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知るは楽しいは 馬の鼻先の人参か?
fuukakouの回答
- fuukakou
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お礼ありがとうございます。 お互いにこっそり親切にし合う社会。それはそれで良さそうですよね。これもありだと思います。中間だけでなく。 あの後考えてみました。 ”自分の中で既に決まってる自分の良い評価” を周りに 自分と同じように評価することを求める のがマズイのかな?と。 これがダメな気がします。 イコールになる訳ないものを求め続ければ周りからは嫌な人に… 評価されることそのものを目標にしちゃうと似た罠にはまりそう。 自分が求めるところに行かないと(自分がされたい評価は既に決まってるわけですから)イライラしたり、逆にこれでもかこれでもかとエスカレートしたり、とってもオドオドしたりしそう。 自分の評価は自分自身がくだすものと、周りがするものがあって、イコールにはならんがな。どれも合っててどれも外れてるのが普通じゃね? が判んないと苦労しそうですよね、自分も周りも。そして常に変動するものだという事も。 自己満足で完結すると、成長しなかったり周りからの評価の低さ気が付かないで暴走されたり問題がありますね、自己評価…でも自己完結してくれた方が安全な方もいるからなぁ。難しい… 陰でいい事…可能性の一つを思いつきました。 ひょっとしたら、お返しをされてしまうの嫌なのかな?と思いました。 お返し文化があるから。これ始まったらどこで区切っていいかよく判らず、延々と続き、イーブンでありながら借りが出来てるように感じる世界… ちょっとした親切心がこのサイクルに入るのを防止したいとか。 お返しをされると、そんなつもりでは…相手に迷惑をかけたのでは…と、行い評価がマイナス方向に行きそうな気もするし。 親切にしたい、でも自分が心苦しい気持ちになりたくない。ならこっそりと。陰で。匿名で…と言うのもありそうな気がしました。 有名になってその後生きづらいっていうのもなんか正しいような気がします(笑)
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ご回答をありがとうございます。 ★ ”自分の中で既に決まってる自分の良い評価” を周りに 自分と同じように評価することを求める のがマズイのかな?と。 ☆ いや それは 《求める》のではなく 《問えばよい》のではないですか? きちんと 相手にたいして 《どう思いますか?》と問うてみるとよい。 ということは そのように互いに問うて対話しあうその前に 自分だけで 自分の考えやおこないは良いものであると決めつけるのが のぞましくはない。となりませんか? もっとも 誰もが 自分のことがかわいい。ので 自分をひいき目に見てしまう。 ★ 自分がされたい評価は既に決まってるわけですから ☆ すでにかなり自信を持って 決まっていると思っている場合には なかなか自説を曲げないようです。人間は。 それに わたしはいま ○【Q:赤っ恥ぢを厭うなかれと 哲学の門に書かれては】 ~~~ いなかっただろうか? 哲学の門をくぐるとき あらゆる赤っ恥ぢを覚悟して進み入れと書かれていなかったのだろうか? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ という質問を挙げていますが 人は 自説が批判をされることを嫌いますから。批判が当たっていると 赤っ恥ぢを掻きますから これを避けようとします。 だから 考えてみると 自分の自己評価を ひとに話してこれを問うというのも あまりしないのかも知れません。ただ 哲学だという場合にしか 人間の内面にかかわる話は しないのかも知れません。 ということは 自己診断したものが そのまま自分の中でとどまり 何かと膨張しがちになるのかも知れません。自分がかわいいですから。 ★ 陰でいい事…可能性の一つを思いつきました。 / ひょっとしたら、お返しをされてしまうの嫌なのかな?と思いました。 ☆ なるほど。一般に贈与を受けると お返しをしなくてはと思うのが ふつうですね。これが ややもすると《負い目》に感じられてしまうことさえあるようです。 そういう感じを持ってもらうことのないように 陰でいいことをする。なるほどですね。相手に知られずに ことを済ませる。そうかも知れないですね。 ★ ちょっとした親切心がこの〔* お返し合戦のような〕サイクルに入るのを防止したいとか。 ★ 有名になってその後生きづらいっていうのもなんか正しいような気がします(笑) ☆ まあまあまあ。・・・