神が天地をつくったのか

このQ&Aのポイント
  • 神が天地をつくったのか
  • 神が天地をつくった理由や意味について考える
  • 神の創造と人間の自由についての哲学的な考察
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神が天地をつくったのか (表現という問題)

 神が天地をつくったのか  ◆(α)  そう表現したに過ぎないとなぜ言わないのか?  すべては表現のもんだいであるとなぜ見ないのか?   ▲ (創世記1:1-5) ~~~~~   1.初めに、神は天地を創造した。   2.地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。   3.神は言った。     ――光あれ。    こうして、光があった。   4.神は光を見て、良しとした。神は光と闇を分け、   5.光を昼と呼び、闇を夜と呼んだ。夕べがあり、朝があった。第一の日である。   ~~~~~~~~~  ◆(β)  《光あれ》と神が その文字どおりに 《言った》のか?   んなわけはない。時空間を超えている〔敢えて擬人法で言えば〕存在にとって 《初めに》とか《つくる》といった時間的行為がどうして必要なものか。なじまない。  ◆(γ)  光が《ある・ない》 つまり 《なかった状態からある状態に移る》ことは 時間的・経験的・相対的な現象である。  経験世界を超えている神にとって 質料(物質)の運動はその自己運動にまかせるはずである。モノの動きは 或る意味で 神としても手に負えない。(やたら奇蹟を起こすわけには行かない)。  人としても モノはその自己運動にしたがってうごいていただくように加工し誘導するよりほかない。  そもそも手に負えないことを知ることをとおしても その存在や性質を知るようになる。  あるいは 相手をうやまってこそ 人はおのれの自由を手にすることが出来る。  という当たり前のことを 神の物語――人間にとって非思考の場をわざわざ人間の言葉で表わしたもの――はかたっているのではないか。  《神が創造主である。〔よって 経験世界そして特にヒトは 被造物である〕》という表現は そういうふうに人間にとって手に負えない不自由なこととそして〔悲願としての〕自由とについての哲学をかたっている。に過ぎないのではないか?  ◆(δ)  もしこの非思考の場にわづかにでも 《のぞみ》があるとするならば それは   ▲ 5.・・・夕べがあり、朝があった。第一の日である。  と書かれたところである。その後も《第二の日》から《第六の日》まで同じ表現で書かれている。   ▲ ゆうべがあり あさがあった。  と。《光を昼と呼び、闇を夜と呼んだ》ところの《夜》は世界において現象しているにもかかわらず 人は《ゆうべがあ》ってから その夜へはじつは渡されることなく そうではなく すこやかな眠りを経て《あさがあった》と知る。  その自然本性〔の動態〕において人は 夜へは渡されないというのである。   ▲ 2.地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。  のである。《聖なる〈あまえ〉》〔としての すこやかなねむり〕。  以上の主題をめぐって 忌憚のないご見解をおしめしください。

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回答No.1

こんばんは。 旧約聖書の創世神話を、僕は、 それに先行するバビロニアなどの創世神話の延長上、関係の上でとらえようとしているので、 今回も非常に勉強になりました。 ☆☆☆   1.初めに、神は天地を創造した。   2.地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。 創世記の冒頭箇所を読んでは、 『神は、水は作らなかったのか。水は天地創造以前に存在していたのか。 だとすれば、何かバビロニアの創世神話に似ているな』  《そもそもの大昔、まだ天と地もありませんでした。   世界には、ただ水と、それを支配しているふたりの者(二柱の神:アプスーとティアマット)   しかいなかったのです。》   (世界最古の物語 H.ガスター著/矢島文夫訳 現代教養文庫) 『このバビロニアの創世神話と何かしらの関係があるのだろうか?』 など、僕の興味はそちらの方に向かい、 天地創造が7日で終了するのを見ては、 『これもバビロニアの神話の影響だな』 とひとり納得し、 旧約聖書の創世神話の神学的・哲学的な意味を考えたことなどありませんでしたから。 そこで、bragelonneさんに質問します。 ○”神の霊が水の面に動いていた”と水とは、何なのでしょう? 僕には、この《水》は、物質としての水ではなく、 何かの比喩、たとえば《神性》に関与する何か、神の投影(面)など、に思えるのですけれども、 bragelonneさんにそのお考えがあったら、お聞かせください。 ○”その水はいつからあったのか?” 創造神話に《水》創造の記述がない以上、それ以前からあったと考えるべきなのではないか? もっとも、 天地創造・宇宙誕生の際に時間が生まれたとすれば(物理学はこう考えますね)、 時間の前後は意味をなさないので、この点をあれこれ議論しても意味がないのですが、 ちょっとした疑問です。 bragelonneさんはどう考えていらっしゃるのか、興味があるので、質問します。 ☆☆☆  ◆(γ)  光が《ある・ない》 つまり 《なかった状態からある状態に移る》ことは 時間的・経験的・相対的な現象である。  経験世界を超えている神にとって 質料(物質)の運動はその自己運動にまかせるはずである。モノの動きは 或る意味で 神としても手に負えない。(やたら奇蹟を起こすわけには行かない)。  人としても モノはその自己運動にしたがってうごいていただくように加工し誘導するよりほかない。  そもそも手に負えないことを知ることをとおしても その存在や性質を知るようになる。  あるいは 相手をうやまってこそ 人はおのれの自由を手にすることが出来る。 この部分を読むと、 「神は宇宙誕生の際に、 自由度をもった”やわらかい決定論的”な物質的・精神的法則をポンと投げ付け、 あとはなるようになれ。 でも、時々、修正(このことばが適切かどうかは別にして)をするために、 ”奇蹟”や”啓示”、”天啓”などで介入する」 とも読みとれ、 同時に、その中に人間の自由の根拠を求めていらっしゃるように思うのですけれども、 そのように解釈をしてもよろしいでしょうか。 ☆☆☆  ◆(δ)  もしこの非思考の場にわづかにでも 《のぞみ》があるとするならば それは   ▲ 5.・・・夕べがあり、朝があった。第一の日である。  と書かれたところである。その後も《第二の日》から《第六の日》まで同じ表現で書かれている。   ▲ ゆうべがあり あさがあった。  と。《光を昼と呼び、闇を夜と呼んだ》ところの《夜》は世界において現象しているにもかかわらず 人は《ゆうべがあ》ってから その夜へはじつは渡されることなく そうではなく すこやかな眠りを経て《あさがあった》と知る。  その自然本性〔の動態〕において人は 夜へは渡されないというのである。   ▲ 2.地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。  のである。《聖なる〈あまえ〉》〔としての すこやかなねむり〕。 う~ん、この部分がさっぱり理解できないです。 文学的感性・特に詩的感性が乏しい僕には、わかるようで分からない。 メッセージ性が読みとれないで困っております。 「《光を昼と呼び、闇を夜と呼んだ》ところの《夜》は」の《夜》は比喩ですよね。 言葉が適切であるかどうか疑問であるが、 《夜》を不道徳、罪悪などのDarkな面に喩え、 《すこやかな眠り》によって《夜》にとらえられない、おちいらないことを と表現されているのだろか? では、この《すこやかな眠り》とは何を意味するのだろうか? 思考停止? 予測・推測困難な《不自由なもの》への畏怖?? 論理的思惟を離れた、直覚的感性??? ”寝て起きたら、気持ちのいい朝だった。いい眠りだった”なんて意味ではないですよね。

bragelonne
質問者

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 ねむりねこにゃあさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  今回は――とただの主観としていままでの場合とくらべて述べますが―― 設問するにあたって考えが練れていなかったと思いました。  あたまにあった主題は これは表題に示すごとく《神を創造主とするのは 単なる表現の問題である》です。気がつくであろうのに よぶんな方面へ問い求めの矛先が散らかってしまったようです。  さて愚痴はこれくらいにしまして。  ◆(δ)  夕べがあり、朝があった。(ひとは夜へは渡されない)。  ☆ の問題から入ります。  ★ ”寝て起きたら、気持ちのいい朝だった。いい眠りだった”なんて意味ではないですよね。  ☆ 現代では 不眠症のことなどもありますから これでもよいかと思いましたが そうですね。これは ひとえに 心の闇のことです。  この観点は アウグスティヌスから来ているとおことわりしますが ただし今では出典の箇所がどこであるか分からないまま 自分勝手にかたちづくっている論点ですが 端的にたとえば次のような聖句とのかかわりを言おうとしています。    ▲ (ローマ書8:15) あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。  ▲ (エペソ書5:8) あなたがたは、以前はやみであったが、今は主にあって光となっている。光の子らしく歩きなさい――  ☆ つまり一たん――原罪ゆえでしょうか―― 闇の中に入ったのではあるのですが でも夜へは渡されないということだと思います。  もう少し引いておきましょうか。  ▲ (ヨハネによる福音8:12) イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」  ▲ (同上12:46) わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。  ▲ (テサロニケ前書5:5) あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです。わたしたちは、夜にも暗闇にも属していません。  ★ 不道徳、罪悪などのDarkな面  ☆ を――おのれの内にも見止めつつも それらを―― 跳ね返す光のチカラを言うと思います。  ◆(γ)・・・  ★ ~~~~  この部分を読むと、  「神は宇宙誕生の際に、  自由度をもった”やわらかい決定論的”な物質的・精神的法則をポンと投げ付け、  あとはなるようになれ。  でも、時々、修正(このことばが適切かどうかは別にして)をするために、  ”奇蹟”や”啓示”、”天啓”などで介入する」  とも読みとれ、  同時に、その中に人間の自由の根拠を求めていらっしゃるように思うのですけれども、  そのように解釈をしてもよろしいでしょうか。  ~~~~~~~  ☆ というふうな解釈になりますよね。どうも問い求めの方向が分散してしまった感じです。  あぁ いま分かりました。(こうやって つづり始めて来ると 分かるものですね。思い出すものですね)。  つまり ただ表現の問題であると言うだけではつまらない問題提起に終わってしまうと思ったのでしょう そこで何とか比喩としてこの創世記冒頭の箇所が言おうとしている内容を 言葉にし得ないものかと考え ひねり出した。こういう心つもりがはたらいたのだと思います。  なんとも楽屋内でがやがやしています。  イエスまでの歴史では 預言者を特に送った。イエスからの歴史では まま奇蹟が起こるかも知れないが もう預言者も必要とせず おおむね人間の知恵と知識とでやって行くであろう。それは 大きく自然史過程であると。  《自由の根拠》は――神学としては 無根拠であり・よって哲学として 公理であり―― 経験科学としてはこの自然史過程にあると見るかたちです。  いやぁ 冷や汗ものですね。  ◆(α)・・・  ★ ~~~~  創世記の冒頭箇所を読んでは、  『神は、水は作らなかったのか。水は天地創造以前に存在していたのか。  だとすれば、何かバビロニアの創世神話に似ているな』  ・・・  ~~~~~~  ☆ まづわたくしは 軽く通り過ぎただけに終わっていますと白状します。  その上で まづヰキぺからも引きます。  ■ (ヰキぺ:エヌマ・エリシュ) ~~~~~~   □ (『エヌマ・エリシュ』冒頭部) ~~~~~~   上にある天は名づけられておらず、   下にある地にもまた名がなかった時のこと。   はじめにアプスーがあり、すべてが生まれ出た。   混沌を表すティアマトもまた、すべてを生み出す母であった。   水はたがいに混ざり合っており、   野は形がなく、湿った場所も見られなかった。   神々の中で、生まれているものは誰もいなかった。   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  冒頭で、真水を司るアプスー、塩水を司るティアマト、そしてその息子で霧を司るムンムといった原初の神が登場する。・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ★ ~~~~   ○ ”神の霊が水の面に動いていた”と水とは、何なのでしょう?  僕には、この《水》は、物質としての水ではなく、  何かの比喩、たとえば《神性》に関与する何か、神の投影(面)など、に思えるのですけれども、  ・・・  ~~~~~~~  ☆ 水ではなく むしろ火であったほうが分かるような気もしますが。  ★ ~~~   ○ ”その水はいつからあったのか?”  創造神話に《水》創造の記述がない以上、それ以前からあったと考えるべきなのではないか?  ~~~~~  ☆ さほど考えたことのなかったその延長線上で考えた結果は 《地》が《水》を含んでいたと考えざるを得ないというようにまづは思いました。  1.初めに 天と地を創造  2.地は  ( a ) 混沌(トーフボーフ)であって、  ( b ) 闇が〔* 地の一部を成すところの〕深淵の面にあり、  ( c ) 神の霊が〔* やはり地の一部を成すところの〕水の面を動いていた。  3.神は言った。    ――光あれ。  ☆ そうして バビロニアの創世神話としては 《真水を司るアプスー、塩水を司るティアマト》が《天および地》にいたというのでしょうか? 天と地が 水を含んでいたと。それとも 天と地の以前から水はあったと言おうとしていましょうか?  後者だとしたら  ★ 何かの比喩、たとえば《神性》に関与する何か、神の投影(面)など、に思えるのですけれども  ☆ というところにまでさかのぼるように思えますが。・・・    トーフボーフなるお応えになりましたが。・・・

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  • alwen25
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回答No.4

>《光あれ》と神が その文字どおりに 《言った》のか? 光だけであり、空気がないので通常のしゃべり方とは 違うと思います。 貴方は、良く表現の問題や「ただの文字」という表現を 使いますが、聖書の時代に録音機器があったとは思えないので 文字でしか記録を残せないのは仕方がないと思います。

bragelonne
質問者

お礼

 あるゑんさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ 光だけであり、空気がないので通常のしゃべり方とは 違うと思います。  ☆ むつかしいですね。ぎゃくに ものすごくむつかしいことをおっしゃっている。こう思います。  とにもかくにも 何らかのかたちで神は《しゃべった》という見解をお持ちなのですね?  それを何らかのかたちで聞いた人間がいたということでしょうか?  そしてそれを記録した。  ――こういう見方のほうが それはいったいどういう出来事であるのか われわれ人間にはきわめて分かりにくいことだと思うのですが どうでしょう。すんなり受け容れられましょうか?  ううーん。ちと 考えてみます。  空耳でもよい と言えば 言えるかも知れないのですが。  とにかく 出来事をしるしたのだというかたちでしょうか。  思いとして持ったその内容なのだということもあり得るかも分かりません。  ううーん。でも ただ いづれも推量ということでしょうね。  

  • corpus
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回答No.3

神の擬人化に問題を感じておられるのですね。つまり、神が時空に広がる我々のような存在物であると考えているところに、メスを入れたいというのでしょうかね。

bragelonne
質問者

お礼

 ご説明・ご回答をありがとうございます。  ★ 神の擬人化に問題を感じておられるのですね。  ☆ 微妙です。擬人法による表現 これは ひとつの方法だと見ます。そのような表現方法によって表わされたものを――つまり このばあい神を―― ややもするとその文字どおりの意味内容として受け取っていることが見られます。それは おかしいではないかという問いです。  ★ つまり、神が時空に広がる我々のような存在物であると考えているところに、メスを入れたいというのでしょうかね。  ☆ 結論は そうなります。  ただし迂回路があるにはあります。    1. 神は 非経験の場であると想定します。  2. 非経験なら それを人間が経験しうるかし得ないか これが分からない。経験可能か不可能かが分からない こういう場を想定して 非経験の場と言い それを神の定義にあてています。  3. 非経験の場は 経験世界ないし相対世界を超えていますから 絶対ということになります。  4. そして これを擬人法で表現するなら 絶対者です。そこからさらに創造主という属性をあらわす表現も持たれます。  5. 表現の問題を そのまま表現の問題なのだと見ていれば それでよいわけです。そうは見ない場合があることに 異議をとなえています。  6. 絶対なる非経験の場は けっきょく経験世界を超えているということは この経験世界を覆いつつむと――さらに属性の規定として――見られるようになります。  7. つまりは 神はあまねく存在するといった神の遍在説です。あるいは 神の霊が われわれ人間の心にやどるといった表わし方も持たれます。  8. ということまでは 表現の問題およびそこから推理されうる属性の表わし方として みちびかれる。    9. と考えますが いくら神の遍在を言うからと言って 神が そこここにあったり起こったりする経験事物であるとはならないはずです。つまり  ★ つまり、神が時空に広がる我々のような存在物であると考えているところに、メスを入れたい  ☆ ということです。結論として おっしゃるとおりです。

  • corpus
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回答No.2

永井均『私・今・そして神』に、ナレーター仮説というものがあります。ナレーターとは、テレビでもおなじみでしょうけれど、画面には現れずに解説する人のことです。テレビと宗教では、問題が多少異なるかもしれませんが、神の所業についても、それを外部から神を見下ろしている、そういう人物、ナレーターがいなくてはいけない、というのが、永井氏の説です。それでは、神を実況中継するナレーターを追加すればいいではないかとも考えられますが、そのナレーターを記述する第二のナレーターが必要になり、さらに、と続けていくと、収拾がつかなくなるというわけです。永井氏は、だから、聖書をはじめとした創世記については、あまり信用していないようです。 私たちも、神について考えるということは、ある意味で、ナレーターの地位にいることになります。神の創造日記を読んでいるのですから、神よりも上の立場にいるわけです。神の創造にあたっての表現がどうであればいいかということも、私たちのすることです。でも、そうすると、神というものは下等な動物になってしまいます。神を観察しているわけですから。 少し質問に対する回答になっているか少々不安ですが、これにて。

bragelonne
質問者

お礼

 ・・・クリスティとつづくかどうかは分からない こるぷすさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  いきなりですが 乱暴なかたちでのもっとも正直に申せば 《独我論》という半ば鎖国政策を敷くわが城に籠もってのご議論ではないでしょうか? となります。  そうは言っては いけないのでしょう。つまり 内実はおっしゃっていることが――永井の説をも合わせて――よく分からなかったというのが 本当ですから。    ただ 部分的には 趣旨説明とは話がかみあっていないことが はっきりしています。たとえば  ★ 神の所業についても、それを外部から神を見下ろしている、そういう人物、ナレーターがいなくてはいけない、というのが、永井氏の説です。  ☆ この所論には 意義を見い出しがたいというのも ほんとうです。  (あ) 《神の所業》と言っても それを人間の言葉で表現するということ自体に 問題がある。――こう趣旨説明は言っているわけですから そのことを踏まえていないと考えられます。話がかみ合っていないという意味です。  (い) 《外部から神を見下ろしている》。――神について《外部》も《内部》もありません。あるいは あるか無いか そんなことは――絶対ないし無限のものについて――人間に分かるわけがありません。  人間は 神の外部であるかも知れないし いやじつは 内部に入っているということであるかも分かりません。  人間を超えたところの非経験の場と ここでは 説明する神について 非経験の場が 外部からにせよどこからにせよ 見下ろすにせよ見上げるにせよ 《見る》ことが出来ると前提していること自体 おかしなことではありませんか?  (う) ナレーターであるにせよ単なる秘書としての記者であるにせよ何にせよ ともかく人間の言葉で神について物語がしるされています。これについて 哲学はどう考えるか? こういう単純な問いです。  《ナレーターがいなくてはいけない》と言われても いったいどういけないのか? さっぱり分かりません。何がいけないのか? も合わせてつけ加えます。  (え) 永井均がどう見ようと わたしたちの知ったことではありません。議論の中身が 問題です。  あるいは  ★ 私たちも、神について考えるということは、ある意味で、ナレーターの地位にいることになります。神の創造日記を読んでいるのですから、神よりも上の立場にいるわけです。  ☆ つまり  (お) 《ナレーターの地位にいて 神の創造日記を読んでいる》と どうして《神よりも上の立ち場にいる》ことになりましょうか? さっぱり分かりません。  (か) 《神の創造日記》と言っても それは人間が書いたものですよ。書かれてあるとおりが《神の所業》だと見なすこと自体から おかしいのではありませんか?  (き) ★ 神の創造にあたっての表現がどうであればいいかということも、私たちのすることです。  ☆ 人間の能力と努力のみだとは 信仰の立ち場からは 言えないでしょうが 一般に このとおりですよ。おっしゃるとおりです。  (く) ★ でも、そうすると、神というものは下等な動物になってしまいます。神を観察しているわけですから。  ☆ いったいぜんたい どういう推論なのでしょう?  たとえば夫が妻を あるいは妻が夫を それぞれ《観察している》としたら その相手としての妻あるいは夫は それぞれ《下等な動物になってしまう》ということでしょうか?  たぶん舌足らずだったと言いましょうか 時間を急いでしたためられたのでしょう。  と見ましたし 考えましたが いかがでしょう?

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     (1)  《神》なる次元と《経験世界》とのあいだの隔たりを重く見た場合に それらの関係をどう表現するか。これが ひとつの表現の問題である。そもそも神と人とは 互いに同じ平面において並列するものではない。絶対的と言うべき隔たりがある。  (2) けっきょくのところ 神とヒトとの――次元を隔てた――関係を表現するには 仮りの表現にならざるを得ない。神本体をこの経験合理性を超えるようなチカラを持たない人間の言葉で直接に表わすことは出来ない。(つまりこれは 空(シューニャター)観である)。  (3) ぎゃくに言いかえると 神を表わすときには 仮りの表現として――本体(答え)をみちびく補助線を引くかたちで――いかようにもその形式をこころみることが出来る。神についての表現形式は いくらでもある。人間は 自由に補助線を引けばよい。その真実味や信憑性を競えばよい。  (4) かくて 神をあつかう聖書は――幾人かの聖書記者たちが相い競ったかのようにして―― 表現の問題である。ということは 表現形式の多様性の問題である。  (5) とは言っても おそらく主題は 神とけっきょく人間としての我れとの関係であり この関係とは何であり 如何にあるか? だと考えられる。人間の条件(自然本性の限界)を問うかのような《存在》論。あるいは 《〈わたし〉とは何か》。そしてあたかも《無からの創造 creatio ex nihilo 》と言うかのように そこに創造された(生成して来た)《モノ》論――自然科学――。  (6) 神が《創造する》とは どういうことか? 《つくる》とか《創造主》とかの表現ないし文字にこだわることはない。はずだ。  ▲ (創世記1:1)  http://www.blueletterbible.org/Bible.cfm?b=Gen&c=1&t=KJV#s=t_conc_1001  ▲ Gen 1:1 בְּרֵאשִׁית בָּרָא אֱלֹהִים אֵת הַשָּׁמַיִם וְאֵת הָאָֽרֶץ׃  ( Be-resit   bara’ Elohim    et-ha-samaim   wa-et ha-’arec.)  ( In-beginning He-created God (acc.)-the-heaven and-(acc.) the earth.)  ▲(KJV):In the beginning God created the heaven and the earth.  ▲(新共同訳) 初めに、神は天地を創造された。  (7) この《 created / 創造した》を表わす《バラー》なる語についてそれは 《切ることによって形をつくる》という原義の言葉であるようですが 《創造する to create 》の意味では 神にのみ使うと言います。    ○ bara'  http://www.blueletterbible.org/lang/lexicon/lexicon.cfm?Strongs=H1254&t=KJV  (8)  だとしたら ますますこの《創造する》なる表現形式にはこだわる必要がない。と考えられます。  (9) すなわちたとえば 《光(あるいは天地)なるモノを作ろうと思う。というよりは 光なるモノがおのづから成るように環境をととのえてやろう。ぢゃあ そうすっか》とでも言って そうした。のかも知れない。  (10) すなわち 《無からの創造》というときの《無》とは 有ったり無かったりする相対世界の無ではなく 絶対領域であるからには まったく人間には分からない。と同時に それを理解しようとして如何ようにもというほどにわれわれはそれぞれに補助線を引くことが出来る。  (11) 絶対領域というのは 絶対無でもあれば絶対有でもありうる。したがって 神を《有る神・存在としての神・生命なる神》という呼び名で呼ぶことを人は選び得るし あるいはそうではなく 《無い神》としてもその呼び名を選ぶことが出来る。そのほうが 神を知るにはよい補助線だと思えば 人は自由にそれを引く。すなわち いわゆる無神論である。  (12) 無神論にあっては この《バラー(創造した)》の中身を さらにたとえば 《いやいや 神などと言ってもその言葉はどの言語にも用いられているが 実質はない。あるのは ただ光などのモノのみである。すなわち 初めからモノがユラギを始め自己運動を起こした。というだけである。世界は モノの世界である》という表現形式をえらぶかも知れない。  (13) 有神論と無神論。どちらも 人間にとって自由な表現形式をえらんだその結果としてあり 持たれている。互いに同等である。  (14) ところで かの福音書記者のヨハネ(つまりイエスの弟子のヨハネ)は 言葉が《天地や光る》なるモノ(存在)と同時に発生したのではないかという説などは どこ吹く風で この言葉を《ロゴス》として《初め》に持って来た。すでに《神》として持ち出した。そういう表現形式を採ったのである。そういう補助線を引いたのである。  ▼ (ヨハネによる福音 1:1-5) ~~~~~~     はじめに ことば(ロゴス)があった。  ことばは かみとともにあった。  ことばは かみであった。  このことばは はじめにかみとともにあった。  すべてのものは ことばによって成った。  成ったもので、ことばによらずに成ったものは何一つなかった。  ことばの内に いのちがあった。  いのちは 人を照らすひかりであった。  ひかりは 暗闇のなかでかがやいている。  くらやみは ひかりをとらえ得なかった。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  (15) 表現の問題としてこのあたりまで たどり着けるのではないか。これを 検証しつつさらにあらたな出発へとすすむことが出来るのではないか。という意味で 成否と当否を問います。  (16) なお《光あれ》(創世記1:3)というときドイツ語が 《 werden :〔光が〕成る》という語を翻訳で用いている。このことは ひとつの――補助線としての――ヒラメキを示しているかも分かりません。《有る》とともに《成る》というニュアンスの言葉を当てることも 一解ではないかと。  (17) フォイエルバッハとかいう人は 神学は人間学であると言ったようです。たぶんこのフォイエルバッハの意図とは違って その《火の川(?)》を突き抜けて このいまの神学⇒人間の存在論――つまり人間と社会の理論――は さらにこれからも寄与するところがあるものと考えますが みなさんにあっては いかがでしょうか?

  • 神と仏の違いを、天地創造の視点から教えてください!

    絶望した時、「神も仏もいない!」と言うヒトがいます。神と仏の違いを教えてください!聖書も仏教の経典も読んでいません。ただ、あまりにも大きな概念なので、次のポイントに主眼を置いてお願いします。どの聖書か分かりませんが、「神が天地を創造した!」という言葉があるようです。仏教の経典にも、「仏が天地を創造した!」というような記述内容があるのでしょうか?印象としては、「創られた天地の中(仏や人間を含む)で、仏は、人間の生きてゆく指針を示している」ように感じています。つまり、「神の方が仏より、上位の概念」に見えるのですが?ついでに、「天地創造には、人間も含む?」のだと思います。そこで、聖書では、「この世の天地創造と、あの世の天地創造との、区別がある(対象側の視点!)」のでしょうか?仏教では、「意識の視点(主体側)から、この世とあの世の処世を示している?」ようで、逆に分かりやすい感じがします。両方とも、「天国と地獄」の概念は、同じですか?

  • 絶対無=不確定性無限 か?

     1. 《絶対》は 相対的な存在である人間の言葉で 絶対無と言っても絶対有と言っても いづれも 経験世界を超えている。つまり 非経験の場であり そのように想定するものである。  2. しかるに 《不確定性無限》は 人間のおこなう確定作業つまりは 不確定の確認作業をつうじて認識するものごとであるゆえ 経験世界に属する。  3. よって 表題の等号は 成立し得ない。両者は 互いに次元が違う。  これを 問います。  表題の示す命題は 次の文章から引いたものです。  ◆(【Q:《宇宙は 自己の補完である》とはどういう意味か?】回答No.4) ~~~   http://okwave.jp/qa/q8207934.html  (*全ての存在は、量子的な不確定性=確率波動性に基づいており  無限につめ込むと存在確率の山が平らになって、無と等しくなります。  この「絶対無=不確定性無限」において、  その無限の闇に認識体の仮定断面の運動を想定すれば、  相対的に無の風は光になり、  認識体はその光(量子相互作用パターン)の向うに  自己の補完(相補的不確定性)としての宇宙を認識するのです)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~    この文章についても 問います。  4. ★ 無限の闇に認識体の仮定断面の運動を想定すれば、相対的に無の風は光になり  ☆ これは 闇の世界において《無い神》が 光あれ! と言ったら 光があったと言うのと どう違うか?  次のような文脈です。:  ▲ (創世記  1:1~5) ~~~~~~~~~  1: 初めに、神は天地を創造された。  2: 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。  3: 神は言われた。「光あれ。」 こうして、光があった。  4: 神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、  5: 光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  5. あるいはつまり  ◆ 認識体はその光(量子相互作用パターン)の向うに 自己の補完(相補的不確定性)としての宇宙を認識するのです。  ☆ というとき ひとつに 経験世界としての《宇宙》を認識しても 始まらない。相対的なものごとについての堂々巡りに終わる。ゆえにつまりは 次のような解釈に替えられ得るのではないか。  ○ 《光と闇 昼と夜》の向こうに 相対性としての人間存在を補完するもの・すなわち《絶対》をひとは むしろわが心なる《非思考の庭》の内に たとえばヒラメキをとおして 知覚する。もしくは 予感する。  6. それ・つまりヒラメキにおいて予感しうる何ものかが 《無い神》である。むろん《有る神》と言っても同じである。また いろんな名で呼ぼうと 関係なく それらはすべて 全体として同じひとつの神である。  7. ただしこのような《相対存在が 絶対によって補完されること》は 《相補性》ではない。神のほうから 一方的に 補完してくれるのである。相対と絶対とであることを思うべきである。  8. これらすべては 想定による物語である。ワタシの主観の内なる動態過程において 動態過程として ある。  9. けれどもこの物語としての仮説理論は それによって 神についてのマチガイを質すことができる。《神は 何でないか?》を明らかにして示すことができる。たとえば 経験世界のものごとではない。  10. そして それだけでじゅうぶんである。  11. おまけとしては ヒラメキをつうじて神――真理――の予感が得られれば そこから 経験科学としての知恵や知識に通じるイメージの知覚をすでに得ている。  忌憚のない自由なご見解において ご批判をお寄せください。

  • わたしが神様だったら

    世界には様々な宗教がありますが、私は最近、神を信じている人が多いということに疑問を抱くようになりました。 人間は、答えがほしいけれども見つからないので、全知全能の神を創造し、不安感を埋めるために神を信じるのではないかと、私は解釈しています。 神は人間に自由意志を与えたそうです。それは神の愛なのだそうです。 私がもし神なら、人間が安心して暮らせるような、ある程度の規制をする。 戦争で罪のない人が死んでしまうような現在の世界では、自由意志のない人がいる。 そんな世界なんて、私が神だったら作らない、と思っていました。 先日、このようなことをキリスト教を信仰している方に伝えると、「言っている事がよく分からない」と言われました。 そんな時、チャットモンチーの「世界が終わる夜に」という曲を聴きました。 「わたしが神様だったらこんな世界は作らなかった」という歌詞があります。 あなたが神様だったらどのような世界を創造しますか? あなたの理想の世界を教えてください。 また、宗教を信仰している方や神を信じている方がこの曲を聴くと、どのように感じるのでしょうか。 思ったことを教えてください。 視聴 http://www.towerrecords.co.jp/sitemap/CSfCardMain.jsp?GOODS_NO=1584525&GOODS_SORT_CD=101 http://www.chatmonchy.com/disco/index.html 歌詞 http://www.utamap.com/showkasi.php?surl=A02270

  • 私は神ですか?しかし、人間は神ではない。

    馬鹿で、非常識で、アホで、間抜けで、有り得ない・・・そんな質問ですよね?これって。 常識的に言って、1人1人は、生きては死ぬだけの、ただの生物であり、 ただの人間ですよね。 だから、ぶっちゃけ、1人が例え、死のうが、地球上には60億人、日本には1億人もの大勢の人がいるのですから、1人が死んでも、別にどってことないわけです。そりゃ、悲しむ人もいたりしますが。 だから、1人がどんなに頑張ろうとも、政治家になって、総理大臣にでもならない限り、どこぞの社長にでもならない限り、日本や世界へ多大なる影響を与えることは無理なわけです。 その上で、とあるブログをまた発見しました。 また、というのは、一度検索して発見していたブログだからです。 そこには、創造主が貴方、とあります。 つまり、創造主=神は貴方、という意味だと思います。 しかし、常識的に言って、私だって、他人だって、ただの人間であり、神ではありません。 神とは?そりゃ、すごい人で、なんだってできる存在ですよね? つまり、私は神ではないということです。 また、他人だって、神ではないということです。 これらは、常識であり、ほぼ100%合っていると断言できます。 この意見に反対する人達は、ただの馬鹿な、非常識な人々でしょう。 キリスト教など、宗教知りませんが、彼らだって、神=偉大な存在だと捉えていて、人間は神ではないとしています。 以下、引用します。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー http://www.vcafe.jp/harukanaima/blog/entry-16343 神はサイコロで遊びたかった 2013年02月20日 23:35 カテゴリ : 基本的な理解の整理 「神は創造主なので、当然、「確率」というサイコロを創造できました。 そしてサイコロで遊べる世界、「確率の世界」も創造できました。 さらに神の壮大なところは、確率の世界をもっと楽しめるように、 神であることを忘れた自分までをも創ったことです。 「地球次元」、あるいは「人間」という体験は、こうして創造されました。 『創造主であることを忘れた創造主』、それがあなたです。 あなたは神、創造主の一つの視点を担っている存在です。 あなたは本来、無限に広大な存在です。 ですが、いまそれを忘れているのは「神の計画」によるものなのです。 「自分をもっと体験したい」という神の衝動によって、 自分が神であることを忘れたあなたが創られたのです。 すべてを忘れれば、すべてのものが初めて触れるものになります。 すべての体験が新鮮なまま、深く、詳細に味わえます。 神であることを、創造を、深く体験するためには、 神を、創造を、新鮮な驚きをもって深くつぶさに味わうためには、 神である自分を忘れる=「神ではない自分」、 創造を忘れる=「創造できない」 という体験が必要になります。 その体験をより強烈なものにしてくれるツールが、 「確率」という機能だったのです。 確率に翻弄されれば、 自らが創造主であることなど想像すらできなくなります。 確率に翻弄されるなど、 もっとも創造主らしからぬ振る舞いです。 どんなものでも思いのままに創造できる創造主にとって、 これほど楽しめる体験は他にありません。 神の計画ですから、当然、完璧に成功しました。 あなたは自らの無限の広大さを完全に忘れ、 「確率」というシステムは完璧に作動し、 確率に振り回される世界とあなたが完璧に創造されました。 あなたは神の計画に見事に協力してきたのです。 神は『「確率」という体験』を創造しましたが、 神自身は確率に振り回されることはありません。 なぜなら、 創造主は自分の創造したものに支配されることはできないからです。 「確率」は、創造主である神の計画によって、 その計画の通りに寸分違わず創造されたものです。 『神はサイコロを振らない(アインシュタインの言葉)』のです。 しかしながら、この地球次元の体験から確率性が排除できないのは、 単にそのようにデザインされているからです。 そもそも「位置(”ここ”、”そこ”)」や 「運動(”ここ”から”そこ”への移行)」 「時間("このとき”、”そのとき”)」という、 二元性の世界に特有の相対的な現象自体が、創造された幻想なのです。 (さらに言えば、 「現象」という概念も、また「概念」も相対的な性質のものですが。) そして、 それらの現象の現われ方にも様々なバリエーションがあるので、 地球次元的な「位置」や「運動」、「時間」の実現のために、 「確率」という機能をこの次元に組み込んでいるのです。 すべては、『自分が創造主であることを忘れる』という体験を 可能にするためのデザインなのです。 『自分が創造主であることを忘れる』という体験の次元においてのみ、 「確率」が効果を発揮する、 『量子の不確定性(「不確定性原理」:量子物理学上の理論)』 という体験が可能となります。 ですから、 『量子の不確定性』も『神はサイコロを振らない』も、矛盾し合う概念ではなく、 それぞれ 『「確率」がその効果を発揮する次元』と『「確率」を創造した次元』 を説明しているのであり、 それぞれが認識している次元、解明しようとしている次元が 異なるだけなのです。 つまり、 どちらの考え方も成立する、言わば”正しい”ということです。」

  • 神・サムシンググレート 宇宙 悪の存在 なぜ?

    宇宙の全てを創造した神・サムシンググレートは、人類に自由意志を与えただけでは足りず、宇宙をおもしろくするために、悪魔や邪悪な異星人や悪魔崇拝者や闇の勢力やこれらの手先どもである極悪人や悪人どもを存在させているのでしょうか。 宇宙に悪役がいないとおもしろくないという事でね。 それとも何かのミス・失敗で存在しているのでしょうか? それとも、自らの自由意志で、大きく神・サムシンググレートから離れてしまった存在なのでしょうか? そうなら、なぜ神・サムシンググレートは、こういう存在を存在させ容認しているのでしょうかね?

  • 我が神について語ってしんぜよう。

    私は仏と言う言葉を現代語に直すと人間と言う言葉だと思っていてな。 天啓のごとく悟った人間と言う言葉のそのような尊さを信じ、人と人が信じあう事こそ信仰だと考えていた。 多くの人々はひとを信じようとしない。 したがってこのように歩む道のりは困難であった。 しかし最も深い闇において、それでも信じると心が固まった時、光が舞い降りた。 仏教で言う無量光である。 それは神について知ろうとしなかった私にとって、神と名をつけることすらできない、無垢で純粋な光であった。 しかし私はその光と通じる事によって、私の方から、あえてその光をアマテラスと呼ぶ事を選んだ。 その光は本来、名も無き光であり、神と言う言葉すらも遠ざけるその無垢さが、すなわち無神論と言う信仰の在り方である。 以上は仏を信じ神を信じないとはおおむねこのような論理であると考えて構成しました。 このような哲学はキリスト教に由来した西洋の哲学とは別に、地に足の付いた哲学をしようと志していまして、宗教的な話とは違う趣旨手ご質問差し上げています。 信仰心を明晰な理性のまな板の上で料理するとするとあなたならどのような考えが浮かびますか

  • 神とは「悪」なのか?

    私はいつも善と悪について考えています。 それを生んだ神という存在についても考えています。(この神とは何々教の神ではありませんし、神の存在について問うものではありません。創造されて何かがこの世界にある。森羅万象を作る源と扱います) これまで「善」=「神」だと思っていました。 人間については性善説ではなく、性悪説をとっています。 善と悪の戦いです。ですが、あまりにもの世の中の不条理に出会うたび、神はいないのではないかと思うのです。つまり神に失望したのです。 もし神が善なる存在でしたら悪は排除されるはず(べき)です。 では、神に対する人は希望なのでしょうか。 人が悪に対する希望だとしましょう。しかし人が善を求め、成長するために心や魂をもつものとしたら悪はそのための概念です(物語は絶えず悪を排除し、カタルシスを求めるところに人は善を求めている証しもみられる)。しかし悪というものの実態は破壊そのものであり存在意義すら許されることではありません。 善は善のままであってもよいはず。二律背反の法則で(?)悪があるとしたら、善そのものの美(という表現が適切かどうかはわかりませんが)が悪のためによって傷つけられ、汚され、破壊されるのが「現実」です。それでしたら善が善である存在意義がありません。 なぜ悪はあるのか。そして強烈に悪をしらしめるのがこの世の実相でしたら、もうこれは愛や創造のためではなく、破壊がこの世の、人のなかに前提として存在を許された(では「誰」に?)ものなのでしょうか。 このようなことを考えると、神はもしかしたら悪なのではないかと思ってきました…