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老子は 何が言いたいのか?

Tastenkastenの回答

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回答No.4

こんばんは。 私も、そんなに詳しいわけではないので、私自身の解釈ではなく、一般に言われていることだけに触れます。議論をする能力はありません。 ここで批判していいるのは、当時の民衆とかではなく、儒教のようですよ。大道というのは、タオがもたらす無為自然に生きること。それができないと、仁義、大偽、孝慈、貞臣というものが出てくる。儒教がそのようなことを説くのは、無為自然の生き方ができないからで、そこに戻るのが本道である、ということのようです。 日本人がこれをどう受け入れてきたかについては、知識はありませんが、日常的には、日本には儒教的な道徳観が根を下ろしたと思うので、あまり重要な役割はしなかったのではないかと思います。 これと似た言い回しで、もっと痛烈なことばが荘子のどこかに出ているはずですが、今ちょっと探せないので申し訳ありません。ネコさんならご存知かもしれません。

bragelonne
質問者

お礼

 こんばんは たすてん先生。ご回答をありがとうございます。  ★ ここで批判していいるのは、当時の民衆とかではなく、儒教のようですよ。大道というのは、タオがもたらす無為自然に生きること。それができないと、仁義、大偽、孝慈、貞臣というものが出てくる。儒教がそのようなことを説くのは、無為自然の生き方ができないからで、そこに戻るのが本道である、ということのようです。  ☆ ええ。そうなのでしょうね。へんな言い方になりますが そのあたりまではだいたい推測しえたのですが そのあとですね そのあと だからどうなのか?  コンフシアニズムは ダメだと言おうとしているのでしょうか。  本道は やはり 無為自然でしょうか?   だとしたら その無為自然なる生きるさまは 《仁義》が その理念をいちいち言わずとも 人びとにあって守られている。――と言おうとしているのか?  あるいは そもそも仁義といったオシエそのものが あまりよい倫理的生き方でもないのだ。――と言いたいのか?  けれども 儒教でなくても――もし《大道・無為自然が廃れてしまっている情況》になれば―― 仁義を説くか 苦からの解脱としてのブッダ道を説くか 隣人愛を説くか・・・するのも むしろ最小限に必要なことである。とも考えられるのではないか? 社会にとって 安定した秩序が必要だと考えられるかぎりで・あるいはつまり言わば その場を取り繕う一時的な秩序だとしても 待ったなしの秩序の必要性が求められるかぎりで。  だからつまり 老子は何が言いたいのか? なのですが。  ★ そこ(大道・無為自然)に戻るのが本道である、ということのようです。  ☆ これは 実現可能であるから 人びとよ つとめなさい。と言うのか。それとも もう世の中の状態は すでに廃れてしまっているのだから 手遅れである。ただ そういった《本道》についての反省的な自覚だけは出来るのだから そのことにつとめなさい。なのか?  ★ 日本人がこれをどう受け入れてきたかについては、知識はありませんが、日常的には、日本には儒教的な道徳観が根を下ろしたと思うので、あまり重要な役割はしなかったのではないかと思います。  ☆ あっ これは 見解を同じくします。ピッタリと。  儒教道徳の内容が そのままたとえば山村に住む現代の人びとが毎日山の神に手を合わせるような生活信条やまた心にとって ピッタリの思いであるかどうかそれは また別の話だとも見ますが。  道教ないし老荘思想 これについては けっきょくわたしは勉強して来ていません。高校の漢文にも出ていなかった〔か または 出て来ていても すっかり忘れています〕と思います。  日本古代史をやったとき 座談会で福永光司からほかの日本史の先生方がまなんでいるところを読んだり 論文集に福永が名をつらねているその論文を読んだりしただけに終わっています。  というのも これなら 道教は 神道に親和的な部分はすでに神道として受け継がれているでしょうし 違和感のある部分なら そのまま忘れ去られて行ったものと理解しました。いえ つまり その感覚を それでよいと思い込んでしまいました。  あとは 文献から用語を輸入しただけである。道観やらの目に見える建物などがかつては 造られたとかどうとか言っているのみである。ここでも 親和性の部分は それとして受け容れられ受け継がれているだろうし 違和のある部分は 捨て去られて行ったであろうと見たわけです。  議論はしませんが 《無為自然》にしても かなりの程度において深く受け容れられていると見られると同時に けっして――感覚による推理ですが けっして―― もののあはれを知ることと同じ道をあゆんでいるとも捉えられませんでした。強いて言えば 平行線のごとく並行している。こうまで感じています。議論にはすすみません〔というずるい述べ方にとどめます〕。  すなわち 道教は 日本人の思想ないし生活態度にとって打っちゃっておいてよい。こういう先入見で来ています。  ★ これと似た言い回しで、もっと痛烈なことばが荘子のどこかに出ているはずですが、今ちょっと探せないので申し訳ありません。ネコさんならご存知かもしれません。  ☆ そうですか。荘子の文句だと 言おうとするところが掴みやすいでしょうか。  ありがとうございました。参考にすべきところを考えてまいります。

bragelonne
質問者

補足

 議論を吹っ掛けるつもりはありません。  そのような結果を引きつれて来るとしても あらたな疑問が湧きましたので 訪問者の方々と自分のために覚え書きをします。  ★ ここで批判しているのは、当時の民衆とかではなく、儒教のようですよ。大道というのは、タオがもたらす無為自然に生きること。それができないと、仁義、大偽、孝慈、貞臣というものが出てくる。儒教がそのようなことを説くのは、無為自然の生き方ができないからで、そこに戻るのが本道である、ということのようです。  ☆ すなわち 疑問はこうです。:  ○ ~~~~~~~~~~~~~~~  初めに大道は あったのか?  無為自然は――タオによってもたらされ――人びとにあって生きられていたのか?  そうだとしたら どうしてそれが廃れてしまったのか?  儒教が出たので 廃れたのか?  無為自然の生き方が出来ない儒教が どうしてタオのチカラのあった世界から出たのか?  それとも初めから 無為自然は 現実の人びとの生きる姿としては唱えているものではない。だから ただの理念か?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 聖書なら アダムとエワの自由意志の問題として描いているところです。その点 タオイズムでは どうなっているのか? 知りたいところです。

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