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後水尾天皇

後水尾天皇はなぜ女帝に譲位するというリスクを冒してまで退位したのでしょうか? 幕府への対抗という意地があったにせよ息子だっていたわけだし あえて明正天皇に譲位する必要も無かった気がするのですが

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  • ベストアンサー
  • suicyo
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回答No.2

後水尾天皇の後宮を見ると、半数が徳川和子と同年齢か年上なんですね。にもかかわらず、徳川和子の入内以前に生まれた皇子女はおよつ御寮人の1男1女のみで、およつ御寮人は追放され皇子は皇室の系譜からも消されます。この時、後水尾天皇は20代前半。 徳川和子は入内後10年、すなわち明正女帝即位までの間に2男3女を産みますが、この間、他の宮女との間には皇子女は生まれていません。この間、後水尾天皇は20代前半~30代前半。 明正女帝即位ののち、25年の間に後水尾上皇は5人の宮女との間に少なくとも16男11女を儲けます。この間、後水尾天皇は30代前半~50代後半。 後水尾天皇の皇子女の、このような不自然な生まれ方は当時から種々の憶測?を生んでおり、小説のネタにもされていますね。 いわく、徳川秀忠の指示により、徳川和子以外の宮女が妊娠した場合は「処置」されていたのだ‥ いやいや、妊娠した宮女が身の危険にさらされると考えた後水尾天皇が、そもそも宮女たちに手を付けなかったのだ。一方、徳川和子の産んだ2皇子が早世したのは、徳川家が新たな摂関家となることを恐れた公家勢力、或いは後水尾天皇自身の手で「処置」されたのだ‥ 明正女帝の即位も、その後の徳川和子の出産が皇女だけだったのも、天皇家に徳川の血が混ざって継承されることを阻止する明確な意思表示だ‥ いづれにせよ、5歳の幼女を即位させたのは後水尾上皇の徳川秀忠に対する強硬な当てつけであったことに疑いの余地はありません。ご要望どおり、徳川の血をひく天皇を出してやったぞ!感謝しろ!でも、一代かぎりのお人形だぞ!文句あるか!!!

azuki-7
質問者

お礼

ありがとうございます

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  • ithi
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回答No.1

azuki-7 さん、こんばんわ。 ところが、明正天皇即位時には出家させられた側室であった四辻与津子以外には東福門院の早世した皇子二人以外いないのです。その皇子も早世しました。だから、適当な人は明正帝しかいなかったのです。即位時には後水尾上皇が院政を敷く体制でしたから、問題はなかったのです。ただ、譲位をしたのはそれだけ紫衣事件の与えた後水尾上皇のショックや怒りが尋常ではなかったのでしょう。天皇が出した紫衣勅許を幕府が停止させたのですから、天皇の命令よりも幕府の命令が上回ったというのですから、朝幕関係が逆転したといっても過言ではありません。 幕府は朝幕関係は当初、天皇に徳川氏の皇子を即位させて、外戚になる計画でしたが、徳川氏の血筋の天皇から徳川将軍家に対していろいろ注文を付けられるのが都合がよくないという判断が有力になったからだといわれています。 詳細は下記のURLを参照ください。 明正天皇 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%AD%A3%E5%A4%A9%E7%9A%87 後水尾天皇 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E6%B0%B4%E5%B0%BE%E5%A4%A9%E7%9A%87 紫衣事件 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%AB%E8%A1%A3%E4%BA%8B%E4%BB%B6

azuki-7
質問者

お礼

ありがとうございます

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