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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:聖書は 表現〔形式の多様性〕の問題である。)

聖書は表現の問題である

pikarucheの回答

  • pikaruche
  • ベストアンサー率35% (6/17)
回答No.5

>《神》なる次元と《経験世界》とのあいだの隔たりを重く見た場合 これを前提として、 >人間の言葉で直接に表わすことは出来ない と >人間は 自由に補助線を引けばよい の両方を見て、無神論もその補助線であるという視点は、面白いですね。たぶん宇宙物理学でいう複素時間なるものも、補助線の一つかもしれませんね。 他方、宗教から見れば、《神》なる次元から《経験世界》へ顕れる、突破してくる事態が、信仰の対象となりますね。隔たりがありながらも、むこうから、隔たりを乗り越えてくる。信仰とは、非経験の場や非知だけにあるのではなく、この事態への関わりにあると思います。 さらに、この事態は「共同幻想」で批判されえないことだと思います。互いに理解して日常的な社会を形成していること自体、共同幻想でない理由はないのですから。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  そして ご賛同のところもありがとうございます。(あたらしい説については みんなの前に提出するのは当然ですし 人びとは賛成なら賛成と言うことも ふつうのことだと思います。ですが 回答は 批判のためにするものという了解もどこかにあるようで 賛成票はなかなか提出されません。それにつけても ありがたいと思います。もっとも 最大限に述べつくした批判が いちばんの好物であるのも 実際ですが)。  さて シュウキョウと信仰とは区別するものと考えております。  ★ 他方、宗教から見れば、《神》なる次元から《経験世界》へ顕れる、突破してくる事態が、信仰の対象となりますね。隔たりがありながらも、むこうから、隔たりを乗り越えてくる。信仰とは、非経験の場や非知だけにあるのではなく、この事態への関わりにあると思います。  ☆ このご議論は 微妙ですね。  まづ用語をあらためて確認します。  ○ 《非知》とは何か――神のことである―― ~~~~~   経験事象     可知       既知       未知     不可知 (知り得ないと知ったものごと)   非経験の場(そういう想定である)     非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ)  ○ 《非知》なる神を受け容れたわが心なる《非思考の庭》    信じる:非思考の庭:ヒラメキ    ------------------    考える:思考の緑野:コギト    感じる:感性の原野:直感(∽ヒラメキ)   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ したがって 次の命題は そのまま真だと受け留めています。  ★ 信仰とは、非経験の場や非知だけにあるのではなく、この事態への関わりにあると思います。  ☆ すなわち 《この事態》というのは:  ★ 《神》なる次元から《経験世界》へ顕れる、突破してくる事態  ☆ です。つまりは 一般に広義の《ヒラメキ》です。  これは インスピレーションとも言いますし 広く取れば《直観》とも言うと思います。感性における《直感》が すでに何らかの概念内容をもってヒラメキと通じているとき 《直観》と言えるのではないかと考えます。  ただし・ところが 宗教は どうなんでしょう?  ★ 宗教から見れば、《神》なる次元から《経験世界》へ顕れる、突破してくる事態が、信仰の対象となりますね。  ☆ ここは 厳密にまいります。    《信仰の対象》は 《非知》なる神です。言いかえると それは表象し得ないからには 《非対象》ではあります。  つまりは 《〈神〉なる次元から〈経験世界〉へ顕れる、突破してくる事態》は ほぼすでに経験事象となっているヒラメキではないか。そしてさらには思考の対象にもなるところのけっきょくはオシエではないかと考えられます。   《神は 愛である》という命題は 人間の思考にかんする限りで(つまりそういう神学としてある限りで) たぶん大方の人は真であると言うと思います。ですが これはすでに思考の対象となっている経験事象です。《非知》なる神ではありません。  よってこの命題あるいは一般にオシエを 神とすることはあり得ません。つまり《信仰の対象》ではない。――こうなると思うのですが いかがでしょうか。  微妙ですね。  つまり さらにシュウキョウ批判を――ひと言多いかも知れませんが――なすとすれば オシエは 信仰から得られた命題でありつつ それはすでに 信仰という蝉のその抜け殻となってしまっている。これです。いくらその命題が妥当であるとしても 信仰でもなければ信仰の対象でもない。むしろそのオシエを信じるなら(つまり無条件に受け容れるなら) それは 信仰の自殺行為である。こう考えます。  ★ さらに、この事態は「共同幻想」で批判されえないことだと思います。互いに理解して日常的な社会を形成していること自体、共同幻想でない理由はないのですから。  ☆ ん?   神なる次元から経験世界へ何らかのかたちで降りて来たというヒラメキ これは まづその人の主観です。その人が確信しているかぎりで 主観真実です。  《なんぢ むさぼるなかれ》というヒラメキ内容であった場合 そのように言葉で表わしたときには 思考の対象となります。したがって オシエともなるのですが いづれにしろこれに同感する人は 主観を共同化させたことになります。共同主観が出来上がります。  問題は 共同主観となった場合にはすでに 思考の領域に移っており 経験合理性による妥当かどうかの判定に付されます。そのとおりだと言う人と いや それはマチガイだと言う人とに分かれるはずです。それでよいわけです。  《神は愛である》というヒラメキ⇒命題にしても それは 一概にそうは言えないという人も出て来るかも知れない。そして 思考の問題であるからには それはそれとして ふつうのことである。となると考えます。  ということは もしこのような話をめぐって そこから微妙に逸れて行く場合もあります。すなわち この今挙げている命題――《むさぼるなかれ。ころすなかれ。神は愛である。等々》――について それは 信仰において得られたのだから(または 啓示によって書かれた聖なる書物の聖句なのだから) ただしいし しかも信じるものであり およそすでに神の言葉である。と言い出す宗教人がいる。ことになります。  これは 共同主観が 共同幻想に成る瞬間です。幻想と言うより むしろ考えるべきものごとを信じろというのなら 精神錯乱です。無効の意志行為であると成ります。まいか?

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