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漠然とした想いを言葉にするには

fuukakouの回答

  • fuukakou
  • ベストアンサー率22% (200/870)
回答No.6

考えの方で ぐるぐる考えたら、とりあえず考えを整理するためにアウトプット、文章にしてみては? で、それを元に更に考え、またアウトプット これを繰り返す。 このアウトプット作業って結構大事ですよ。 まとまらなくても、とりあえず書き出す。 書いてる内にまとまって来るってありますから。 ついでに… 言葉が大事って、割と西洋的な考えじゃないかな? まず言葉ありき、「はじめに言葉があった~」な感じのキリスト教の教えがあったと思うし… 言葉にならないもの それは存在しない・または大したものではない 的な ロゴスの世界ね で、日本では、言葉にならないものを尊ぶところがありますよね。 行間を読むとか、感情にゆだねるところが 「嬉しくて 言葉にならない♪」の歌詞はみんなグッとくる ところがあると思うんですよ、日本では。 「素直に言葉に出来ない♪ つなみのような~♪」とかも。 この辺は詩作の方が向いてそう。 情景を描くことで、そこにある強い思いを 言葉にせずに…な所とか、単純な言葉に万感の思いを込めるとか(なごり雪なんかそうですよね オフコース さよなら とかも) 本当の強い思いは言葉で表せるものではないといった感覚がありそう。 とりあえず、書き出してみるといいと思います

frau
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >言葉にならないもの それは存在しない・または大したものではない 的な ロゴスの世界ね 言葉=ロゴスですが?言葉にならないものは混沌(カオス)の方だと思いますが。 ANo.4の方は「言葉が先ではありません。」とおっしゃっていますが、こういう悩みをもつと、この「初めに言葉ありき」をしみじみと思い出します。 >「嬉しくて 言葉にならない♪」 まさにこういうのを言葉にしたい!のですが… 言葉にならないくらい嬉しいと言われても、どんな風に嬉しかったのかを聞きたいのですのよ。言葉にしてもらえばさらに感動を共有できると思うのです。 詩はさらに漠然としてどちらかというと主観的な世界ですから、その詞に感動した人は「たぶん作者がそう捉えたであろう世界に共感できる」というような、主観よりの感じ方で作者と通じたいのだろうかなと。 ともあれ、アウトプット!ですね。

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