会社から理不尽な扱いを受けたことを思い出しては心を乱されます。 30過ぎて何過去にこだわっているんだ、と自分でも馬鹿らしくなるのですが、 なかなかこの衝動的に湧き上がってくる怒りを抑えられません。 自分に対して言われのない非難中傷をした人間などに復讐をしたいとさえ思うこともあります。 普通は、もっと平穏な心をもってますよね? 周りの人間を見ても、過去にこだわらず、今を楽しく生きている人間がいて、うらやましくさえ思います。 なぜか自分にはそれができない。それは過去にこだわっているからだと思うのですが、 この心の汚れをなんとかしたいです。 変なコンプレックスを持ったり、卑屈になったり、怒りが抑えられなかったり、ネガティブな感情に一日中支配されています。 本当にどうにかしたいです。普通の人なら思わないようなことを思って馬鹿な感情に支配されています。 たとえば、会社での席の近くに、東大卒で美人で妊娠していてかつ親は医者という女性がいます。こういう人は何も苦労してないんだろうなあ、いやなことなんて何もないんだろうな、と思ってしまいます。実際そんなことはないはずで、いやなことがない人間なんていないと思うのですが、人がほしいものをすべて手に入れている(ようにみえる)のがうらやましく思うのです。本当はそんなことないのは頭では理解しているのですが。 じゃあ実際に自分がその立場になれば、彼女のように笑顔で毎日過ごせるかというとそうではないというのもわかっています。自分の今の価値観や感情、心の汚れではどんな立場になっても笑顔で過ごすことなんて無理だろう、と思います。 何とかしたいです。ネガティブな感情から抜け出したいです。 アドバイスよろしくおねがいします。

  • 心理学が心の科学として存在しうる理由

    心理学の問題です。「自己あるいは他者の「心」(心的経験の様相,思考内容,感情状態,意識的あるいは無意識的な精神活動および精神状態など,あなたが「心」と考えるモノあるいはコト)の法則(因果関係)を科学的に(客観的および普遍的な方法と論理構成によって)理解することが可能である(たとえ現実的には現時点で無理であったとしても,論理的には可能である)理由,つまり心理学が心の科学として存在しうる理由について,自分の考えるところを述べよ。」です。よろしくお願いします。

  • 心とは?

    哲学を専攻している方は、まず始めに 習ったり考えさせられる事だと思いますが 皆様は心とは何だと思いますか? 私は哲学を勉強した事はありませんが大学の哲学の講義に 出た時にこの話題があり、どうも二言論的な考え方が理解 出来ませんでした。 私は基本的に心とは物理現象と考える事で全て解決出来ると 思います。 例えば「熱い」と思うのは皮膚に何かが触れたことで 脳が反応し、この脳の反応があるから「熱い」と言う感情が 生まれると思います。 この様に基本的に脳の反応があるからこそ感情が生まれるわけで 「心と脳は同じである」と普通に結論付けられる気がしますし 身体を動かすそうとするのも「脳が身体を動かせ」と命令するから 身体を動かしたいと言う感情が芽生えるのであって脳の働きが心を 作るのだと思っています。 ただ私は格闘技などが好きですが良く「身体が勝手に動いた」 と言う話を聞きますが人間の行動に限って言えば、この場合本人 に「身体を動かした」と言う意識(心)がないわけですから脳と心 とは別であるとも考えられますし、あるいは脳の働きだけで 「あの人は綺麗だ」「この歌は良い曲だ」と思うメカニズムが 物理学的に証明出来ないので心と脳は別のものであると考えられる わけですか? それでも私は「心とは脳の働きから生まれる物理現象である」 と考えるのが合理的な気がするのですが、やはり間違いなんで しょうか? 本を読んでも難しくてさっぱり分かりません。

  • 思考や判断について

    例えば誰かが殴りかかってきたら、人は意識的にせよ、反射的にせよ、回避行動を取ると思います。 その一連の回避行動は、思考や判断も含めて、物質としての人間に起こった物理的、化学的法則に従った反応のみによって為されるのでしょうか? そうだとすれば、脳内や体内の物理、化学反応と、人間の感情や行動は同時発生的というか、同一のものだと思います。 それなら、よく聞く「人間の痛みや苦痛は、それによって身体の危険を認識して回避するためにある」という話は誤りであるように思うのですが、いかがでしょうか? 極端な話、仮に人間に感情や思考がなくても、ロボット人間によって人間社会は成立するのでしょうか?

  • 心の病気とかいうもの

    こんにちは。 鬱だとか心の病気だとか、昔に比べてたくさんのひとが『自分もそうなんじゃないか』と疑うようになりました。それに、周りのひとに何か相談すると、『それはストレスからくる精神的なもの』などという指摘を受けることも昔に比べたらすごく多くなったと思います。 実際お医者さまに行って、「最近ちょっと感情が不安定で、眠りが浅くって、食欲なくって…」って言ったら、鬱だと診断されてしまいますよね(軽度か重度かはさておき)? それはわたしも経験したんですが、「お前は鬱なんだよ~」と診断されてしまうととっても落ち込んだのです。「がんばらなくてもいいんだよ~」と言われるたび、あぁ、わたしも落ちぶれたな、って思ったもんです。(たしか、鬱のひとには「がんばれ」って言っちゃダメなんだと周りのひとが学習していた。) そこで、質問なのですが。 この、心の病気とかいうもの、たとえば元気なひと、健康なひとが精神内科に行って、生い立ちから今現在辛いこととか落ち込んだこととか話さなければいけなくなったとしたら、病気だと診断されずに戻ってくることはできるんでしょうか? 人間だから、なにかしら、心の病みたいなもん持ってるはずで、持っていないひとの方が珍しいとは思うんですが。思考回路や感情を司る神経を直接診ることができないわけで、お医者さまの診断って、『経験』から感じることや、『一般論』を目安にしているんでしょうか? わたしとしては、健康な人間でも、なにかしらの病名を診断されて戻ってくるんじゃないのかなぁ、と感じています。 お暇なときに、お願いします。