神が天地をつくったのか

このQ&Aのポイント
  • 神が天地を創造した初めの出来事についての質問。
  • 神が光を創造し、光と闇を分けたという出来事についての疑問。
  • 神の物語が人間の非思考の場であるのかを問いかけている。
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神が天地をつくったのか

神が天地をつくったのか  (α) そう表現したに過ぎないとなぜ言わないのか? すべては表現のもんだいであるとなぜ見ないのか?  ◆ (創世記1:1-5) ~~~~~~~~~~~  1.初めに、神は天地を創造した。  2.地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。  3.神は言った。    ――光あれ。   こうして、光があった。  4.神は光を見て、良しとした。神は光と闇を分け、  5.光を昼と呼び、闇を夜と呼んだ。夕べがあり、朝があった。第一の日である。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (β) 《光あれ》と神がその文字どおりに《言った》のか?   んなわけはない。時空間を超えている〔敢えて擬人法で言えば〕存在にとって 《初めに》とか《つくる》といった時間的行為がどうして必要なものか。  (γ) 光が《ある・ない》つまり 《なかった状態からある状態に移る》ことは 時間的・経験的・相対的な現象である。  経験世界を超えている神にとって 質料(物質)の運動はその自己運動にまかせるはずである。モノの動きは神としても手に負えない。   人としても モノはその自己運動にしたがってうごいていただくように加工し誘導するよりほかない。そもそも手に負えないことより その存在や性質を知るようになる。相手をうやまってこそ 人はおのれの自由を手にすることが出来る。  という当たり前のことを 神の物語――人間にとって非思考の場――はかたっているのではないか。  (δ) もしこの非思考の場にわづかにでも《のぞみ》があるとするならば それは  ◆ 5.・・・夕べがあり、朝があった。第一の日である。  ☆ と書かれたところである。その後《第六の日》まで同じ表現で書かれている。  ◆ ゆうべがあり あさがあった。  ☆ 《光を昼と呼び、闇を夜と呼んだ》ところの《夜》は現象しているにもかかわらず 人は《ゆうべがあ》ってから その夜へは渡されずに 眠りを経て《あさがあった》と知る。その自然本性において人は 夜へ渡されないというのである。  ◆ 2.地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。  この主題をめぐって どうか忌憚のないご見解をおしえてください。

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noname#117592
noname#117592
回答No.12

こんにちは、 私は聖地イスラエルから見ると日本と同じ、地の果てアメリカに住むキリスト教信者です。ですから衒学趣味で聖書を語ることはしません。 しかし、現在のアメリカ南部洗礼派(のうち特にセミナリオで博士号を取った方々)の見解をお知らせします。 まず、新約聖書は光であり、旧約聖書はその大いなる影であり、前奏曲である。 旧約聖書は救世主の誕生を預言するために存在する。 その旧約聖書の創世記の中でも、始祖アブラハム以前は信憑性が低い。 二人の作者がいて、かわるがわるに少しずつ視点の違う物語を説いている。 他の回答者産のご指摘どおり、周辺の地域の神話が随分と紛れ込んでいる。 神話を哲学で割ると一体何が生まれるのでしょう? 何かためになるものが生まれましたか? 皆さんの回答は勉強になりました。有難うございました。

bragelonne
質問者

お礼

 ワグヒューストンさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  そうですか。この哲学カテゴリにはもうひとりアメリカから文章を送って来ておられる方がいますが お二人目にお会いしました。  さっそく本題に入りますと もし  ★ 神話を哲学で割ると一体何が生まれるのでしょう? / 何かためになるものが生まれましたか?  ☆ がワグさんのお考えだとしますと そうですね。この創世記のひとくだりについては 《4.神は光を見て、良しとした》あたりに注目します。  すなわち 神が創造主であったかどうかをいま別として 絶対者であることはまちがいないわけですから その立ち場の者(擬人化していますが)に宇宙ないし人間の世界について《良しとする /  祝福する》ことを聖書記者は為さしめた。この記述は 注目してもいいかなと思っています。  すなわち(δ)および(γ)の項目ですが 《1:2 ・・・神の霊が水の面を動いていた》というのなら 世界は世界現象のみではなく その上に何かあると語っていませんか? 哲学や経験科学で割ると それら科学の目をすり抜けるものがある。と語っていませんか?  そうでなければ アブラハムがわざわざ故郷を去ってほかの土地へ出かけていく謂われがなくなるでしょうし。そのかれが義しい人とされたのは おこないによってではなく 何か《余計なもの》としての信仰によってであった。モーセとてその律法を遵守することによってではなく アブラハムと同じように召命され信じることによって神の国の外交官とされた。  そういったことを考えます。  ★ 旧約聖書は救世主の誕生を預言するために存在する。  ☆ ではあるでしょうが そこにはもっと地道な基礎(歩み)が このアブラハムの時代から築かれて来ている。モーセの律法〔による生活態度〕を超えてアブラハムの信仰にもとづく生活がなかったなら いくら救世主だと言っても その信仰という非思考の場は 容易に示され得なかったかも知れません。  アメリカでは いわゆる原理主義にもとづき 創世記の記述をそのまま史実だとして受け取っている人びとがいると聞いています。そうではなかった事例を挙げていただきましたが ちょっと合理的な傾向のようには感じました。  いえ まだまだ片言隻句からの判断でしたから そこのところはご容赦ください。そういった情報なりご見解なりは たのしくおもしろくお受け取りしました。ありがとうございました。

その他の回答 (12)

noname#117592
noname#117592
回答No.13

No.12です。 本当に丁寧なお礼を有難うございました。 お礼のお礼になりますが。 おっしゃるとおり、この辺りの、私の年代より上の方々は多くが極めつけの原理主義者でありまして、保守的かと思うと、ある一線を越えた途端、突如攻撃的になることが多いので要注意です。 私が師事していた牧師さんは物事をアカデミック、且つ総括的に捉えることのできる稀有の方でした。今はその考えを後進に残すべくセミナリオで教えておいでです。 宗教は生きものでして、絶えず社会の要求に沿って脱皮してゆかないと、死んで、腐ってしまいます。次の世代を担う若者には新しい皮袋が必要です。アメリカのキリスト教は原理主義を捨て、どんどん進化してゆかなければならないのです。 ですから(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の)神はまるで使い捨てのコップのように次から次へと預言者を選び取ります。 人類の普遍的真理を求める哲学とは交差しても重ならない二本の直線のように思います。 また面白い質問をなさるよう、楽しみにしております。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ アメリカのキリスト教は原理主義を捨て、どんどん進化してゆかなければならないのです。  ☆ この一文にも表現の持つ幅があるかと思います。ですが ひとまづはそのような方向と展開をわたしも望みます。  ワグヒューストンさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  上の命題は たしかにさらに説明が加えられています。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ですから(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の)神はまるで使い捨てのコップのように次から次へと預言者を選び取ります。  人類の普遍的真理を求める哲学とは交差しても重ならない二本の直線のように思います。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ たぶん同じ内容を 方向性としてまた大きな枠組みのような全体観として 持つと考えるのですが その細かい中身に違いがあるかも知れません。  ひとつに かえって別の意味での原理主義に聞こえるかも知れませんが 預言者は 洗礼者ヨハネを最後の人とすること。言いかえると イエスはふつうの人間であると同時に――物語として・想定として――キリストと呼ばれる神の子であり神であるという見方にわたしは 従います。  ひとつに もしこのキリスト史観によるならば 信仰ないし神学はおよそ見えない基礎として(そのままでは表に出ない基礎として)哲学と相いたずさえてすすむことが出来る。言いかえると 分野の違いはありますが 裏(基礎)と表(経験思想)との区別であって 互いにつながっているとは思っております。  言いかえると キリストのキの字をいっさい出さずに 哲学としてあるいはもろもろの経験科学として 人びとは自己表現を進めて行ける。こう考えています。そう見通しています。  ★ 私が師事していた牧師さんは物事をアカデミック、且つ総括的に捉えることのできる稀有の方でした。今はその考えを後進に残すべくセミナリオで教えておいでです。  ☆ そういう問い求めを実践する人が《稀有な存在》であることを超えて社会的なあらたな展開を繰り広げていけるようなアメリカであって欲しい。こう思います。  ★ また面白い質問をなさるよう、楽しみにしております。  ☆ ありがとうございます。たぶん――これはわたしの持論ですが―― アジアに位置して しかもいわゆる教義のない(国家神道の以前の)シントウとしての生活態度にも基礎づけを持つ日本人から 案外この欧米のクリスチアニズムについての発言が けっこうあたらしくて現在の意見の対立分裂を打開するような内容を帯びることが出来るのではないか。こののぞみを持っています。  ありがとうございました。これを機会にさらに舞台を大きく広げていければ 言うこと無しになると考えます。元よりのぞむところです。(ちょっと大風呂敷かな?)

noname#119332
noname#119332
回答No.11

{汝自己のためにいかなる神の像をも作るべからず} 超越者の沈黙ー絶対的虚無。 しかしそれは究極的な充実にもなりうる。

bragelonne
質問者

お礼

 エンテレケイアさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  おっしゃるとおりだと思います。思うんですが わたしのくせを出してちらっと評言を。  ★ {汝自己のためにいかなる神の像をも作るべからず}  ☆ これは特にはそして近代以降の現代では あくまで《観念としての偶像》が問題だと思っています。  たとえば今は流行りませんがやはり《愛》ですね。クリスチアニズムを知る人が 神の愛としては 人間には実行することは無理だとして語るとすればよいかと思います。でもブディズムを知る人の場合は 研究した人でも 《慈悲》を持ち出します。無縁な人びとに慈悲をもって接する無縁慈悲というのが 神の愛に匹敵するかと思いますが こちらの場合は 実践できるのだと思って語っているとは思います。  ということは あくまで概念として差し出しているのであって あるいはイメージとしては実現できると思って示しているようであって これが《観念の偶像》を崇拝するかたちになっていなければよいがと考えています。  あるいはブディズムではないのに 例の《梵我一如》を持ち出して来ます。これなどは 典型的なイメージとしての悟り つまりイメージであるなら偶像です。《則天去私》ですね。  ★ ~~~~~~~~~~~~~  超越者の沈黙ー絶対的虚無。  しかしそれは究極的な充実にもなりうる。  ~~~~~~~~~~~~~~   ☆ ええっと デウス・アブスコンディトゥスでしたか 隠れたる神ですね。さんざん苦しんだ末のヨブに対しても 超越者と被造物という身分をわきまえなさいといった言葉を 最後に語りかけるくらいでしかありません。  それでもヨブは納得したようです。  たぶん神からは何がしかの祝福があるよという言葉を用意するという手は 捨てなくてよいし それは間違っていないのだと思います。  《絶対的虚無》に落ち入るという場合には その虚無が人間の認識するかぎりでの虚無であり それでしかないと言ってやるくらいですかね。分かりませんが。(人によるであろうから 分かりませんが)。  神は 《神が天地をつくった》と言えるくらいの位置づけにある存在だと言ったほうがよいのでしょうか。

noname#119332
noname#119332
回答No.10

神話的仮説がその時代、文化圏の科学的エトスを代表するか? それとも、ユダヤーキリスト教の存在観の問題なのかはっきりしないですね。 という感想です。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 存在観の問題  ☆ としては じゅうぶんにその――アブラハム以来の――《信仰および実践》の成果を表わしていると思いますね。アブラハムはその心が練りに練られたと思いますよ。その基礎にもとづき アダムとエワあるいはこの天地創造の物語を――その当時得られるだけの情報を活用しつつ――書いたと思います。  その後 この《非思考の場》としての信仰から得られる観想(および実践的命題)を モーセは法学(律法)として明らかにしたことでしょう。  でも イエスのときには――そのあとのパウロをつうじて―― ふたたびのごとく信仰のアブラハムに戻ったという見方もできるはずです。  ★ 神話的仮説がその時代、文化圏の科学的エトスを代表するか?  ☆ 情報ということでは《時代を反映している》でしょうが 科学的――とくに宇宙の生成にかんする自然科学的な――エトスが いまでもかなりいい線を行っていると思われることは どうでしょう 偶然の要素があるかも知れませんね。いえ 調べたわけでも何でもなくそう感じただけですけれど。

noname#122986
noname#122986
回答No.9

bragelonneさん No.8です。 ブラフマンでしょうか。その《宇宙をつくった》というのは ⇒仰る通り、神々を束ねる神、ブラフマンのことです。 《信じる》のは・・・《つくる・つくらない》・・・事実じたいに変わりはないと考えます。 ⇒変わるか変わらないのかわかりません。それを検証するために、一歩踏み出しました。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 〔* 神が宇宙をつくったかどうかによって 宇宙が生成したという事実が〕変わるか変わらないのかわかりません。それを検証するために、一歩踏み出しました。  ☆ まづ つぎのようなご回答でした。  ★★ (回答No.8) ~~~~~~~~~~~  ヒンズー教では、神が半径138億光年以上の空間そして4×10の26乗の星の宇宙をつくったといわれています。  信じるか否かは、個人の自由ということになるのでしょう。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ わたしが言おうとしたことは:   《信じる》のは その宇宙の創造かどうかにはかかわりないのではないか です。誰がつくったかにかかわらず 宇宙の生成というのは 経験事象です。経験事象を《信じる》ということはないと見る立ち場です。  ですから ふたたびかかげてみます。  ☆☆ (No.8お礼欄) ~~~~~~~~~~~  その《宇宙をつくった》というのは そう表現しているということのように捉えますが いかがでしょうかという問いになっています。  言いかえると 《信じる》のは 非思考の場としてこのいま《ブラフマン》という名で呼ばれる神をであるでしょう。《つくる・つくらない》にはかかわりがないのではないか。こういう問いです。どうでしょう。  つまり《宇宙が出来た》と言っても《宇宙を神がつくった》と言っても 非経験の神にとっても経験世界の歴史にとっても 事実じたいに変わりはないと考えます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ どうでしょう? 検証と言っても すべがありますか? 論理的な把握ということに限られるように思います。

noname#122986
noname#122986
回答No.8

   ヒンズー教では、神が半径138億光年以上の空間そして4×10の26乗の星の宇宙をつくったといわれています。  信じるか否かは、個人の自由ということになるのでしょう。   

bragelonne
質問者

お礼

 サットさん ご回答をありがとうございます。  ブラフマンでしょうか。  その《宇宙をつくった》というのは そう表現しているということのように捉えますが いかがでしょうかという問いになっています。  言いかえると 《信じる》のは 非思考の場としてこのいま《ブラフマン》という名で呼ばれる神をであるでしょう。《つくる・つくらない》にはかかわりがないのではないか。こういう問いです。どうでしょう。  つまり《宇宙が出来た》と言っても《宇宙を神がつくった》と言っても 非経験の神にとっても経験世界の歴史にとっても 事実じたいに変わりはないと考えます。

回答No.7

 #6です。    ブラジェロンヌさんの以前の質問に触発されて、そのご質問にお断りと報告をしてして質問を起したら、首狩だといわれたので、今回、やはり大変触発されましたので、今度はここで回答しながらお教えを請いましたが断られました。  ブラジェロンヌさんのこのご質問にも関連あるかと存じますので、報告と紹介をさせていただきます。  http://okwave.jp/qa/q6150667.html  という質問です。ご回答が頂けるかどうか分りませんが、ヒンドゥ聖典の私の勉強に関連しておりまして、お少しでもコメントいただけるとありがたいです。  聖書は無論、聖典は神や不可視、或いは超経験的・超物証的なことを何とか人の言葉とその思考原則で伝えようとするものですので、通常の理屈だけで理解把握していくことがとても困難や誤解をもたらします。  ここのブランジェロンヌさんのご質問もそういうことを配慮しながら読み解く必要があるのかと謹考しています。  聖書の枠を出ることができれば、もっと具体的にブランジェロンヌさんにご参考にしてもらえる投稿もできるのですが。  申し訳ありません。  ブランジェロンヌさんには、必ずしも私の真意が伝わりにくい状況になっているようですが。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~   私達の教えでは、人の経験能力や認識能力、あるいは紡ぎ能力ですね。   そういうものとして機能し、働いている二重性の原理の中の一つ、或いはそういうものの象徴的代表として光と影、とか、夜と昼が表現方法が出されているという見かたをします。   そして更にこれとは異なり、昼はwakeful意識界、つまり創造界の意識であるという象徴ということでもあります。   進歩の人は、この照り輝く仮想の意識界ではなく、もっと根源界に自己を持つということであります。   そして光と闇の境界を地平線として、地平線を見つめることが勧められています。   そういうことからbragelonneさんの創造のご質問に関心を持ったのです。   ともかく私達は境界というもの性格について大きく重点をもちます。     さて、昼と夜、闇と光ですが。   この境界があるとすればなにかというコメントが欲しかったのです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ もし《人の経験能力や認識能力、あるいは紡ぎ能力・・・そういうものの象徴的代表として光と影、とか、夜と昼》が捉えられるとしたら。  もしそうだとしたら 《異物》の問題と重なり たしかに善悪という主題だと考えます。  わたしの善悪を判断する基準は いたって簡単です。  こころの中にやましさを感じるときの意志決定 それは善ではないのだと。自然本性にさからうなら やましさを感じ 顔をあからめ 心に動揺をおぼえる。つまりウソあるいはへそ曲がり これを強行するという意志の判断は 善ではないと。  自然本性とは 宇宙の生成にあたって《良しとされた》ものに共通の性質であり 人間にもそれがあるという捉え方です。  ただしこの自然本性のまま育った場合 そういう場合でもその身体=精神の能力(意志が中軸)がそのままで善だというわけには行かないと考えます。一度はウソをついているはずですから。(人間以外の被造物には このウソをつくという自由意志はないと見ます)。  ゆえに その心に神のおとづれを俟つことになり その神を受け容れたとき善なる自然本性がよみがえると見ます。わたしがわたしであることをよみがえらせます。    この善を傷つけるのは 悪とよばれる或る種の仕方で異物であり 光に対して影ないし闇 昼に対して夜にあたるものと思われます。  《境界》というよりは ですから 意志による判断のあり方だと見ます。心かそれに逆らうかだと。  ほかにも見方があるかも知れません。分かりません。わたしの関心と見方は このようになります。

回答No.6

 #4 馬鹿らしいからほうっておいてもいいが、悉くひていしているのでなく、このサイトで遊ぶということはしていません。  よく読んでくれれば、わたしがブラジェロンさんに回答しているのであることが分ってくれるはずだし、このサイトでの論議の仕方に批判をしているが、これは否定とは違う。  【わたしの提示した趣旨説明および初めから三つの回答への応答 これらで明らかにした考え方が  ★ 世界は機械でオートマティックにがたんごっとんとなんとはなしにできてきている  ☆ ものだとは思ってもいません。理解なさっていないと見なします。】  ということは全く牽強付会もいいところで、文章を途中でぶった切りながら、勝手につぎはぎしている。  よく読んで趣旨をご理解されたい。    ここで#4のような書き込み投稿をしたのは、先にブランジェさんの投稿を自分なりに広げて質問をお越し、ブランジェさんの質問の解答欄にご報告したところ、首狩だとかなんとか言われたので、そういうことのないように、ここで一緒に質問をさせてもらったのです。  なお#4の私の書き込みを、ご理解されていないようですので、これはある意味でよかったと存じます。  実はあの部分は人間と宗教に関する私の所感を、拙く披瀝してありますが、あまりまた取り込まれて自己オリジナルのようにまた使われるのは困りますから。  まぁ自己オリジナルとしてきちんと受け取り、使ってくれるならいいのですが、誤解釈で一部を歪曲して使われるのはいやな気分ですから。  一定のときに私はみなさまのお教えをお願いする質問を起します。  どうぞよろしく。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  私が確認を求めていますのは、修行と訪れでなく、創造した結果の宇宙をブラフマンが含んでいるというご説明のことなのです。  ブラフマが創造した宇宙はブラフマンと同質なのか、一体なのか。  同じものなのか?ということでした。それとも、修行の成就や訪れ前の私達や、創造界自体、或いは創造界の様々なものはブラフマンには異物なのか、という質問でした。いかがでしょうか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 宇宙の生成について ブラフマンが見守っているという説明も仮りの表現ですが ブラフマーが創造したというのもさらに――分かりやすくしているかとも思いますが―― そこから派生したあくまで仮りに説明する表現だと考えます。  ですから《宇宙はブラフマンと同質なのか 一体なのか》については 基本は《ブラフマンは生成する宇宙を超えており言うなれば見守っている》だと考えます。《超えているブラフマンの側から その宇宙と一体であると言えなくはない》でしょう。《同質》かは 同質である部分もあるのかも知れません。たぶん次元が違うとは見ます。  《異物》は 第一にそれがあるとすればそれをもブラフマンは覆いつつんでいるはずです。蚊や蝿ですら創世記で《神が良しとした》被造物に入るという見方もあります。  異物がもしあるとしたら 人間にとってであるかも知れません。となると まったく収拾のつかない主観だけの見方にもなります。  ただいわゆる善悪だけは その悪がブラフマンの心〔を体した人間の心〕にさからって人間がその自由意志によってつくったものであり そのときにはこの自由意志はブラフマンによって与えられていたのであるからには ブラフマンにとっても問題になると考えられます。  つまり 基本はそれをも覆いつつんでいますが 悪はブラフマンにさからうことにより現われたからには ブラフマンにとっても異物である部分を持つと考えることができるかと思います。

noname#131234
noname#131234
回答No.5

教義的な間違えとおぢぢ様の個人的間違えは、見過ごすことが出来ないことです。 基本中の基本として、前提が間違っているのにその前提にしがみつき、 何かを説明しようとすることで更に間違いが広がります。 創世記は善良な視点で見たとしても、あくまで、云い様であって、本気で信じるべきものではありません。 そういう伝説があるという視点で捉えるべきであるということです。 信仰の対象ではありえません。 I)時・場所は、学問的に見て存在しないのに、誰かが創造したと主張するのは誤謬です。 学問的には、時・場所ともに存在しません。存在しないものを創りあげたと主張し「始める」ことが、 基本的「トリック」です。 この世が物語的に存在しないのであるなら、 創世も言いたい放題の内容を展開できる。 主観的なものは、創造されたものではありません。「神の創造」自体が相対的なものであるがゆえに、 信用・信仰という点から見ると、 偶像崇拝に近いものとしての信仰という道しか残されていないのです。 基礎付けとしては、イエス以外の救世主(キリスト)は存在しないという考え方です。 「ゆいいつ」という信仰自体にも根拠がない。棒読みに対する妄信はいつでもどこでもできますが、 教義も万全ではないおぢぢサマの想定を万人に当てはめようとすることには、無理があります。 お気をつけください。 II) mente ...(sed) contemlpareについて、 アウグスティヌスを読み間違えている翻訳者の言葉をに依拠しながら、 おぢぢさまは、「mente contemplare (de trinitate XV,25,46)」は、わたしの霊による観照であるといって べそをかき それ以外の教示・訂正事例をききつけません。 この観照は「神の霊の観照」です。ラテン語欠点をつけられてもまだ「おいらの考えは正しい」と 云い続けているだけではないでしょうか? 結論は出ているようですがごまかさないでください。 III) 経営学者の自己弁護として、この世の中は、物理的傲慢であり、すべては悪である:老いも若いも/貧富の差も、おいらの哲学を受け入れない限り、ダメ=元気がないということです。 無思考の神への信仰以外は、悪とすることで、善悪2元論を展開しているのに、自分は2元論者ではないと主張するのはなぜですか? 結局、金持ちも・老人も不幸である!自分(社会のダニ)を認めろ!ということではないのでしょうか? お上も民衆もないといいたいだけのようです。 悪人も(その人がおかみでないのであれば)善人であると主張なさっているのと同じですよ。

bragelonne
質問者

お礼

 お早う。  ★ II 「mente contemplare (de trinitate XV,25・45)」 ・・・この観照は「神の霊の観照」です。  ☆ そうですよ。ただ これの外延を取って《ひらめき》にも当てはめたというだけのことです。  ★ III この世の中は、物理的傲慢であり  ☆ 意味が取れない。モノやカネに群がりカネを持つ者は何でも欲しいものは手に入れられると思っているようだといった分析のことでしょうか? そういう分析を口にしたおぼえはないなぁ。その事実じたいには関心はない。    ★ すべては悪である  ☆ 【Q:悪は存在しない。その名で呼ぶ現象があるのみだ】と主張しています。ええ加減なことを言いやがって。  ★ 老いも若いも/貧富の差も、おいらの哲学を受け入れない限り、ダメ=元気がないということです。  ☆ 人びとそれぞれの生活態度を だいたいにおいてその基礎にかんして おいらの哲学は表現しているというふうには言える。  ★ 結局、金持ちも・老人も不幸である!   ☆ 幸不幸は その人の問題。  ★ 自分(社会のダニ)を認めろ!ということではないのでしょうか?  ☆ たしかに夏は ふとんをじゅうぶん干してもなお湧いてくるダニ。わたしにとってのあんたのようだ。  ここまで来て あほらしくなった。

回答No.4

 既回答とは違いますが、・・・  私もbragelonneさんのご質問に答える事はできません。  見解はないのですが、やはり(当時の)人間に説明となるように、人間界の思考やことばに沿って語られているのだと存じます。  そして教え、宗教のための書ですから、その見解とその目的で書かれているのでしょう。  宗教はいつの時代も現状のままを是認できないことがあり、人間の宗教心と向上を教えます。  世界は機械でオートマティックにがたんごっとんとなんとはなしにできてきているのではなく、神の意図でその意志で作られてきたのであるというお話の突端だということを感じます。  それをどう表現するかですが、やはり人間のことばと思考の形式しかなかったし、ないのだと存じます。  そういう神の意図ということ、そして意志と目的ということを強調しているように思えます。  そういう願い、次元から解釈するか、#1さんや#2.3さんのように外部から見るかの問題でしょう。  ところで、bragelonneさんのご見解をご提示賜りたいことが二点あります。  1. 光のある昼と、光のない夜とはbragelonneさんは具体的にそれぞれが何を指示しているのでしょう?  2. 光のある昼と、光のない夜の境は朝と夕べということにつきますか?    この境、境界がどんなものか、朝と夕べという言葉でなく、教えてください。      或いは皆さんにbragelonneさんのご質問に加えて更に教えてもらいたいことです。

bragelonne
質問者

お礼

 わたしの提示した趣旨説明および初めから三つの回答への応答 これらで明らかにした考え方が  ★ 世界は機械でオートマティックにがたんごっとんとなんとはなしにできてきている  ☆ ものだとは思ってもいません。理解なさっていないと見なします。

bragelonne
質問者

補足

 質問者の言っていることをことごとく否認する回答者からの補足要求を受けて 答える気は起こりません。それは ふつうに認められる人間としての対応だと考えます。

  • temtem1
  • ベストアンサー率40% (106/260)
回答No.3

>>だったら その神は人工のもので おそらくまやかしであるでしょう。要らないはずです。  なぜ《神を信じる・信じない》というようないさかいが今なおつづいているのでしょう?  われわれ人間は それほど阿呆なのでしょうか? こちらに回答するのを忘れておりましたね。 私の見解ですが、宗教というのはさっき言った通り、実利が絡むものです。 ようはお金や権力です。 聖書なんて世界中で売れてるでしょ。 これだけでも相当の利益ですよ。 ここまで言えばお分かりでしょう。 金が絡めば既得権益を求めて争いも起こります。 神様云々だけでは戦争は起きませんよ。所詮神様なんて紙様にすぎないんですから。 宗教は莫大な利益を生むエンターテイメント事業です。 なのでその事業の利権を求めて争いが起きます。 なのでその際、聖書なり経典なりの中身の分析はあまり意味がありませんね。 戦争の理由を拳銃の科学的分析に求めてもしょうがないでしょう? 自分で宗教を開くための参考にするのならともかく。

bragelonne
質問者

お礼

 つづいてです。  わたしのお応えも同じようになります。  ★ ここまで言えばお分かりでしょう。 / 金が絡めば既得権益を求めて争いも起こります。  ☆ なぜ《既得権益》がいまだに続いているのか? こういう問いです。  ★ 聖書なんて世界中で売れてるでしょ。  ☆ なぜ売れるのでしょう? そんな《実利》だけを生む宗教団体だけの教典であるならば あほらしくて買わないでしょう。それともいわゆるキリスト教という権力に 人びとは屈しているというのでしょうか? なにゆえに?  ★ 宗教は莫大な利益を生むエンターテイメント事業です。 / なのでその事業の利権を求めて争いが起きます。  ☆ なぜその活動だけの問題であるのならば 人びとはそこに群がるのか? 細かいことを言えば なぜ課税で優遇される公益法人として扱われるのか?  人びとが群がるのは その組織のたくみな勧誘その他の活動にだまされ食い物にされるだけであったのなら 社会問題になってしかるべきです。直前のやり取りで触れましたが わづかにその教義は もともとは個人の信仰から得られた観想や実践的命題だったそのことの意義を基礎としているからではないでしょうか?  宗教の教義は ところが個人の信仰より得られた観想や観照を文字化し規範化したものです。《わたしの心の窓をおとづれた神とのかかわりにおいてわたしはわたしであることが成った。そのわたしは おのれの能力を超えて無理にまでむさぼることはしない》という理論を得た。これを《むさぼるなかれ》という戒律として規範化して教義とするのは 組織宗教です。   《エンタテインメント事業》を超えた始原のいのちが もともとは あるはずです。  ★ なのでその際、聖書なり経典なりの中身の分析はあまり意味がありませんね。  ☆ というときの《その際》というのは あくまで組織化した宗教として活動する際なのではないでしょうか?  ★ 戦争の理由を拳銃の科学的分析に求めてもしょうがないでしょう?  ☆ ひとりの人間・その《わたし》を たとえ集団にうずもれていたとしても 取り出し取り上げこれを顕揚しなければなりません。そこには むさぼるように戦争を起こすといったひとりの人はいないでしょう。それが 反対に出てくるのは 《神が天地をつくった》を文字どおりにしか読むことが出来ないという哲学の貧困に原因があるのではないか? こういう問いです。どうでしょう?

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     神が天地をつくったのか  ◆(α)  そう表現したに過ぎないとなぜ言わないのか?  すべては表現のもんだいであるとなぜ見ないのか?   ▲ (創世記1:1-5) ~~~~~   1.初めに、神は天地を創造した。   2.地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。   3.神は言った。     ――光あれ。    こうして、光があった。   4.神は光を見て、良しとした。神は光と闇を分け、   5.光を昼と呼び、闇を夜と呼んだ。夕べがあり、朝があった。第一の日である。   ~~~~~~~~~  ◆(β)  《光あれ》と神が その文字どおりに 《言った》のか?   んなわけはない。時空間を超えている〔敢えて擬人法で言えば〕存在にとって 《初めに》とか《つくる》といった時間的行為がどうして必要なものか。なじまない。  ◆(γ)  光が《ある・ない》 つまり 《なかった状態からある状態に移る》ことは 時間的・経験的・相対的な現象である。  経験世界を超えている神にとって 質料(物質)の運動はその自己運動にまかせるはずである。モノの動きは 或る意味で 神としても手に負えない。(やたら奇蹟を起こすわけには行かない)。  人としても モノはその自己運動にしたがってうごいていただくように加工し誘導するよりほかない。  そもそも手に負えないことを知ることをとおしても その存在や性質を知るようになる。  あるいは 相手をうやまってこそ 人はおのれの自由を手にすることが出来る。  という当たり前のことを 神の物語――人間にとって非思考の場をわざわざ人間の言葉で表わしたもの――はかたっているのではないか。  《神が創造主である。〔よって 経験世界そして特にヒトは 被造物である〕》という表現は そういうふうに人間にとって手に負えない不自由なこととそして〔悲願としての〕自由とについての哲学をかたっている。に過ぎないのではないか?  ◆(δ)  もしこの非思考の場にわづかにでも 《のぞみ》があるとするならば それは   ▲ 5.・・・夕べがあり、朝があった。第一の日である。  と書かれたところである。その後も《第二の日》から《第六の日》まで同じ表現で書かれている。   ▲ ゆうべがあり あさがあった。  と。《光を昼と呼び、闇を夜と呼んだ》ところの《夜》は世界において現象しているにもかかわらず 人は《ゆうべがあ》ってから その夜へはじつは渡されることなく そうではなく すこやかな眠りを経て《あさがあった》と知る。  その自然本性〔の動態〕において人は 夜へは渡されないというのである。   ▲ 2.地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。  のである。《聖なる〈あまえ〉》〔としての すこやかなねむり〕。  以上の主題をめぐって 忌憚のないご見解をおしめしください。

  •  創世記第一章(第一節~第五節)についてご造詣の深い質問(神が天地をつ

     創世記第一章(第一節~第五節)についてご造詣の深い質問(神が天地をつくったのか)がこの哲学カテにでました。  聖書の勉強をしたことがないので、教えてください。  http://ja.wikisource.org/wiki/%E5%89%B5%E4%B8%96%E8%A8%98(%E5%8F%A3%E8%AA%9E%E8%A8%B3)より。  1:1 はじめに神は天と地とを創造された。  1:2 地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。  1:3 神は「光あれ」と言われた。すると光があった。  1:4 神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。  1:5 神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第一日である。 (質問)  1. この創造のときに神は存在していたのですか?どこに存在していたのですか?  2. 光がないときをやみと指しているようですが、光の出現の前にあったのであればそれは、光よりも神に近いものであり、光よりも本源的だといえませんか?  3. 光とは可視光線ですか?可視不可視を含めた光線ですか?やみとはそういう可視不可視の光線もないという事ですか?(可視光線もものに反射してから見えます。反射しないと見えません。反射しない状況を私たちは闇といいます。ここでいうやみはそういう闇ではないのですね?)  4. 神は光を為し、それとやみとを区分したかのようです。  仮に区分したのであるなら、その境界は何なのでしょうか?夜と昼との間、朝と夕べでしょうか?  5. そしてそのどちらに神はいるのですか?境界にいるのですか?

  • 絶対無=不確定性無限 か?

     1. 《絶対》は 相対的な存在である人間の言葉で 絶対無と言っても絶対有と言っても いづれも 経験世界を超えている。つまり 非経験の場であり そのように想定するものである。  2. しかるに 《不確定性無限》は 人間のおこなう確定作業つまりは 不確定の確認作業をつうじて認識するものごとであるゆえ 経験世界に属する。  3. よって 表題の等号は 成立し得ない。両者は 互いに次元が違う。  これを 問います。  表題の示す命題は 次の文章から引いたものです。  ◆(【Q:《宇宙は 自己の補完である》とはどういう意味か?】回答No.4) ~~~   http://okwave.jp/qa/q8207934.html  (*全ての存在は、量子的な不確定性=確率波動性に基づいており  無限につめ込むと存在確率の山が平らになって、無と等しくなります。  この「絶対無=不確定性無限」において、  その無限の闇に認識体の仮定断面の運動を想定すれば、  相対的に無の風は光になり、  認識体はその光(量子相互作用パターン)の向うに  自己の補完(相補的不確定性)としての宇宙を認識するのです)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~    この文章についても 問います。  4. ★ 無限の闇に認識体の仮定断面の運動を想定すれば、相対的に無の風は光になり  ☆ これは 闇の世界において《無い神》が 光あれ! と言ったら 光があったと言うのと どう違うか?  次のような文脈です。:  ▲ (創世記  1:1~5) ~~~~~~~~~  1: 初めに、神は天地を創造された。  2: 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。  3: 神は言われた。「光あれ。」 こうして、光があった。  4: 神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、  5: 光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  5. あるいはつまり  ◆ 認識体はその光(量子相互作用パターン)の向うに 自己の補完(相補的不確定性)としての宇宙を認識するのです。  ☆ というとき ひとつに 経験世界としての《宇宙》を認識しても 始まらない。相対的なものごとについての堂々巡りに終わる。ゆえにつまりは 次のような解釈に替えられ得るのではないか。  ○ 《光と闇 昼と夜》の向こうに 相対性としての人間存在を補完するもの・すなわち《絶対》をひとは むしろわが心なる《非思考の庭》の内に たとえばヒラメキをとおして 知覚する。もしくは 予感する。  6. それ・つまりヒラメキにおいて予感しうる何ものかが 《無い神》である。むろん《有る神》と言っても同じである。また いろんな名で呼ぼうと 関係なく それらはすべて 全体として同じひとつの神である。  7. ただしこのような《相対存在が 絶対によって補完されること》は 《相補性》ではない。神のほうから 一方的に 補完してくれるのである。相対と絶対とであることを思うべきである。  8. これらすべては 想定による物語である。ワタシの主観の内なる動態過程において 動態過程として ある。  9. けれどもこの物語としての仮説理論は それによって 神についてのマチガイを質すことができる。《神は 何でないか?》を明らかにして示すことができる。たとえば 経験世界のものごとではない。  10. そして それだけでじゅうぶんである。  11. おまけとしては ヒラメキをつうじて神――真理――の予感が得られれば そこから 経験科学としての知恵や知識に通じるイメージの知覚をすでに得ている。  忌憚のない自由なご見解において ご批判をお寄せください。

  • イエスなる人間は 自分が神であると大嘘をついた。

     (1) イエスなる人間は 自分が神であると大嘘をついた。  (2) その虚構は 人類史上最大の哲学となった。  (3) 神であり人である人間が 十字架上にはりつけとなった。  (4) ゆえにイエスは 人びとに光を見させた。  (5) 光を見させただけではなく みづからが光であることを示した。  (6) いやいや それだけにとどまらずさらには 人びとにおのおのみづからの心の燈心に火がともるようにさせた。  (7) この虚構のからくりは 次のようである。   (α) イエスは磔にされたまま 人間として去って行った。その意味は もし神として十字架から降りて来ていたなら それは神の力による奇蹟であろう。だから そんなことは 人間には出来ないと人びとは思ってしまう。   (β)  けれども人間としてだけではなく 神として去った。その意味は もし人間としてだけならば それは単なるひとりの殊勝なしかも目立ちたがり屋の人間がやったことだ。で済んでしまう。   (γ) つまりその見させる光は ただ道徳や信念やあるいは科学としての光に終わってしまう。   (δ) あるいは ひとりの奇特なやからの一編のパーフォーマンス(芸術作品)だと見なされて終わってしまう。   (ε) すなわち確かに闇を照らす理性の光あるいは感性の輝きとして世界を明るくしたかも知れないが そこまでである。闇そのものを晴らすことは出来ない。   (ζ) われらが心の底なる深い闇そのものに光をあて照らしただけではなく イエスはみづからがキリストなる神として わが心の燈心に火をともすことを成した。   (η) それは 人間にできることではない。神・その霊のみがよく成し得る。と示した。   (θ) しかもこれらすべては 大ウソである。一編の虚構である。   (ι) この虚構が 虚構ゆえにも 世界史上ただひとつの特異点であり核反応である。    この哲学を問います。よろしくどうぞ。

  • イエスという人間は 自分が神であると大嘘をついた。

     (1) イエスなる人間は 自分が神であると大嘘をついた。  (2) その虚構は 人類史上最大の哲学となった。  (3) 神であり人である人間が 十字架上にはりつけとなった。  (4) ゆえにイエスは 人びとに光を見させた。  (5) 光を見させただけではなく みづからが光であることを示した。  (6) いやいや それだけにとどまらずさらには 人びとにおのおのみづからの心の燈心に火がともるようにさせた。  (7) この虚構のからくりは 次のようである。   (α) イエスは磔にされたまま 人間として去って行った。その意味は もし神として十字架から降りて来ていたなら それは神の力による奇蹟であろう。だから そんなことは 人間には出来ないと人びとは思ってしまう。   (β)  けれども人間としてだけではなく 神として去った。その意味は もし人間としてだけならば それは単なるひとりの殊勝なしかも目立ちたがり屋の人間がやったことだ。で済んでしまう。   (γ) つまりその見させる光は ただ道徳や信念やあるいは医学や科学としての光に終わってしまう。   (δ) あるいは ひとりの奇特なやからの一編のパーフォーマンス(芸術作品)だと見なされて終わってしまう。   (ε) すなわち確かに闇を照らす理性の光あるいは感性の輝きとして世界を明るくしたかも知れないが そこまでである。闇そのものを晴らすことは出来ない。   (ζ) われらが心の底なる深い闇そのものに光をあて照らしただけではなく イエスはみづからがキリストなる神として わが心の燈心に火をともすことを成した。   (η) それは 人間にできることではない。神・その霊のみがよく成し得る。と示した。   (θ) しかもこれらすべては 大ウソである。一編の虚構である。   (ι) この虚構が 虚構ゆえにも 世界史上ただひとつの特異点であり核反応である。    この哲学を問います。よろしくどうぞ。

  • 我が神について語ってしんぜよう。

    私は仏と言う言葉を現代語に直すと人間と言う言葉だと思っていてな。 天啓のごとく悟った人間と言う言葉のそのような尊さを信じ、人と人が信じあう事こそ信仰だと考えていた。 多くの人々はひとを信じようとしない。 したがってこのように歩む道のりは困難であった。 しかし最も深い闇において、それでも信じると心が固まった時、光が舞い降りた。 仏教で言う無量光である。 それは神について知ろうとしなかった私にとって、神と名をつけることすらできない、無垢で純粋な光であった。 しかし私はその光と通じる事によって、私の方から、あえてその光をアマテラスと呼ぶ事を選んだ。 その光は本来、名も無き光であり、神と言う言葉すらも遠ざけるその無垢さが、すなわち無神論と言う信仰の在り方である。 以上は仏を信じ神を信じないとはおおむねこのような論理であると考えて構成しました。 このような哲学はキリスト教に由来した西洋の哲学とは別に、地に足の付いた哲学をしようと志していまして、宗教的な話とは違う趣旨手ご質問差し上げています。 信仰心を明晰な理性のまな板の上で料理するとするとあなたならどのような考えが浮かびますか

  • 大昔は夜が1日のスタートだった。だから夕べのことは

    大昔は夜が1日のスタートだった。だから夕べのことは昨夜と書いて昨日の夜を指すって、、、 昨夜が昨日の夜と1日のスタートが夜だったって繋がりが一切ないのでは? 昔の人は夕飯を神と一緒に食べた。神は昼間は天に登って人間の手に届かないときにいるが、夜になると地上に降りてくるとされ、地上に神が降りて来たときに一緒に食事をした夕食が1日のスタートの最初の食事だった。 だから、夕食が1日で1番食べていた。 だけど、、夕食を1日のスタートだったと認めたとして、1日のスタート直後に寝るのはおかしくないですか? やっぱり大昔も朝が1日のスタートだったと思うんですけど。

  • 神は 何でないか?

     神を想定する手続きについて述べつつ 神は何でないかを次のように明らかにした文章をたたき台とします。  批判・修正・評言などなど 自由なご見解をお示しくださればありがたいです。  1. じんるいは それぞれの言語に分かれてではあるが どこでも《信じる》ということばを持つことになった。またその対象は 言葉として広く言えば《かみ》である。  2. この《信じる》という言語習慣は 科学万能と見られる時代になっても消えないで残っており じっさい使われている。  3. では ならば この《信じる》という概念を定義せよ。  4. もし固有の意味がある概念だとすれば それは 《かみ》を 人間の能力によって分かるか分からないかが分からない非経験の領域に想定する場合であり その場合のみである。  5. ということは 非経験だとすれば 精神の作用にとっては 思考の場ではなく 非思考の場であるとなる。言いかえると 神は 人間の精神ではない。  6. 精神を超えたところの非経験の場が 人間の精神(つまり 身と心)に接している。ないしそれをつらぬいている。この非経験の場が 非思考の庭となるかのごとく人は 神のおとづれを聞いたという場合が起きる。これをそのまま受け取ったというその行為を《信じる》と名づける。むろん 主観の問題として言っていることである。  7. その神をさらに細かく《存在する神》として受け容れたなら 有神論としての信仰になり そうではなく 《無い神》として受け容れたなら 無神論としての信仰となる。  8. どちらも互いに同等の《信じる》行為である。非思考の場のナゾを 思考の場でその《有る・無い》という概念で仮りに代理として受けたかたちが そのまま二つに分かれて現われただけのことである。非思考の場は 経験事象としての有る・無いを超えている。  9. 有神論の神は さらにわざわざ名前がつけられる。ヤハヱー クリストス ブラフマン アミターユス マハーワ゛イローチャナ等々。どの名前をつけようが・そして《無い神》と称しようが 神はすべて同一である。  10. 特定の名前をつけた神について その説明やらあるいは信仰者の神体験などなどやらとして たしかに《物語》が語り出されてくる。  11. むろん物語も 神についての仮りのしるし(つまり人間のことば)を用いての代理表現として編まれている。その文字どおりを神と採ってはならない。文字は殺し 霊は生かす。  《神》という言葉じたいも ただの代理物であり 仮りの表現である。  12. 《むさぼるなかれ》という戒めを そのまま神だとすることは いただけない。文字は殺し 霊は生かす。物語も同様である。言葉・文字をとおして表現されたものは すべて思考の場に降りて来ている。この仮りの代理の場をとおして 非思考の場を望み見なければならない。その展望の茶店は わが心に成った非思考の庭である。  13. だから《おしえ》は 思考の場に属しており それが非思考の場の神だということはあり得ない。なのに教義を信じるという言い方をする間違いが見られる。    14.エトセトラ。エトセトラ。  15. まとめて 神は何でないか?   A. 神は 人間の精神ではない。   ――精神だとすれば 精神を持つ人間がそのまま 神であることになる。   B. 神は 宗教ではない。宗教を信じるという表現は まちがいである。   ――宗教とは 教祖・教義・教団を前提とするゆえ 人間の能力にかかわ    っている。これを・つまりは要するに人間の存在および能力のすぐれたと    ころを けっきょくは《信じる》というおかしなこととなる。     つまり A. 神は 人間の精神ではないと言わねばならない。

  • 普遍神を名づけた個別神をめぐる主観は 特殊絶対性

     1. 神はすべて 同じひとつの普遍神である。これは 一般絶対性とよぶ。  2. 一般絶対性なる普遍神を 個別に名をつけて――あるいは 名などはなく神も無いのだと見て――主観がえらんだ神は 個別絶対性である。  3. すなわち 《無い神》または《有る神:オホモノヌシ;ブラフマン;ヤハヱ―;アッラーフなどなど》。  4. ブラフマン(梵)なる神は わが自然本性なるアートマン(霊我)と一体である――すなわち 梵我一如――と忖度するのは 特殊絶対性の始まり。  5. ただし アン-アートマン(無‐霊我:無我・非我)を唱える場合にも その元に言わば無梵(ア‐ブラフマン)なる《無い神》をかかげ そのようなマクロコスモス( 宇宙)とミクロコスモス(人)との一体を言うようであるから――つまり《無い神》派にあっても―― 類型としての梵我一如は 共通なようである。  6. アミターバ・ブッダなる《有る神》の場合は 主観が アートマン(霊我)の代わりに ブッダター(仏性)なる霊において呼応する。すなわち 仏仏一如なる梵我一如パタンである。  7. つまりここまでは 類型としての梵我一如が なお《一般絶対性=個別絶対性》のもとに その基礎となり基本となっている。  8. そこから主観はさらに 神についておのが思いを描き出す。  9. 神は われと――信仰なる《非思考の庭》としてだけではなく――思考においても・また感性にあっても つながっている・・・といったように 主観が 飛んで行く。これが 特殊絶対性である。  10. おれはきのうの夜 神を見たんだと言うのも ひとつの特殊絶対性である。そんなわけねえよと応じるのも 同じく特殊絶対性。なぜなら どちらも 証明できない。(だから 絶対性ないし神と呼んでいる)。  11. この理論で――つまり 添削をお願いしさらに実践理論を展開して行って欲しいのですが・それが 質問ですが――おおよそ世界に起きている《神をめぐる心的現象》のすべてについて 理解の基礎としての糸口を明らかにできるのではないでしょうか。  なお 次の趣旨説明欄をも参照ください。  【Q:一般および個別絶対性理論 ならびに特殊絶対性仮説】  https://okwave.jp/qa/q9358717.html

  • イエスなる人間は 自分が神であると大嘘をついた。

     (1) イエスなる人間は 自分が神であると大嘘をついた。  (2) その虚構は 人類史上最大の哲学となった。  (3) 神であり同時に人である人間が 十字架上にはりつけとなった。  (4) ゆえにイエスは 人びとに光を見させた。  (5) 光を見させただけではなく みづからが光であることを示した。  (6) いやいや それだけにとどまらずさらには 人びとにおのおのみづからの心の燈心に火がともるようにさせた。  (7) この虚構のからくりは 次のようである。   (α) イエスは磔にされたまま 人間として去って行った。その意味は もし神として十字架から降りて来ていたなら それは神の力による奇蹟であろう。だから そんなことは 人間には出来ないと人びとは思ってしまう。   (β)  けれども人間としてだけではなく 神として去った。その意味は もし人間としてだけならば それは単なるひとりの殊勝なしかも目立ちたがり屋の人間がやったことだ。で済んでしまう。   (γ) つまりその見させる光は ただ道徳や信念やあるいは科学としての光に終わってしまう。経験事象としての光やそれを本質的に見させる光――おおむね 理性ないし精神――であるだけで終わってしまう。   (δ) あるいは ひとりの奇特なやからの一編のパーフォーマンス(芸術作品)だと見なされて終わってしまう。   (ε) すなわち確かに闇を照らす理性の光あるいは感性の輝きとして世界を明るくしたかも知れないが そこまでである。闇そのものを晴らすことは出来ない。   (ζ) われらが心の底なる深い闇そのものに光をあてこれを照らしただけではなく イエスはみづからがキリストなる神として わが心の燈心に火をともすことを成した。   (η) それは 人間にできることではない。神・その聖霊のみがよく成し得る。と示した。   (θ) しかもこれらすべては 大ウソである。一編の虚構である。   (ι) この虚構が 虚構ゆえにも 世界史上ただひとつの特異点であり核反応である。    この哲学を問います。よろしくどうぞ。  そうして この質問はいちど問うています。それでもなお問いたいというそのわけは こうです。     (κ) もし虚構ではなく まさしく歴史事実であるとした場合 あるいはその史実を捉えた人間の心の真実であるとした場合 そうだとすると いづれの場合でもその事実認識や心の真実として イエス・キリストというコトが 人間の思考によって規定されてしまわないか? 神は 人間の思考によって捉えられうるか? 経験合理性の知識体系の中におさまるものであるのか?   という問いをつけ加えたいからです。よろしくどうぞ。