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滅びる者にとっても キリストの良い香りと言うのは

Y  Y(@yy8yy8az)の回答

回答No.4

 救いの道をたどる者=《涅槃の世界を目指す者》にとっても、滅びの道をたどる者=《輪廻の世界にさまよう者》にとってもわたしたちはキリストによって神に献げられる=《菩薩の救いによって成仏できる》良い香りです=《生命・尊い命、です》。  滅びる者=《輪廻の世界に留まる者》には死から死に至らせる=《転生し続ける》香り=《命》であり、救われる者=《神を念じる者》には命から命に至らせる香り=《永遠と云う生命》です。  このように受け止めてみました。    今はこれを私の回答といたします。  ☆ 仏教とキリスト教は合体“すべき”です。

bragelonne
質問者

お礼

 ありがとうございます。  考え方として 方程式にきちんとはまっていると思います。  けれども 疑問は のこります。  1. とにかくわたしたち自身が それぞれ《香り》である。  2. ということは  ★ 滅びる者=《輪廻の世界に留まる者》には死から死に至らせる=《転生し続ける》香り=《命》であり  ☆ というところで たとえば こう書き直したほうがよいのではないかという疑問です。  3. すなわち   ○ 滅びる者=《輪廻の世界に留まる者》には 一たん 死から死に至らせる=《転生し続ける》香り=《命》であり しかもその死の手前で(または 途中で) 引き返すようにみちびく香りである。  となるのではないか? です。  4. 《よい香り》が 一たん わるい道へとうながし しかるべき途中で U ターンするようにとみちびく。こういったかたちにはならないのか? です。  ★☆ 仏教とキリスト教は合体“すべき”です。  ☆ これは だいじょうぶです。《神》は ひとつですから。

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