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真剣に悩んでいます。

昨日、東京都杉並区の図書館で「アンネの日記」が破かれていた、という事件を思い出しました。ニュースで聞いた時にはビックリし、信じられないと思いました。ですが、たとえばの話です。私がもし犯人から「なぜ図書館の本を破いたらいけないのか?」と聞かれたとしたら、納得の行く答えが見つかりません。もちろん、公共の場の物であり、多くの人々が大切にしているからであることは分かります。しかし、「公共の場の物だから何?」「本なんてたかが紙切れ。それを破いて何がいけないの?そんなの読んで、何がいいの?」と今までに思ったことのない言葉が頭の中を過ぎりました。いつの日か、「本なんて、破いてもいいじゃん」と思う自分になってしまうのかと思い、怖くなります。 それだけではありません。昨日、仕事の後に母と待ち合わせし、一緒に帰りました。交通手段は、電車を使います。ホームまでの階段を下っていた時、母を後ろから突き落とそうとする自分が浮かびました。いつか自分が犯罪者になってしまうのかと思うと、本当に恐怖です。 本のことも、母を突き落とすこともダメであると分かる今のうちに、どうにかしたいです。真剣に悩んでいますので、「それが犯罪者になる前触れ」などと言った、誹謗中傷はお断りします。何かいい解決策がありましたら、ぜひお願いします。

みんなの回答

noname#227653
noname#227653
回答No.3

ええっと、大丈夫ですか。かなり心が疲れているのではないかと心配になりました。 まず「図書館の本を破いてはいけない」という常識に対する反論として「公共のものだから何?」だの「たかが紙切れ」を「破いて何が悪いの?」だの「そんなの読んで、何がいいの?」だのではまるで理屈になっていないということはわかりますか。 「だから何?」は「『だから何』って何?」という感じですし、「何が悪いの?」はまるで小学生がごねているみたいですし、「そんなの読んで、何がいいの?」については「じゃお前が読まなければいいだろう」で終わってしまいます。どれも図書館の本を破いてもいい理由にはまったくなっていませんよね。 あなたが図書館の本を破いてはいけないのは、それがあなたのものではないからです。あなたが図書館の本を破いてはいけないのは、あなたが友達のシャーペンを壊したりスーパーのポテトチップスをお金を払わずに持って帰ってしまったりしてはいけないのと同じです。 ではどうしてそれらがいけないことかというと、今の社会では「財産権」というものが認められていて、自分の持ち物は自分が自由に使ったり壊したり捨てたりしていいけれど、他人の持ち物を勝手に使ったり捨てたり壊したりしてはいけないからです。 ではどうして財産権が認められているかというと、これはきちんと説明すると長くなってしまうので、財産権を認めた方が人々が安心して暮らせ、社会が豊かになるから、ということにとどめておきます。財産権がないと、自分が買った家に他人が勝手に入ってきて暮らし始めたとしても文句が言えなくなってしまいますし、頑張って働いて貯めたお金を他人が勝手に使ってもいいことになったら真面目に働く気になれない人が増えてしまいそうです。この社会は「強い者が得をする」「怠け者が得をする」社会になってしまうでしょう。 人を殺すことについてはあなたも悪いことだと思ってはいるのでしょうからここでは触れずにおきます。 それに、図書館の本を破ることについても、実際にはあなたはそれが悪いことだとわかってはいるのでしょう。 それなのになぜか心の中でそういう悪いことを認めたいような衝動にかられたり、悪いことをしている自分の姿を想像してしまったりするのですね。そしてそのことについて真剣に悩んでいるのですね。 とすると冒頭にも書いたように、何かが原因で心が疲れているのではありませんか。 あるいはこれまで「悪いことをしてはいけない」という気持ちを強く持っていきてきた、というようなことはありませんか。 いろいろ我慢して生きてきたとか、言いたいことを言えずに過ごしてきた、というようなことはないでしょうか。 お父さんまたはお母さんに厳しくしつけれられて育ってきたとか。 そういった事情で自分の心を押さえつけながら生きてきたとすると、押さえつけられてきたその心がそのようなかたちで噴き出していているのかもしれません。 そのあたりについては当然ながら私にはまったくわかりませんが、もし何か思い当たることがあるなら、そういう自分について少し考えてみてはどうでしょう。心がゆったりすればそんなことはあまり考えなくなると思いますし、たまにはそういう気持ちになったり自分が悪事を働いている場面を想像したりしてもあまり気にならなくなるでしょう。 ちなみに、善悪の判断が次第につかなくなってしまう、などという病気はないので、あなたがやがてお母さんを突き落としてはいけないといういことがわからなくなってしまう、というようなことはないと思いますよ。

Malene
質問者

お礼

お礼がとても遅くなり、申し訳ございません。確かに、「公共の物だから何?」「本なんてたかが紙切れ」などは理屈にならないと自分でも思いました。そして、両親にとても厳しくしつけられました。その事が今に役立っていると感じますので、それが悪い自分を想像してしまう原因ではないと思います。しかし、反抗期がなかったため、抑えて来た反抗心がたまに吹き出しそうになります。「反抗できないほどに親がきびしかったから、親を殺す」など、もちろん考えてはいません。今は、心が落ち着いています。ですが、悪事を想像してしまう自分に対する、恐怖心は今でも無くなっていません。そして、また新たに気がつきました。フォークを握った時、そのフォークを自分の目に突き刺したところを想像してしまいます。もう少し心をリラックスし、リフレッシュする必要があるかもしれません。ご回答頂き、ありがとうございました。

回答No.2

そのような疑問を持つことは、必ずしもおかしなことではないと思います。 むしろ、「なぜだめなのか?」を、普遍的な価値に結びつけて理解しようとすると、価値が多様化している時代においては、答えが見つからないのが普通です。 だから、法律では、「価値があろうがなかろうが、ものを壊したらだめ」という立場をとるわけです。 まあ、さらに考えを進めると、たとえば、本は「紙切れ」として考えると価値はないのですが、その情報にこそ価値があるということに考えが進むと思います。 ただ、この場合にも、『アンネの日記』というものに書かれている内容について、反対の立場をとったり不快に思う人も、確かに存在はするわけです。 しかし、法律的にいえば、「自分が価値を認めないものであっても、壊してはダメ」という立場になりますし、道徳的にいえば、「自分にとって価値はなくても、それに価値を認める人の意思を尊重しよう」ということになります。 最初に戻ると、本を「紙の束」と考えると、確かに破ってもいいわけです。 それは、一方では、「紙の束」という、本の持つ側面に気づいたと言えなくもありません。 いろいろな側面がありますから、ある側面を取り上げるだけでは、否定も肯定もできないという、それに気づいたというところではないかと思います。 ※実際には、「本は紙切れ」という立場をとったとしても、その本を作るために使われた資源の価値をどうとらえるのかといういろいろな発展はあって、一概に、「本は紙切れ」という立場でも、「価値はない」とは言えないのですが。

Malene
質問者

お礼

ご回答を頂きまして、ありがとうございます。自分でも、あまり気にする必要はないのではないかとも思います。しかし、このような悪事が頭に浮かんだ事で、仕事に対するやる気を失いつつあります。もちろん、仕事にエゴを持ち込むべきではないので、何とか影響が出ないようにしています。まだまだ、自分の中で葛藤が続きそうです。どうもありがとうございました。

回答No.1

本は器物破損罪です。 母は、生き残って障害もしくは殺人未遂、もし死んじゃったら殺人です。 感情コントロールが難しければ刑法勉強してそれで判断してみては?

Malene
質問者

お礼

ご回答頂きまして、ありがとうございます。自分は本当に犯罪者になる可能性があるのかを確かめるために、ネットで犯罪心理学について調べることにしました。検索候補一覧に、犯罪心理学テストと出てきました。様々な殺人犯罪についての質問があり、サイコパスと同じ答えであったのならば、自分も精神的異常者である可能性があるというテストです。開いて読んでみました。もちろんサイコパスと同じ答えにはなりませんでしたし、サイコパスの答えを見て衝撃を受けましたので、まだまだ自分は正常であると思います。しかし、まだいつも通りに明るい気持ちには戻れません。もっと、真剣に生きなくてはなりませんね。ありがとうございました。

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