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文明国の定義は、これで間違いないですよね?
wiz0621の回答
- wiz0621
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やはり、いくつか誤解があるようですので、何点かおさらいしてみましょう。 まず、繰り返しになってしまいますが ウェストファリア条約で『文明国でないもの(ヨーロッパの因習によらないもの)を除外』 する、という条文は”ありません。” ちなみに、この条約上の参加要件として文明国か否かを基準とするのは前回回答のとおり 19世紀の、しかも受け入れられたのは東アジア限定というローカル思想ですので、 当然ながら今日の国際社会では通用しません。 これについては国連憲章第2条1項、そして特にアフリカの独立承認問題で 議論された話題なので、もし興味があれば1950年以降のアフリカの 民主主義成立過程を調べてみることをお勧めします。 もう一つ質問者さんが主張されている、決定されたことに対する抗弁は認められない という条文上の定義は第二条と第百二十一条にあります。 さらに、条約を締結した上でその条文を破ろうとする者を何と呼称し、どう扱うかは 第百二十三条から百二十五条までに記載があります。 ですから、"条約を守らない者""主権に干渉するもの"については、 この条文の定義通りに扱っても良いわけです。 この考え方については国連憲章の第七章、八章にも承継されています。 もし、この定義の上で、 でさらにウエストファリア条約が、非文明国の参加除外を定義している、 というのであれば第何条に記載されているのか、書いていただけないでしょうか。 おそらく質問者さんが誤解しているこの点についても予想できますので、 それを詳らかにした上でもう一度だけ改めてサービスで解説します。 しかし私がwikiに記事を書くときに、基本的に、という言葉を使う場合は 原理原則のことを指していたんですが、基本的に、という文節だけで、 質問者さんのように独自解釈の想像を膨らませうる、 というのもとても面白いなぁと思います。 ただ、共通理解の前提となる"定義"という言葉には、こういった 個性や感性が入り込む余地を排除しなければならないので、 他の回答者のみなさんも慎重になるんじゃないでしょうか。
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