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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:われらがあたらしい哲学へ)

われらがあたらしい哲学へ

このQ&Aのポイント
  • 近代人と中世人との対比ではなく、古代人の持った人間観を省みることが必要ではないか。
  • 哲学は科学をどのように取り扱うかを問い求め続ける。
  • 西欧の哲学は「S-A連関」の全体を扱わない傾向がある。

質問者が選んだベストアンサー

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  • a_hona
  • ベストアンサー率21% (95/444)
回答No.3

以前、TVで、トラックの運ちゃんが、道について哲学的な事を話しているVTRがありました。内容は忘れましたが、生きた言葉としてとてもユーモアがあったように記憶しています。そんな風に、一生活シーンからこぼれ出てくる一種普遍性をともなった人生の金言は、聴いた人を笑顔にすると思います。 ともすれば人々を悩ませがちな学術としての哲学とは違った表情があり、私は好ましく感じました。 私は、生活言語と、学術言語は、対立するものでは無く、凡そ適性によって生じる偏りなのではないかと思います。生活言語に向いた人、学術言語に向いた人、バランスのとれた人、などがいるのであって、どの言語を使うべきかというべき論では規定できない性分というものの範疇に入るのではないでしょうか。 学術言語は形式を重んじ、生活言語は自由を重んじる。それぞれは違いだけがあって優劣の存する間柄ではないのでは無いか、私はそのように考えました。 自由な生活言語による哲学は、新しいのでは無く、ずっと続いて来たものなのだと私は思いました。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。    ★ 自由な生活言語による哲学は、新しいのでは無く、ずっと続いて来たものなのだと私は思いました。  ☆ という見方が出来るなら その見方もあたらしいのだと思われますが その哲学の内容は すばらしいものであるはずです。  そんなものは無いではないかと疑うのではなく さりとて すでにこれこれこういうもの(思想でしょうか)があって それは 歴史的にあれそれの流れの中にある。安心出来ますよ じゅうぶんですよ。とまでは まだ言えないのではないか?  思想は 生活態度だと捉えていますし この思想について いろんな場合の可能性を加味しその上で広く理論化すれば りっぱな哲学である。とも考えます。考えますが まだない。かまたは すでにあっても 見つかってはいない。――のではないでしょうか。  ということは あたらしい哲学を模索してかたちづくって行くときにも せいぜいこれまでの歴史の中から そういった生活哲学――《自由な生活言語による哲学》――を拾い上げて行きたいというふうに感じます。  ★ 私は、生活言語と、学術言語は、対立するものでは無く、凡そ適性によって生じる偏りなのではないかと思います。生活言語に向いた人、学術言語に向いた人、バランスのとれた人、などがいるのであって、どの言語を使うべきかというべき論では規定できない性分というものの範疇に入るのではないでしょうか。  ☆ 微妙な違いを それでも述べることをおゆるしください。  学術言語は これは 学問としてなら そのままで十分ですが 哲学としては・つまりあたらしい哲学としては それだけでは やはり普遍性のある要素のみで構成した理論にとどまっていますから 不十分だと見ています。  生活言語は いま上で捉えて来たようにすでに一般性のある思想となっていてそこに幅広い可能性の問題を加味して理論化すれば それだけで さほど困ることもない。とは考えます。  でも一般には 普遍化は ほとんどしていない。そういう状態にある言語だと見られます。  ですから――次のように総合して哲学を形成するのは おかしいのかをおしえて欲しいのですが―― やはり両方をまとめて基礎としつつその成果ともしつつ 打ち出していくかたち。これに成るのではないかとは思っています。  《生活言語 - 学術言語》の総合的な基礎に立つ理論  といったところでしょうか。  ツッコミをよろしくどうぞ。

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その他の回答 (11)

回答No.1

こんにちは。 ☆近代人と中世人との対比ではなく 単純に《ふつうの人》をあつかっていた古代人の持った人間観を省みることが必要ではないか。 ◇古代における哲学は、《ふつうの人》を対象にするのではなく、知的に優れた、知的エリートを対象にしていたものであり、この知的エリートと形容すべき人のための学問であったのではないか。 そして、古代ギリシアに淵源を発するとされる西洋の哲学は、その歴史の中で、こうした姿勢を取りつづけてきたのではないか。 哲学はその長い歴史の中で一度たりとも《ふつうの人》に眼差しを向けることはなかったし───向けられることがあるとすれば、侮蔑の眼差しであった───、《ふつうの人》を顧みなかったのではないか、 という批判を提示しておきます。 哲学が学問であるためには、そこで使われる概念や用語の正確な定義をせざるを得なかったにしても、 哲学で語られる人は、ごく一部の知的エリートであり、圧倒的多数の市井の《ふつうの人》ではなかった。 《ふつうの人》を対象にすることもなければ、《ふつうの人》に語りかけるものではなかった。 この意味において、哲学は人間性を有していない、人間(性)を放棄している、排除している、と断罪されても仕方ないのではないか。 bragelonneさんの言葉を使うならば、 哲学こそアマテラス・普遍語の権化であり、非人間的なものであった。 論理学や数学はその構造上、天から地に降りることはできないし、降りるべきでもないが、 人文学の多くの学問の基礎となる哲学こそ、まず、その思い上がりを放棄し、天上がった二階から一階へと降りるべきなのではないか。 でなければ、 哲学は、限られた知的エリート、一部の知的アマテラス人の占有物であり、《ふつうの人》のものにならない。哲学は、《ふつうの人》から離れた、そして、宗教以上に《ふつうの人》からもっとも縁遠い学問のままでありつづけるのであろう。 哲学が、《ふつうの人》をあつかうのであれば、《ふつうの人》の学であることを欲するのであれば、 まずもって、《エートス》や《ロゴス》の学問としてではなく、《ふつうの人》の《パトス》の学でなければならないのではなかろうか。 知的エリートの理性ではなく、スサノヲ村の最も素朴で自然な感性に基づくものでなければならないのではないか。 頭でっかちで、歪(いびつ)な、そして萎縮した「知的エリート、《非・ふつうの人》の《パトス》」じゃ~、話にならない。

bragelonne
質問者

お礼

 こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ◇ 古代における哲学は、《ふつうの人》を対象にするのではなく、知的に優れた、知的エリートを対象にしていたものであり、この知的エリートと形容すべき人のための学問であったのではないか。  ☆ この質問は この出だしを ほかの質問への回答から取って来てそのままを用いてしまったので 舌足らずと言いますか 起承転結の坐わりがわるいとは思っていました。ツッコミを承けて 整理・肉付けしようとは思っていました。  そうですね。でも質問者の立ち場としては 反論すべきでしょうね。    1. 《英雄》の物語(それが 必ずしもアマテラス普遍人格語でもないようなのですが)や哲学としてはすでに初めから――アルケーを探究したとするなら―― アマテラス普遍語で語ろうとしていたかも分かりません。  2. ただしコジツケとしてでも反論すれば 《英雄》や《普遍科学》を究めようとするなら おそらくその裏で そうではないところの《ふつうの人》についても浮き彫りにすることが出来た。とも見られます。  3. いえ。それは詭弁すぎるとしても けっきょく――むろん何らかのシュウキョウはあったのでしょうが―― 割り合い英雄の描写にしても 倫理規範や模範の像を追い求めるというのでもない。のではないか。ただ単にひとりや二人の美女をめぐって 人殺しをともなう戦争を起こすのですから。  4. つまりは ルネサンスの運動がみづから証明しているように ハダカの人間を見ようとしていたし その意味では《 S 語 - A 語 》の連関し複合した人間の像を捉えようとしていた。と見てもよい一面があるのではないか?    ◇ そして、古代ギリシアに淵源を発するとされる西洋の哲学は、その歴史の中で、こうした姿勢を取りつづけてきたのではないか。  ☆ ただし ソクラテスにしても ダイモーンを語って 神学にも首を突っ込んでいるようです。プラトンのイデアは まさしく神学です。(あまりにも観念論すぎると思いますが)。    つまりは 普遍科学の単一の論理で突き進むのではなく その色合い一色に塗りつぶすのでもない。と言えるのではないでしょうか。  そういう意味では 中世の宗教人と近代の理性人とを 後ろ向きに総合したような人間像に近い生き方をしていたのではないか? ちょっと弱いですかね。  ◇ 哲学はその長い歴史の中で一度たりとも《ふつうの人》に眼差しを向けることはなかったし───向けられることがあるとすれば、侮蔑の眼差しであった───、《ふつうの人》を顧みなかったのではないか、 / という批判を提示しておきます。  ☆ これは 思い描けなかった図ですね。    そこまで徹底した見方が出来るとすれば そのときこそ 振り子のもう一方の極において先ほどの(2)のコジツケの話が用意されるのではないでしょうか?  《〈ふつうの人〉を顧みることはなかった》とすれば その姿勢そのものにおいて・またその姿勢で問い求め描いた人間像の中身においても その裏側にはじゅうぶんに《ふつうの人》のことが意識されていた。とも言えて来るのではないでしょうか。  《 S 語 - A 語 》の連関構造は そうたやすく壊れるわけではない。A 語の単独分立で極端に走れば走るほど もう一方の要素である S 語人間語のことは その《 A 語単独分立者》の脳裏にもじっさいの姿にも ささやかなほどであっても 抵抗をしめしいまにも反抗をしようと待ち構えているという状態と情況が 熟している。のではないかと思います。  じっさい ルネサンスが その初めにはまだ《神の摂理》のようなものを前提として 人間語および科学語を究めようとしたのが どこかから誰かから すでに科学語の一辺倒に落ち入って行くという《 A 語単独分立》へと軌道を逸れて行きました。そしてそれが 極端に走ったときには――《 アマテラス普遍語の帝国主義》なる様相をも呈したときには―― 単純に言ってその反動が現われました。  《主体》論から 《無主体》論――構造主義など――という対極へと振り子は 振り切りました。  つまり この《主体》は 素朴にでも 古代人は持っていた。理性やその論理だけではなく人間の全体を捉えたかたちで ふつうに社会生活を生きる主体であろうとした。(身分制などの制約がありましたが。つまり 制約があったにもかかわらずとも言い得ます)。決して 古代人の人間観ないし生活観をバカにしたものではありません。(我が国では 《イリ歴史知性》!!)。  ◇ 《ふつうの人》を対象にすることもなければ、《ふつうの人》に語りかけるものではなかった。  ☆ このことで あんがい《 S 語 - A 語 》の連関についてのバランスを保っていたのかも知れません。  (ぎゃくの場合は わが国の万葉集です。ねちねちしたドロドロした S 語人間語ばかりです。これは A 語の領域は おそらく《かみがみ》の世界だったのでしょう。そういうバランスがあるようにも見られます)。  あと 後半の《スサノヲ人間語》礼賛へと向かうかに見えるご見解は 気持ちとしてじゅうぶんに分かります。  わたしも スサノヲイズムを看板にかかげています。あるいは いま初めて言えば あたかも尾張のうつけ者を地で行くかのごとく振る舞ってもいます。  きわめて残念ですが 要は どちらか一方への振り子の振り切りではないということだと思います。と言わざるを得ません。  スサノヲ人間語に基礎を置き アマテラス普遍語をもしかるべく用いる。    パトスなる土壌に生きて ロゴスをも使いこなす。  ◇☆ 知的エリートの理性ではなく、〔☆ 《ではなく》を 《を》に代える〕 スサノヲ村の最も素朴で自然な感性に基づくもので〔☆ この《で》を 《にし》に言いかえる〕なければならないのではないか。

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     1. われわれのしゃべる日常の言葉は あやまちうるスサノヲ人間語です。(あやまつは人のつね)。    2. そこから普遍的な要素を抽出し 抽象的になったかたちではあるが あやまたない内容を表わそうとするのが アマテラス科学語です。(主観内容を共有しうる普遍概念の抽出)。  3. 抽象した要素としての言葉は 概念となりますが この概念を用いてさらに良し悪しの価値判断をおこなうと 科学語はアマテラス人格語として――ということは 道徳や倫理規範の問題として――捉えられて来ます。  4. スサノヲ市民たる人間が これら科学語および人格語たるアマテラス普遍語を使いこなすようになること。これが 《人間化》だと考えられます。(口先だけではダメでしょうが そこは誰しもおんなじ)。    5. さてこの人間の人間化をめぐっては 社会として・その形態としては 《国家にあってこそ初めて成し遂げられる》といった見解が出されています。  6. それは A (アマテラス)語をもっぱら駆使することが出来るアマテラス公民を 言わば社会の第二階に住まわせてそこから いまの S (スサノヲ)語にアマテラス語を採り入れるようにさせるという人間化を政策的にも実現させようとするいとなみであるようです。  7. それは スサノヲ市民のアマテラス公民化 または 《 S 語 ‐ A 語 》の二層構造のしかるべき有効な使いこなし これを実現しようとする人間の志向性であるように考えられます。  8. 《ひとは国家において―― A 語公民性の幅と深さを持ってこそ――人間である。それが 人間の自由である》のだとか。  9. けれども 現代の課題は――昔からの志向性をさらに伸ばして行くかたちとしての歴史的な課題は―― この国家をこんどは人間化すること ではないでしょうか?  10. お二階のアマテラス公民をして その人間存在としていかに土臭きスサノヲ人間語をも回復せしめるか?  ではないだろうか。  11. なぜなら アマテラス普遍語は いかに社会秩序を保つという統治のためとは言え お二階さんたちが その《我が家》であるアマテラストゥーム( das Amaterasutum )の名誉や面子を重んじるあまり 《あやまちの無さ》だけを強く声高く言い張るようになっていると見られるから。あやまちをまぬかれる人間はいないのに。アマテラス的な あまりにもアマテラス的な姿を呈するようになってしまたのではないか?  12. 人間は しょせん スサノヲシャフト( die Susanowoschaft )なる大地の住民である。なぜここから飛翔し人びとを措いて単独にアマアガリして その抽象性の世界に閉じ籠るのか?  13. 二階建て構造のかたちは のこったとしても実質的に 国家をそして A 圏公民をしてスサノヲ人間語の回復を得さしめること。《国家を人間的に》 ではないか いまの課題は。インタムライズム。  14. それとも 究極のアマアガリとしての《アマテラス公民からさらに抽象化をおこなった象徴たるアマテラシテ( das Amaterasität; amatérasité; amaterasity )をになう人》のすがた これが 《人間化》のあり方であると言えましょうか どうでしょうか?  15. 天皇 安倍晋三 シーチンピン パククネ バラクオバマ ・・・が 究極の《スサノヲ市民 - アマテラス公民》のしかるべき秩序構造化した《にんげん》でしょうか?   17. 人間の人間化の道は まだ終わっていないでしょうか? お考えをお寄せください。

  • 《人間を国家(公)的に》から《国家を人間的に》へ

     姉妹質問です。互いが互いにとって分かりやすくなれば さいわいです。  ここの主題は 《人間化》です。  1. われわれのしゃべる日常の言葉は あやまちうるスサノヲ人間語です。(あやまつは人のつね)。    2. そこから普遍的な要素を抽出し 抽象的になったかたちではあるが あやまたない内容を表わそうとするのが アマテラス科学語です。(主観内容を共有しうる普遍概念の抽出)。  3. 抽象した要素としての言葉は 概念となりますが この概念を用いてさらに良し悪しの価値判断をおこなうと 科学語はアマテラス人格語として――ということは 道徳や倫理規範の問題として――捉えられて来ます。  4. スサノヲ市民たる人間が これら科学語および人格語たるアマテラス普遍語を使いこなすようになること。これが 《人間化》だと考えられます。(口先だけではダメでしょうが そこは誰しもおんなじ)。    5. さてこの人間の人間化をめぐっては 社会として・その形態としては 《国家にあってこそ初めて成し遂げられる》といった見解が出されています。  6. それは A (アマテラス)語をもっぱら駆使することが出来るアマテラス公民を 言わば社会の第二階に住まわせてそこから いまの S (スサノヲ)語にアマテラス語を採り入れるようにさせるという人間化を政策的にも実現させようとするいとなみであるようです。  7. それは スサノヲ市民のアマテラス公民化 または 《 S 語 ‐ A 語 》の二層構造のしかるべき有効な使いこなし これを実現しようとする人間の志向性であるように考えられます。  8. 《ひとは国家において―― A 語公民性の幅と深さを持ってこそ――人間である。それが 人間の自由である》のだとか。  9. けれども 現代の課題は――昔からの志向性をさらに伸ばして行くかたちとしての歴史的な課題は―― この国家をこんどは人間化すること ではないでしょうか?  10. お二階のアマテラス公民をして その人間存在としていかに土臭きスサノヲ人間語をも回復せしめるか?  ではないだろうか。  11. なぜなら アマテラス普遍語は いかに社会秩序を保つという統治のためとは言え お二階さんたちが その《我が家》であるアマテラストゥーム( das Amaterasutum )の名誉や面子を重んじるあまり 《あやまちの無さ》だけを強く声高く言い張るようになっていると見られるから。あやまちをまぬかれる人間はいないのに。アマテラス的な あまりにもアマテラス的な姿を呈するようになってしまたのではないか?  12. 人間は しょせん スサノヲシャフト( die Susanowoschaft )なる大地の住民である。なぜここから飛翔し人びとを措いて単独にアマアガリして その抽象性の世界に閉じ籠るのか?  13. 二階建て構造のかたちはのこったとしても実質的な内容としては 国家をして・そして A 圏公民をしてスサノヲ人間語の回復を得さしめること。《国家を人間的に》 ではないか いまの課題は。  13-1. インタムライズム。公(A語)は 私(S語)の内に自然なかたちでおさめられてこそ 生きる。ムラ(市町村=S圏)が 主権をすでに理論的に持つのだからこれを実践して行くこと。  14. それとも 究極のアマアガリとしての《アマテラス公民からさらに抽象化をおこなった象徴たるアマテラシテ( das Amaterasität; amatérasité; amaterasity )をになう人》のすがた これが 《人間化》のあり方であると言えましょうか どうでしょうか?  15. 天皇 安倍晋三 シーチンピン パククネ バラクオバマ ・・・が 究極の《スサノヲ市民 - アマテラス公民》のしかるべき秩序構造化した《にんげん》でしょうか?   17. 人間の人間化の道は まだ終わっていないでしょうか? お考えをお寄せください。

  • ヨリ・イリ・ヨセなる知性の区分からインタムライズム

     1. 世界におけるおのれの位置づけによって 仕分ける。      ヨリ(憑り):世界と未分化なる原始心性:アニミズム・シャーマニズム           前(プロト)歴史知性    イリ(入り):時間的存在なるわれを自覚して世界の内に入った:           歴史知性;《世界‐内‐存在》    ヨセ(寄せ):時間を超えたと《さとった》ととなえ世界の経営にあたろうとする:           ヨリ心性もイリ知性をも寄せてたばねる:           《超歴史知性》;《世界‐外‐存在》  2. ひとは みな あやまち得るスサノヲ人間語をしゃべるスサノヲ市民である。ヨリ原始心性もイリ歴史知性もヨセ超歴史知性も 同じくである。  3. ただし このスサノヲ人間語の内に じつは人間の普遍的な特質もやどると見られている。一般に《人間としての互いのカカハリ(関係性・社会性)》である。マジハリは無くても カカハリの絶無な人はいない。  4. スサノヲ市民が暮らす世界にあって 人と社会とその他の世界について誰もが共にそうだと見とめる事柄を人びとは捉えるようになる。これは アマテラス科学語である。ゾーオン・ポリティコン。  5. アマテラス科学語で捉えた人と人との関係についての見方は 理論と成る。人は互いにひとしく自由だ。この自由は互いにまったくひとしい。うんぬん。これは むろんやはり普遍性を表わすものとして アマテラス人格語と呼ぶ。  6. アマテラス科学語およびアマテラス人格語をまとめて アマテラス普遍語と呼ぶ。  7. 一般に――相対的な意味においてだが――あやまち得ざる普遍語として捉えられるアマテラス語は むろんあやまち得るスサノヲ人間語にもとづきそれを練りに練って得たものである。  8. もしくは アマテラス普遍語は スサノヲ市民が用いる言葉である。ぎゃくではない。アマテラス人格語は スサノヲ人間語の内におさまってこそ 活きてはたらく。  9. アマテラス人格語および科学語によって ヨセなるスーパー歴史知性は スサノヲ人間語なる《ヨリ心性およびイリ知性》をおしえたい・みちびきたい・おさめたいと願った。根負けしたスサノヲ市民らは これに《くにゆづり》した。  10. よって 社会は もとは平屋建てであったが 《くにがゆづられた》あとには スサノヲ市民社会なる第一階とそしてアマテラス第二階との二階建て構造と成った。  11. 社会にも神棚をつくって そこに神聖にして侵すべからざるアマテラス公民を住まわせ ときにはこれを祀っていた。    12. 問題は ずばりひと言で言えば こうである。:ひとの用いる言葉は けっきょく誰にとっても《スサノヲ人間語 ‐ アマテラス普遍語》なる総合的にして構造的な言語だということになる。S語だけというわけではないし A語が突出してしまうものでもない。  13. いかに普遍語と言えども 《超・人間語》はない。同じように人間知性に超・歴史知性はない。ヨセなるズーパーメンシュとしてのアマアガリもしくはアマガケリは 非現実的である。社会に 神棚も雲の上もない。  14. 《スサノヲ人間語 ‐ アマテラス普遍語》なる構造言語をしゃべる一人のひと――基本的に言って広義の スサノヲ市民―― この人間が 社会の経営については ムラオサ(市町村長)として当番制において当たるのがよい。学級委員のごとくすべての人が ムラオサの当番になる。  15. また お二階は要らない。それは ムラムラの連携のために事務処理をつかさどる公務員としてはたらくのみ。  16. このムラムラのつながりは 日本だけでやるのもよいが 世界にひろがるなら もっとよい。  このたたき台についてご教授ください。異論については質問者として食い下がりますが ご批判を歓迎します。

  • 国家とは何か? その存立根拠とは?

     (あ) 存立根拠は 分かりません。ないのではないか?  (い) 国家とは 《スサノヲ市民社会( S 圏)‐もっぱらのアマテラス公民圏( A 圏)》という二階建ての構造を成して 公民 A 圏が主導していとなまれる社会の形態である。と仮説します。  (う) おそらくその特徴は ひとつに 社会秩序の問題として次がある。  ひとが人間としての意志ないし心が踏みにじられるといった不法行為に遭ったとき その不法行為を――それは 無効の行為ゆえに――なかったことにするための原状復帰について 被害者の自力救済に拠らずに アマテラス公民のチカラ(権力)に拠ることを原則とする。  これが 特徴であると考えられる。  (え) すなわちひとは そのしゃべる言葉が 《あやまちうるスサノヲ人間語‐間違いのないアマテラス普遍語(科学語および人格語)》なる二層構造を成すと捉えられる。このとき 普遍 A 語をもっぱらよく行使する 役割りをになう A 圏のチカラに 不法行為を受けてこうむった被害からの救済をゆだねた。  これによって 人びとのあいだの和についてそれを保守する役割りが果たされる。  (お) ところが 人びとのあいだの和は 考えてみれば むしろ《あやまちうるスサノヲ人間語》どうしの――むしろ互いにケンカをも自由に為すほどであるところの――スサノヲ市民としての自由なる自然史過程にゆだねたほうが よくその役割りを果たすものである。のではないだろうか?  (か) それとも 二段構えであるか。つまり S 語によるケンカの結着や仲裁と A 語を介しての解決法との二段構えである。と見るべきだろうか?  (き) けれども 普遍 A 語は スサノヲ人間語なる泥の中に根を張って咲かせる花であって根無し草になってはならない。はずだ。大岡裁判やソロモンの知恵が 大いにのぞましい。  (く) ここで短絡するならば アマテラス圏なるお二階は・つまり国家は 要らない。のではないだろうか?  (け) スサノヲ市民社会の――ムラそれぞれの――自立がのぞまれる。かまど(へっつひ)は S 圏にあり。歴史は ここでいとなまれる。  (こ) それとも A 圏を擁する国家なる社会形態こそが 人間とその社会にとって重大かつ欠くべからざる存立根拠を持つ。と見られますか?

  • われわれは どこへ行くか?

     世界についての展望を問います。  これまでの経過のみによって表わそうとした文章ですが それを たたき台とします。  添削をどうぞ。  1. 《知性》のあり方についての分類から始めます。    -1:原始心性=《ヨリ(憑り)》:アニミスム&シャーマニスム   0 :歴史知性=《イリ(入り)》:世界の内への入り。                    時間的存在の自覚。   +1:超歴史知性=《ヨセ(寄せ)》:世界の第二階から                 《ヨリ》を束ね 《イリ》をも                  社会力学上(政治的に) 寄せる。    2. なぜ 最後にヨセが出て来たのか。これは 要らぬものという理解に立ちます。(人によっては 必要悪と言います)。これは 宗教(まつりごと)の始まりです。  2-1. マツリゴトとは 平屋建てだった市民の社会を二階から共同自治する社会経営の方式です。  3. イリなる歴史知性は 世界にあってわが生活すなわちわれらが共生にとって互いの自由をとうとぶ。そのときには 互いの意志疎通を重んじる。民主制である。  3-1. それには 《経験合理性》がそれとして とうとばれる。(排中律や 因果関係の把握など)。  3-2. 特に経済生活では たとえば少ない費用で多くの収益を得ることを目指す。これは 勤勉と呼ばれる。  3-3. 経済活動にあたっても 勤勉なるイリ歴史知性は 倫理の側面を重んじる。ふつうにまじめに生きようとしており いわゆる人格の陶冶につとめ 商業道徳をおもんじるようになる。  4. ヨセなるスーパー歴史知性は イリ歴史知性と同じくこの勤勉志向を やはり経済的にも倫理的にも問い求め さらには言わば徹底して目指すようになる。かんたんに言って ガリ勉である。勤勉主義となる。  4-1. もともと優秀であって さらに優秀であることに価値を置く生き方なのであると思われる。    5. ちなみにここで 人びとのふつうの勤勉にもとづく生活においては あやまちうるスサノヲ人間語をしゃべると言える。その基礎において 合理性を問い求めている。  5-1. 他方 勤勉主義を志向するガリ勉知性にあっては あたかもあやまち得ない普遍性を問い求めて行く。たぶん 他人(ひと)の上に立ちたいからだと思われる。  5-2. これを 科学および倫理にかんするアマテラス普遍語として獲得するようになる。アマテラス科学語とアマテラス人格語と。  5-3. 学力優秀で品行方正なる優れた人間が出て アマテラス普遍語をよく駆使するようになるなら 自分からか周りの工作によってか すでに神のごとくいかなるものの下にも立つまいと誓うようになるらしい。その存在じたいが 侵すべからざる神聖さを帯びたと見なされるように自分をも周りをもそして人びとをも寄せつつ おしえ導くようになる。  6. 人びとのしゃべるコトバは スサノヲ人間語とアマテラス普遍語との二重構造になった。(やがては アマテラス普遍語にも 片寄りがあり 都合のよい部分で普遍的な内容を示すだけのアマテラス方言も 使われるようになった)。  6-1. そうして社会も スサノヲ市民社会とアマテラス公民圏との二階建て構造を採った。国家と呼ばれる。    6-2. もっとも現代ではすでに 主権在民とうたわれており アマテラス公民は 公僕であり スサノヲ市民のために社会を経営する。  7. さらにひとつの問題は 世界の経済活動において 勤勉主義なるガリ勉が さらに徹底してガリ勉主義となって 経済合理性のみを追求するウゴキである。  7-1. たぶんそれは 人間観として 個人は《スサノヲ( S )市民=アマテラス( A )公民》としての単層なる人間像に立つ人びとの側から 初めには出て来たものと思われる。日本人は 《 S - A 二層連関構造》なる個人ではないかと考えられる。  7-2. 言いかえると 《 S = A なる単層》としての人間観に立つ人びと・つまりは一般に欧米の人びとの社会は 次のような二階建て構造なのだと考えられる。  スサノヲ市民社会(《 S = A 》人)-アマテラス公民圏(《 S = A 》人)  つまりは 《 S 圏 ‐ A 圏》の二階建ては つねにひっくり返るウゴキ( revolution )を秘めている。ひとりの個人が《イリ歴史知性=ヨセ超歴史知性》なる心的現象を示す人間像であるように見られる。《万人の万人に対するたたかい Bellum omnium contra omnis.》。  7-3. そこで特には経済基礎において ガリ勉主義としての論理徹底指向なる合理性がグローバリズムとなって世界の隅々をも席巻しつつある。  7-4. ニートは このようなメーキャップをした世界の顔を見て やってらんねえよと言った。

  • 外から来るアヤマチ:ミラー・ニューロン現象

     ここでミラー・ニューロン現象とは:     相手( A )の・特に疚しいと感じている思いや行動を    こちら( B )があたかも自分という鏡に映して     多少ともその内容を表現してしまうこと  を言うとします。  ヤマシサだけに限らないのですが いまはそれをあつかいます。  そのヤマシサは 一般に・漠然とになりますが 相手もこちらもそう思っているという意味とします。つまり 定まらないのですが そうだと思っていること自体は 事実としてあるというかたちです。    このとき こちら( B )が侵すあやまちについては あたかも相手( A )の代わりにおこなっているということであり ならば多少とも水割りのようなかたちで あやまちの度合いがうすまっているとは思われます。  けれどもこれは つまり A と B との間において あやまちについての共同自治なのであると考えることが出来るかも分かりません。  アヤマチであると同時に 共同自治の一環である。そういう見方です。  さて 一般にコミュニケーションにおいて 相手がけんか腰でやって来たら こちらもけんか腰になって わたしは 応対していました。いまも色濃くそれは のこっています。いつになったら こういったミラー・ニューロン現象は 静まっていくのでしょうか?  このミラー・ニューロン現象を 自分の中で 避ける・しないと決めた場合は あり得ます。  それは あやまちうるスサノヲ人間語にもとづくのではなく あたかもそこから去って もはやあやまち得ない〔と冀った〕アマテラス普遍語――アマテラス科学語(真実)およびアマテラス人格語(倫理規範)――の世界にのがれる場合です。    この普遍語アマテラス方言をたくみに駆使し得る場合というのは 神聖にして侵すべからざる権威が 人びとによって着せられます。  このアマテラシテ( amatérasité; amaterasity; Amaterasität )なる権威のもとに生活するなら ミラーニューロン現象は 避けることが出来るかも分かりません。  けれども そのときには このミラーニューロン現象を起こした相手( A )をどう扱うかと言えば じつは しばしば ウラで処理をする。ということだと思われます。自分( B )の手は汚さない〔恰好をよそおう〕。  つまりは アマテラス普遍語は だからこそ 普遍語アマテラス方言であるとも言いましたし 見てもいます。  このときひとつのみちびかれる結論としては 問題が 成るべくあやまちうるスサノヲ人間語にもとづき・これから離れないで できるかぎり主観を共同化しうるアマテラス科学語およびアマテラス人格語としての普遍語を用いる。ここにあることになるかと考えます。  ミラーニューロン現象を 《スサノヲ人間語 - アマテラス普遍語》なる構造的なコトバをつうじて 生け捕りにするような方向へとすすむこと。これが 求められるものと考えます。  具体的な事例が出しにくかったのですが 取り敢えずここまでをつづって 当否・成否その他批評・批判を問います。自由なご見解をお寄せください。

このQ&Aのポイント
  • 自分のフランチャイズで買取店を経営する彼氏に対して、母親が公務員の仕事と比較し、イライラを感じる27歳女性の悩み。口に出して悪口を言われたり、彼氏への配慮が足りないと感じたりしている。
  • 母親は彼氏に挨拶に行かなかったことに対しても不満を抱き、娘の前で繰り返し発言することでイライラが募る。自営業で家を出られない女性にとって、母親との上手な付き合い方を模索している。
  • 彼氏のことを悪く言われると不快だと感じる女性。自分が我慢するしかないかと悩んでいるが、上手なアドバイスがあればとのこと。
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