• ベストアンサー

老子は 何が言いたいのか?

雪中庵(@psytex)の回答

回答No.9

人類の分業化の発生=助け合いにおいて、当初の原始 共産制においては、血縁の延長として個人的な感情の 延長において、自律的に助け合っていたのが、分業化の 発達による流通の拡大において発生した貨幣は、助け 合いにおける感謝のしるしであるはずが、固有の価値を 持った物体として、それを奪い合う事(拝金主義)で結果 的に助け合う=他律的に生かされるようになった。 つまり、自己の生命の社会的拡張を自覚化して、その 他我意識(博愛)において自律的に社会行動をとる (生きること自体による喜び)のではなく、お金や出世と いった馬車馬の目の前のニンジンによって結果的に 生かされる、(自己チューな意識のままの)弱肉強食の 擬似ジャングルと化したのだ。 その「自己チューな意識のまま」である事は、他律的 社会行動において社会性を劣化させる歪みを派生させ るので、「お金や出世」といったアメだけでなく、「法規や モラル(ここで問題となる倫理)」といったムチも発達した のである。 自律的社会性が可能なほど認識が深めれば、単純に 意志の最大充足を目指せばよく、外的な価値(アメ)や 権威(ムチ)は不要だ。

bragelonne
質問者

お礼

 (1)  ★ 人類の分業化の発生  ☆ たとえばおそらく女が赤子を産む――男は産まない――というのも 分業のひとつなのでしょう。それが 《発生》すると見るのですね? そう見るところから 人間と社会との理論にとっていかなる視点が得られましょうか?  (2)  ★ 人類の分業化の発生=助け合い  ☆ 分業しなければ人びとのあいだの《助け合い》は 生まれませんか? 《出産》の有無による性差 これが分業=すなわち子育てをめぐる協業であるとして これを敢えてわざわざ《助け合い》と見るのでしょうか? なぜそういう一つの規定に特化するのでしょうか?  (3)  ★ 人類の分業化の発生=助け合いにおいて、当初の原始共産制においては、  ☆ 《原始共産制》って何ですか? もしたとえば家族のあいだで互いに何もお返しをも期待していないでおこなう行為 このような無償のおこないによって成り立っている人間関係であるとすれば それは 現代人の家族のあいだにも見られると言うべきでしょう。人なる存在のあゆみ( basis = 基礎)として。  人類史のその昔の原始共産制とは どういう内容のことでしょう? 《当初》と《その後》とは どういうふうに違って来ているのでしょう?  (4)  ★ 当初の原始共産制においては 血縁の延長として個人的な感情の延長において、  ☆ 血族どうしにはそれとしての特別の個人的な感情があった。のですか?  姻族にもそのような感情が同じ内容として及ぶ。ということを言うのですか?   それらは ほかの・よその人びとにたいする感情とは別なものとして区別することが出来るということですね? それを話の前提にするのですね?  (5)  ★ 〔当初の原始共産制においては 血縁の延長として個人的な感情の延長において〕 自律的に助け合っていたのが、  ☆ 《自律》って言いますが すでにその頃には人びとが《みんな や われわれ》の中にあって《わたし》なる個人が自覚的に存在しましたか? 存在しなくては 《自律》も《他律》もないのでは?  けれどももし――時代を超えて考えるに―― 《分業=すなわち協業》をすでに前提として設定しているのならば たとえ相手の願いを聞き入れてそれに従った行動をしたとしても それも《他律》をきっかけとしつつわが意志によって《自律》した振る舞いである。と言えるのではあるまいか。  要するに自律と他律との境界をいったいどこに引くというのだろう。  (6)  ★ 分業化の発達による流通の拡大  ☆ 《贈与》なる経済の段階を飛び越していませんか。部族どうしのあいだにおけるモノのやり取りをも伴なう外交的な政治=経済的な行動です。  (7)  ★ 分業化の発達による流通の拡大において発生した貨幣は、  ☆ ですから 最初の貨幣は むしろ贈与としてのやり取りが部族ないしムラムラのあいだを行き交うときにそのシルシとして取り決め合った石なり貝なりのことではないのでしょうか?  けれども 交換価値としての貨幣なる段階に飛ぶわけですね。  (8)  ★ 貨幣は、助け合いにおける感謝のしるしであるはずが、  ☆ そうでしょうか? むしろ《助け合い》としての社会的な役割り分担なる分業にあっては そのまま何かのシルシを必要とするような協働行為ではなかった。のではないか?  助け合いなら 言葉も要らず 相手の目を見れば お互い心は通じ合うはずです。  (9)   ★ 貨幣は、・・・固有の価値を持った物体として、  ☆ まさか。金銀貨幣なら 金銀なるモノとしての値打ちがあるのでまだしも・と言ってもそれにしても その額面の値打ちまでは無いのがふつうであり(半額なら半額の価値しかない) それが いったいいつ・どこで《固有の価値を持った物体として》現われたのか?  固有の価値は すでに金銀銅なる金属として帯びていたのです。それだからこそ物指しとしての貨幣にも用いられたのです。  (10)  ★ 貨幣は、・・・固有の価値を持った物体として、それを奪い合う事(拝金主義)で  ☆ 世の中みな盗人であり泥棒ばっかりだということでしょうか? 《奪い合う》というのは 単なる比喩ですね。それにしても この世のあきんどはみな 金儲けのガリガリ亡者であるとは よくも言えたものですね。たぶんご自分の心の中を投影しているのでしょう。それでなくては 言えたものではないでしょう。  (11)  ★ 貨幣は、・・・固有の価値を持った物体として、それを奪い合う事(拝金主義)で結果的に助け合う=他律的に生かされるようになった。  ☆ 貨幣経済は 中立です。商行為もそれなりに倫理的にそして経済行為としての合理的な内容をともなうようにという前提でおこなわれているものです。  おいしいものを食べてもらおうと野菜をつくったり魚を捕ったりあるいは料理して食事を出したりするその経済活動は その中立性において互いに助け合っています。分業=協業です。  また《他律的》も《自律的》も 社会的に役割りを分担し合っているからには 《自律的にして他律的な経済行為》というかたちに成っているはずです。  たとえ《拝金主義》が経済の面で社会を主導していることがあるとしても そのガリガリ亡者が 頭のてっぺんからつま先まで《汚い手を使って行動している》というものではない。もしそうだとしても それを告発することと 社会と人間の理論を明らかにすることとは 別の問題です。  拝金主義が横行し蔓延していたとしても 貨幣をもともなった自由市場経済としての基礎においてわれわれは経済活動をも共同自治の行為をもそして文化的ないとなみをも これからも続けて行くはずです。  《貨幣⇒ 他律としての社会生活》といった規定に いったい何の意味があるのですか?  (12)  ★ つまり、自己の生命の社会的拡張を自覚化して、その他我意識(博愛)において自律的に社会行動をとる(生きること自体による喜び)のではなく、お金や出世といった馬車馬の目の前のニンジンによって結果的に生かされる、(自己チューな意識のままの)弱肉強食の擬似ジャングルと化したのだ。  ☆ あなたの頭の中こそが 原生林の生い茂る密林ですよ。  (13)   ★ その「自己チューな意識のまま」である事は、他律的社会行動において社会性を劣化させる歪みを派生させるので、「お金や出世」といったアメだけでなく、「法規やモラル(ここで問題となる倫理)」といったムチも発達したのである。  ☆ ご勝手に。  (14)  ★ 自律的社会性が可能なほど認識が深めれば、単純に意志の最大充足を目指せばよく、外的な価値(アメ)や権威(ムチ)は不要だ。  ☆ ですから もしこのような《外的な価値(アメ)や権威(ムチ)》によってもっぱら他律的に生きる人間がいたとしたら――そんな狭隘な規定をこそうたがって止まない者ですが それでももしそうだとしたら―― そのような人たちに どのようにして《人間としての手》を 互いに自由において 差し伸べるのか? こういう問題にもうとっくに移って行っているはずなのです。  ★ 外的な価値(アメ)や権威(ムチ)は不要だ。  ☆ とするのなら どうするか? 何ら考えていない。《認識とその深まり》をしか扱わない。  ★ 意志の最大充足を目指  ☆ すには どうしたらよいか? たとえ金儲けの新興シュウキョウであっても その人にとって待ったなしのその場をしのぐだけのコトだとしても そのための手は差し伸べることもあるのです。  そんな手にひっかからないためには ではどうするか?  その問題には手を染めない。蛸壺に引き籠もっているのみ。なんぢゃよ。    ご回答をありがとうございました。何度同じことを言わすんぢゃ。  この回答のどこが 老子なのですか?

bragelonne
質問者

補足

 同じ主題であらたな論点をめぐる質問へ移ります。

関連するQ&A

  • 老子:大道が廃れる前には何があったのか?

     廃れる前には その廃れるべき大道があった。のか?  ▼ (老子 18章) ~~~~~~~~~~   大道廃(すた)れて仁義あり。   智慧出(い)でて大偽(たいぎ)あり。   六親和せずして孝慈あり。   国家昏乱(こんらん)して貞臣(ていしん)あり。   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (あ) 《仁義》が説かれるようになる前の時代と社会とは どんなだったのか?  (い) 大道が活きたチカラとしてあって 言うならば無為自然なる生き方を人びとがしていた。それが 元々の時代と社会だ。とするならば いったいぜんたい どうしてその大道が廃れたのか?  (う) 無為自然とは どういうことか?  (え) 日本人には総じて言って 馴染みやすく なじみが深い感じで受け留められているものと思われます。けれども しかしながらその無為自然が 初めに何か《大道》というような始原(アルケー)を立てているのだとしたら そのぶん退(ひ)く。のではないでしょうか?  (お) もののあはれを知るとき 《はじめ》は無い。もしくは いちいち《ある・ない》にこだわることは無い。のではないであろうか? そうだとしたら 道教(タオイズム)と神道(シントウイズム)とには 大きなへだたりがある。日本人は 無為自然に対して違和感をもいだく。のではないだろうか?

  • 儒教の道徳観を市が教化強制できるのでしょうか?

    無知の礼賛 封建倫理を学校、市民に強制する大野市とは? 儒教についての教養のなさがよく言われています。 しかし、その封建道徳を現代の教育理念として掲揚し、学校から市民全般にまで徹底しようという地方自治体が現れました。 福井県大野市のホームページによると、孟子のいう封建倫理を明らかにする「明倫」のことばを「市独自の教育理念」として掲げ、これを「人として守り行うべき道を明らかにすること」とし、「市の教育全体を貫く一本の芯となるべき大野市教育理念」としています。 そこで市の教育委員会に問い合わせたところ、この理念を市全体に根付かせていくため、学校や公民館などに掲示した上、教育学習の場や市の関係団体などの会合でこれを唱和することを定めていると誇らしげにお答えになりました。 幕末の多くの藩校に流行した「明倫」であり、大野藩にも明倫館というのがあって、それに因むようです。 しかし儒教の説く倫理は「一天の君」による専制政治のための思想統制を正当化する基本となる道徳倫理です。 大野市というところは、これを教育理念として徹底する、つまり、儒教の道徳観を上から教化強制しようという、まさに思想統制となります。「大野市独自の教育理念」といいますが、こうした封建道徳を賞揚し強制しようという公共団体が他にもあるのでしょうか。

  • 高校の倫理の宿題を解いてください!(急ぎ)

    冬休みの宿題に倫理のプリントがあるのですが、どうしても分からない問題があります。>< 答えがついておらず困っています…詳しい方といてください!お願いします。 ※<>内は単元名です。 <諸子百家と孔子の思想> 1、偽りのない誠実な心と他人を心から思いやることを何というか 2、道徳のあらゆる要素がまんべんなく備わっていることを何というか 3、本来は生活全般の決まりであり法律と儀礼作法を含むものであったが、子牛は精神としての仁が外面に現れた社会的規範とした。これは何。 <儒教思想の発展> 4、人為的な外的規範による礼によって、政治を行う主義を何というか 5、朱子が強調した人間修養の根本のあり方で物の理をきわめて知をつくすことを何というか <老子思想と道教> 6、何事にも作為を労せず自然の道に素直にしたがって生きることを何と呼ぶか <仏教の需要と発展> 7、現実の人生において神仏から得られる利益を何というか 8、末法思想の広がりと共に発達した来世での往生を願う進行を何というか 9、インドの大乗仏教で説かれ中国で発達した死後に往生できると説く教えを何というか <鎌倉仏教> 10、浄土諸宗にみられる阿弥陀仏の本願で必ず救われるとする立場を何というか 11、浄土宗の一派で半生を常に臨終のときと思って称名念仏することを説いた宗派は何か 13、12世紀末に伝えられた一派で鎌倉幕府・室町幕府の保護を受けて発達した宗派は何か 14、臨済宗において師が弟子に悟りを得させるため与える問題を何というか 15、13世紀の初めに宋より伝えられた禅宗の一派で坐禅そのものが仏法であり悟りであると説いた宗派は何か 以上です分かる物だけでも良いのでお願いします。(「〇番は多分これです」とかでもいいです。)

  • 老子について

    老子について書物をさがしています。 自分は理系で文学、思想は全くの素人なのですが 1.漢文、正確な訳が載っている。 2.漢文のみでなく、老子の人物像、道教についてなど、幅広い内容が載っている。 3.とにかく読み易い(笑) というよーな、書はご存知ありませんか? 値段も高過ぎるよーなモノはちょっと・・ ワガママなんですが。 「上善如水」の思想に感銘を受け、 より老子、さらには道教(?)についての知識を得たいとおもっている次第であります。 ご協力をお願いします。

  • 老子について

    1~2冊本を読んでも、結局何をすればいいのか良く分かりません。 どうやって実践するのでしょうか。何もしないこととどう違うのでしょうか。

  • 老子

    老子 老子の言葉で「~水のごとし」みたいな感じの言葉があったと思うんですが、知ってる方がいたら教えてください。意味も教えてもらいたいです。

  • 初期仏教の慈悲の概念?

    宮元啓一『ブッダが考えたこと』を読みました。 それによると、・・ 仏陀の時代、仏陀教団は、周りのバラモン達と対立関係にあった。 そのため仏陀は、彼ら敵対者を「悪魔」と呼び、親和的な人を「神」と呼んだ。 敵対者からの迫害に耐えるのが、慈悲であり、本来は難行苦行であった・・、 とのことです。なお、悪魔の概念としては、この他、自然環境(災害)など修行を邪魔するものも含むとしています。 残念ながら根拠についてはほとんど触れられていません。 著書に於いて、そのことについて触れた部分の最初では、「後ほど細かく根拠を言う」としつつ、後の部分では「先ほども言ったように」と書かれていて、結局触れないままで、現在の仏教学を否定されております。これでは分かりません。そこで私なりに、どのあたりを根拠とされているのか、一応の目安を付けてみたのですが、綺麗に割り切れるとも思えず、どうなっているのか、詳しい方の意見も聞きたいです。 前提になる問いが2つと、本題の問いです。 1,まずは、前提。釈尊時代、教団は、伝統的教団からさげすまれ、攻撃される立場でしたか? 確かに或る経典などには、異教に対して手厳しい釈尊ですが、そうでもない要素もありますし、攻撃性が釈尊時代のものであったか、というのをどの経典のどういう部分から根拠とするかが大きな問題となり(同氏の本は、成立論と根拠に一切触れないので結論だけが唐突に出ているのだと思います)、色々難しいと思うのですが、基本ラインのお考えで結構です。 2,神とか悪魔は、人のことと言い切れる根拠をご存じですか? 3,本題。慈悲の概念は、伝統的宗教家からさげすまれた自由思想家が、迫害者へ向けた克服法で、苦行だったのですか? そういう伝統が仏教のみならず、沙門にあったかのような書き方でしたが、何か根拠をご存じでしょうか? 長文失礼しました。お願いします。 

  • 老子のパラドックス

    あなたがたは、「無」の精神あるいは本質を、知的な分析によらず、 自己の存在の内奥を探ることによって発見しなければならない。 しかも、概念や理論や抽象的な説明によらずに、生きた真実として「無」を理解したことを、 私に具体的にいきいきとしたかたちで示してほしい。 単純ゆえに最良の公安は「無」の公安である。 「無」とは生きて作用するダイナミックな精神を表現した言葉。 「無」は通常の認識力では理解できない。 老子からこの「無」の公安が与えられる。この場合の「老子」は自然である。 自然は言葉による説明をほどこさない。謎を提示するのみである。 全存在をかけて、直接的に把握すべきだということを肝に銘じておいてほしいのである。 1)おまえの本来の顔は何であったのか。親がお前を生む前にもっていた顔は? 2)両手をたたけば音がする。では、片手ではどんな音が? この公安はユニークな解答がそれぞれに存在し、「真理の把握は完全に修行者に任されている」ということらしいですが 私はこの論理的に現象学的に無理な公安?に無為状態となります。 基本的な質問かとも思いますが、パラドックスの意味は「思考の罠」ということですか? 上記の1)、2)の公安についての考え方や何かヒントとなるだけでもください。

  • 老子の考え方と自分

    老子の考え方と自分 世の中には様々な方々が暮らしてます。 経済的に恵まれなかったり、環境が良くなかったり、生まれ持った性格から育ちもあります。 社会経験もあるでしょう。 わたしは意図して、つまり悪意を持って人に対して何かするという事はしません。 ネットでごく稀に毒を吐いてしまってました。 だがやられてもやり返してやろうなど思わないようにしてます。 過去に苦い経験があるからです。 若気の至りである人を試す悪意を持った行為をしてしまいました。 心が汚れました。結果心の傷となっていまだに癒えてません。 それ以来悪意を持って人を試そうとか ましてや人を貶めてやろうなどと一切思わなくなりました。 人生は修行のようなところもあり、そして楽しんで生きていく事もあります。 何の目的で暮らしていくかは、義務と責任を守り社会のルールに従えば自由です。 まだまだわたしは青二才でした。 この世の中について学んでます。 道にやっとたどり着きました。 https://youtu.be/5mSk2z79PNQ https://youtu.be/a84k6o631x8 https://youtu.be/FneTPbIi2So あまりにも浅学だったわたしにアドバイスをいただけたら幸いです。

  • 論語と老子について教えて下さい。

    論語と老子は各々儒教道教で違いますが、個人的に老子の方が人生に活用でき、物事を客観的に捉える事が出来るようにもなってくるし、度量も広く深くなってきたようにも感じました。 逆に論語は難しく感じます。 文章はある程度暗記しておりますが、数ヶ月以上立って本を開くと読む気持ちが失せます。 これは私には論語は不似合いという事になるんでしょうか?