学問における自殺の考え方

このQ&Aのポイント
  • 学問において自殺の是非について言及しているかは、基本的にはしていないと考えられます。
  • 現代日本の一般常識や精神医学では、自殺は悪いと考えられていますが、精神医学以外の学問ではどう考えられているかは不明です。
  • 文学や哲学においては、自殺に対する考え方が多様であり、必ずしも自殺=悪いとは言えません。
回答を見る
  • ベストアンサー

学問は自殺をどう考えますか

高校までの勉強は(国英社数理) 基本的に自殺の是非について言及していないと思います。 大学以降の各学問は自殺をどう考えますか。 現代日本の一般常識や精神医学は自殺=悪いと考えると思います。 精神医学以外の学問はどうでしょうか。 余談 夏目漱石の小説の「こころ」でKという人間が自殺をしました。 芥川龍之介と太宰治は作者自身が自殺をしました。 ところがそれらの作者の小説の文庫本の巻末の大学教授の解説には 作者本人や作中人物の自殺に関して 「自殺=悪い」「自殺=心の病気」などと書いていない気がします。 ですから文学は自殺をどう考えるのかなと思いました。 近所の知人から哲学は常識を疑うものだと聞いた事があります。 哲学者のフーコーは自身が自殺したそうですし 彼の思想は反精神医学的な一面があると聞きました。 ですから哲学は自殺をどう考えるのかなと思いました。

noname#205480
noname#205480

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • kohichiro
  • ベストアンサー率21% (306/1447)
回答No.3

法律には自殺についての言及はされていません。良いか悪いかという判断は当人に任されていると考えていいと思います。当人が「自分は死ななければならない」と考えたら、死んでよし、という自由が許されているということでしょう。もちろん残された家族縁戚はおおむねひどい迷惑を被るわけですが、当人がそれでよければ今の自由社会は死者である自殺人を罰することはないのです。西洋(キリスト教9ははっきり自殺を罪と断じて居ます。普通に葬式を出すこともできません(しかし自殺者は出ていますが)。東洋の哲学はこれに関しては鷹揚です。日本では、特に侍社会でははらきり、殉死など、むしろこれを美化する文化がありましたから、自殺は(その理由があきらかであるならば)社会的に悪いものとは考えられていないとおもわれます。 にもかかわらず迷惑だという考えが現代にあるのは、やはり自殺そのものが普通ではないからでしょう。基本的に人間は生物であり、自死することはありえないので、原因が分かりにくい(切実なものではないと考えられる)多くの場合それは精神的な病いの発作だとされ、何らかの不明な因子(超真理的なものも含めて)の作用として恐れられる、まあタブー的なものがあるということではないでしょうか。その大きな部分は自殺者が人間の生を否定したということ、われわれに対する叛乱という意味から生じるものだと考えられます。

noname#205480
質問者

お礼

ありがとうございます。 法律的には自殺の善悪は書かれていないっぽいですね。 意外と西洋よりも東洋の方が自殺に対して鷹揚なのかもしれないですね。

その他の回答 (2)

  • SPROCKETER
  • ベストアンサー率26% (2013/7503)
回答No.2

 本能で生きている動物は自殺しませんよね。人間だけが自殺するわけですから、知能の発達が自殺に結び付いているのは間違いないだろうと思います。  動物は苦しんでも死のうとは考えませんが、人間は苦しむよりも死ぬ方が楽だと考える動物であるようです。なぜ、死ぬ方が楽なのかはわかっていませんが、死を知っているような錯覚を起こすのは人間だけのようです。  人間であれ、動物であれ、自分の死を知る方法はありません。死んだ自分を想像する事は出来ても、死を体験するのは不可能です。自分の死がどういうものかを知っている人はいません。仮想現実で作り上げられた死の世界を信じ込んでいるから、死を選ぶのではないでしょうか。  死が理解出来ない人間に比べて、パソコンは電源を切られた状態が死ですから、死んだり、生き返ったりを繰り返している機械です。パソコンにとっての死は、電流が流れていない状態であって、電流が流れれば生き返る立場にあります。  それに対して、人間の死は血液の循環が止まれば、細胞が壊死を始め、血液の再循環が始まっても生き返る事はありません。機械とは違って、再起動出来ないのが人間の死です。  ゲームやアニメにのめり込んでいる人達は、機械的な死を信じ込んでいて、死とは何かがわかっていないようです。人間の死は壊れたパソコンとは大きく異なります。  人間の死を要約して考えるならば、60兆個の細胞が自己組織化された一つの世界が終わりを迎えるのが人間の死です。一つの惑星上に生まれた文明が滅びるのと同じに考えて良いと思います。  人間の脳が死んで、意識や記憶されている情報が失われるのは、惑星上に構築された文明の遺跡、遺産、歴史の全てが無に帰るのと同じです。地球が滅びるのと同じぐらい、死によって失われるものは大きいのです。  パソコンに蓄積された情報はバックアップが残してあれば、世代交代を重ねながら情報を保存し、継承して行くのが可能ですが、人間の記憶はパソコンのような事が出来ないのです。死ねば、脳の記憶は全て失われ、復元する方法はありません。  私たちが少しでも情報を残そうとして、パソコンに情報を蓄積し、バックアップを保存しているのは、死ねば失われる情報を少しでも残して置きたいからですし、インターネットに書き込んでいるのも、自己の存在を残して置きたいからです。  人間の記憶や人間そのものをコンピュータに保存して残せる時代になったら、死に関する価値観が大きく変わると思います。人生に挫折したら、今までの情報を全てコンピュータに保存して死を選ぶ人が珍しくなくなるでしょう。  少なくとも、現在は、そんな便利な時代ではありません。死ねば、脳の中の情報は何も残せない状況が今後も続くのは間違いないでしょう。情報量が膨大だからです。  コンピュータ技術の進歩で、人生の多くの情報をパソコンに保存して残せる時代にはなりましたが、生まれた時から死ぬまでの写真やビデオを大量に残すのが可能になったと言っても、数TBぐらいの情報量です。  写真で数百万枚、DVDビデオで数千時間でしかありません。それで人生の全てを保存したとは言えないでしょう。人間が生まれてから死ぬまで、一日に2時間、テレビを見続けるとしたら、90年間で65700時間も見ている計算になります。パソコンに保存出来るのは、この中のほんの一部に過ぎません。  意識していない時間も脳は情報処理を続けています。夢の記憶も脳の情報処理の一部です。その全てを保存する技術が発明されない限り、脳の記憶を全て保存したとは言えません。  パソコンに大量の情報を残して死んだとしても、その人に関して全てがわかるわけではありません。脳に記憶された情報は死ぬ時に全て失われてしまい、永遠にわからないままになるのです。

noname#205480
質問者

お礼

ありがとうございます。 そういう時代が来たらいいと思いますが そういう時代が来たら人間の価値観って変わるのでしょうかね。

  • dsdna
  • ベストアンサー率24% (308/1281)
回答No.1

 >大学以降の各学問は自殺をどう考えますか。  どうも考えていない。  そもそも、学問で扱うものではない。

noname#205480
質問者

お礼

ありがとうございます。 理系の数学などの学問は確かにそうでしょうけど、 文系の人間に関する学問はどうでしょうね。

関連するQ&A

  • 文学作品は、なぜ自殺はいけないと言わないのか?

    夏目漱石の「こころ」で、 登場人物のKと先生が自殺しますが、 作品の中に於いて自殺は絶対に駄目だというメッセージを、 全く発していないと思います。 芥川龍之介や太宰治の作品でも、 同様の事を感じます。 自殺を考える登場人物を説教して生きさせるという、 ストーリーではないですよね。 芥川龍之介や太宰治の作品や伝記を読んでも、 自殺を悪い事だと思っていないような印象を感じます。 こういう自殺を否定的に扱っていないような作品を、 高校の教科書に載せて授業で教えて良いのでしょうか。 そして自殺を否定していないのに、 文学作品として評価して良いのでしょうか。 それとも昔は自殺はダメという考えが薄いような、 社会だったのでしょうか。

  • 太宰治 人間失格について

    先日、太宰治の人間失格を読んでなんとも言えぬ感情を味わいました。 しかし巻末の年表を見て本編以上の衝撃を受けました。 予備知識まったく無く読んだもので太宰作品も教科書で走れメロス、富岳百景の二作しか読んだ事がありませんでした。 議員の父、人妻との自殺未遂、麻薬中毒。この小説は太宰治の自伝なのだと始めてわかりました。 そしてこの小説を書いた直後に太宰治は人妻と心中しています。 そこで質問があります。もちろん皆様自身の考えで結構です。 なぜ太宰治は人生の最後に自分の自伝的な小説を書いたのでしょうか? また人間失格で主人公は幸せとはいかなくても人生に絶望したり未来が見えないと言った終わり方ではありませんでした。 ではなぜ太宰治は死を選んだのでしょうか? それとこれも心中の直前に書いた桜桃という小説についても意見をお願いします。 自分は太宰治を数作しか読んでなく、こんな質問をする資格はないかもしれないですがどうか教えてください。

  • 自殺をどう思いますか

    皆さんは自殺をどう考えますか。 否定的な見解を考えてみるに、まず反省の機会がない人殺しだと云えます。 とはいえ、人殺しにも区別があり、実際に裁判では老々介護による委託殺人のようなものは実刑ではないですし、自殺は少なくとも無差別殺人ではなく、さらには突発的な怒りからの殺人とも違います。 一概に自殺と云っても、年齢や思考過程による違いはあると感じますか? 例えば、太宰が(本当に死ぬ気があったのかは知らないですが)未遂ではなく死ぬのに成功していたら、彼の実際の最期とは彼自身も彼の周りも全く違っていました。 また、その太宰の自殺と、不謹慎ではありますがいじめによる学生の自殺を比較しても、その性質は異なると思います。 芥川の自殺と、悪行がバレて会社が倒産してしまいメディアにも追いかけられる予定だった企業の社長が自殺したと仮定して、それらを比較しても、その性質は異なる気がします。 同じく企業の倒産が大きな要因か最後のきっかけになったと考えられる自殺でも、地道にやってきたけれど為替の影響で倒産し保険金を得る為に自殺した方とでは同じでないような気もします、が、わかりません。 ちなみに私はそういった状況にある身ではありません。 個人的な印象の話で哲学とは反しますが、例えば三島由紀夫は自身は自害しましたが、その直前に彼は自衛官を斬りつける計画的なテロ行為にさえ及んでいます。 テロなので政治色が強く参考にはならないかもわかりませんが、率直に申しまして、三島の文章は美しいですし、喋っている映像を見ても内容もですが眼差しが人間として素敵で、彼を浅はかな人間だとは全く思えず、むしろ逆の印象です。 (私は特別に三島由紀夫が好きなわけでも、三島由紀夫や自殺に憧れたこともありません) 様々なご意見を頂戴願います。 「本人が死にたいのなら死ねばいい」というような回答でも何でも結構ですが、本気で思っておられる回答のみでお願いします。 心理学でも別の質問を致します。

  • 興味のある分野が、学問として学べるものなのかどうかわかりません。

    興味のある分野が、学問として学べるものなのかどうかわかりません。 私は人間の(心の)動きに興味があります。ですが、関心があるのは異常時の心理や行動なのです。 たとえば ・バスジャック時の乗客の動揺 ・密室における人間の行動 ・立てこもり犯人と人質との交流 ≪ストックホルム症候群≫ ・冬山などでの遭難者の心情 ・戦時中の兵士の葛藤や、恐怖 などなど。 私の関心分野のニュアンスを理解してもらえればよいのですが……。 こうしたものは学問として学ぶことができるのでしょうか? 友人に聞いたところ、答えは『心理学』『行動学』『小説を読め』『医学』とまちまちでした。 たしかにどの分野でも正しい気がするのですが、これら全てを扱っている学問はありませんでしょうか? もしくは、それに類似している学問はありませんでしょうか? どなたか答えをお持ちの方がいましたら、ぜひ回答の方をよろしくお願いします。

  • 病と哲学

    よろしくお願いします!とにかくなにか学びたい気持ちです。 私は昔から持病を患っています。 今の医学では治すことができない病気ですが、自然に治っている人もいます。 そこでなにが言いたいのかといいますと、持病に正直今かなり苦しんでいます。 しかし、このまま負けるわけにはもちろんいきませんし、自分自身の心で打ち勝つしか、光明はないと考えていますが、病気自体の作用が、精神的に影響が大きく(イライラしたり、反対に落ち込みまくったり、髪の毛が抜けまくったり、体力的にかなりダウンしたり)精神安定剤を飲んでないとやってられないという感じですが、今現在はひかえています。 私自身、哲学には興味が前々からありますし、哲学は病気に負けない心を築く絶好の学問だと思っていますが、毎日、病の辛さを繰り返す日々に少々疲れ、自分を見失っているのが本音です。 なにかアドバイス頂きたいです。

  • 宗教・哲学の自殺観

    かつて親しい人をふたり自殺によって失ったものとして、 また自身、中程度の精神・情緒障害を持つものとしてお聞きします。 1. カルト、新興宗教を除き、「自殺」を「悪」「罪」としない、或いは消極的ながらも容認している宗教(宗教家)は存在するのでしょうか? 2.古今東西、自殺を容認した「哲学者」「思想家」などは存在しますか? 3.数多の自殺否定論の内、その根拠として「公共の迷惑」を挙げた思想家は誰でしょうか?

  • これは精神病??

    私は大学生なのですが、大学に入って人間関係がうまくいかず、また太宰治や芥川龍之介など明治・大正の文学(主人公が自殺するものなど、暗いモノばかり)にどっぷりハマってしまい、精神面がどんどん内に内にいってしまっていて、不意に死にたくなります。芥川龍之介の自殺の理由「ただぼんやりとした不安」が切に理解できてしまうという状態です。 また誰のことも信用できず、「どうせ私なんか…」とばかり思い続けて生活しています。非常に厭世的できれい事を聞くとイライラします。無性に友人たちがわずらわしくなり全員と縁を切って一人になりたいと思ってしまうこともあります。 これは何か精神的病気なのでしょうか? 今まではこんなに精神が不安定になったことはありません。鬱ではないと思うのですが…。 (ちなみに家庭環境にもそれほどひどい問題はないですし、友人もそれなりにいます。)

  • 映画や小説の主人公になり切ってしまう妄想

    知り合いに小説のヒロインに自分自身をオーバーラップしてしまう人がいます。その小説はヒロインが不倫の果てに自殺を遂げてしまうという内容です。知り合いの女性は身も心もそのヒロインになり切っています。たとえばファッションや言動を実生活で再現しているような感じです。もちろん不倫もしていて相手はやはり小説に出てくるタイプの男性です。このままいくと最後は小説のヒロインと同じように自殺してしまうんじゃないかと心配してます。 ところで彼女のように映画や小説のヒロインになり切って実生活においてそのヒロインを再現してしまう(思想や言動も)のは精神医学や心理学ではどのような病名(?)がつくのでしょうか。

  • 心理学・哲学・精神医学の区分について

    心理学・哲学・精神医学の区分について質問です。 普段なんとなく使い分けているこの3つの言葉ですが、この質問箱の心理学・哲学・メンタルヘルスカテゴリーを眺めていてカテ違いではないかと感じることが多く、この疑問が湧いてきました。 ・学問的な区分定義があるのでしょうか? ・この質問箱での慣用的な区分に関するコンセンサスはあるのでしょうか? ・情報処理用語でいうところの、プログラム仕様が心理学、プログラムの中身が哲学、エラーとその対策が精神医学という比喩に妥当性はありますか? 質問を羅列してしまいましたが、3つの?のうち何れかで1つでも結構ですのでご意見・ご回答をお待ちしております。

  • 心理学に「力」はありますか?

    心理学ファンです。 最近、強い疑問が起こってきました。 心理学や精神分析の勉強をする人のなかには自分自身の根深い精神的問題がキッカケで始めた人も多いらしいのですが、では、こうした人たちは心理学を自身のために役立てることができているのでしょうか? できていないとしたら他人に対しても、その学問は使えないということではありませんか? いくら勉強しても現実に役立てることができないのだとしたら学問として存在する価値はあるのでしょうか?哲学と同じことだと考えたらいいのでしょうか? 心理学は自分に対する「言い訳」のための学問になってしまうのだろうか…と不審に思うこの頃です。