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何を信じて生きていますか?

宗教や哲学、科学や合理主義など、様々な価値観を心の拠り所にして 人間は生きているのだと思いますが、皆さんは何を信じて生きていますか? また、人は何かを信じて生きる必要があると思いますか?

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回答No.5

 こんにちは。   1 太宰治ではないけれど わたしは萎縮していた。  わたしが萎縮していたのは 抵抗力の現われである。  萎縮という反応じたいが わたしに与えられたわが抵抗力である。  2 わが日本人は 勇敢にも不仕合わせに耐えている。  萎縮しない。  3 だが もしそうだとすれば わたしから見れば そこに抵抗力はない。  4 いや抵抗力があって強いからそうなのだと言うとすれば 互いの仕合わせは すでに諦め 放棄したからだ。自分自身のそれは 放棄していないかもしれない。  5 ここでいう仕合わせとは シンライカンケイのことだ。  6 だから実際には 自分自身の仕合わせ自体は放棄していないというのは ありえない。自己矛盾なり。カンケイなのだから。  7 そもそも〔根はいい人だからという理由で〕人を信じたことのないわたしは そもそも人間じたいについて〔信じてくれと言われて〕信用することはできないと考えているわたしは 信頼関係に入ることについては 諦めていない。  8 たとえば 約束を守ることだ。違えるならば 訳を説明し 詫びることだ。  9 生身の人間どうしの信頼関係にひびが入るのは 実際だ。だから 修復する。諦めない。  10 欺かれるならば 萎縮する。抵抗力があるからだ。諦めていないからだ。  欺かれたというその不仕合わせに勇敢にも耐えることはできない。  存在を放棄することができないからだ。  《欺かれるならば 我れ在り。Si fallor, sum. 》だったのだ。  11 嘘と演技とで 《勇敢にも抵抗する》ことはない。シンライカンケイの破綻なる不仕合わせに勇敢にも耐えて 萎縮はせずに 大胆にも嘘と演技なる虚構のうちに立ち向かうことは しない。そうすることは 抵抗ではないからだ。そうするのは  すでに抵抗力がなくなったからで 信頼関係の修復を諦めたからで だからこそ 《果敢なる忍耐》が始まるのだ。萎縮という・存在としての抵抗は消える。  12 なぜって 虚構で破綻を修復しようというのは 修復をほんとうには諦めたからだ。  13 ましてや その破綻に輪をかけて いまのフィクションを二重・三重に膨らますことは出来ない。そうする人 そうできる人は 勇敢にもその不仕合わせに耐えようとしている。  14 破綻という事実は 取り返しのつかないことだと考えているのかもしれない。けれども その破綻の上に城を築こうという。相い対する別の人ごとに蜃気楼閣をふくらませる。  15 不仕合わせに耐える《勇気》は ストーリをこしらえる想像力の豊かさ その演技のうまさへと そこでは 《発展》する。これが 《世の中》であり 《大人の世界》だとなる。  16 不仕合わせに耐えることが出来ないという抵抗力 その能力 これが人間の能力であり この弱さを もし誇るのなら 誇ろう。  17 ぎゃくに言おう。萎縮せずに不仕合わせに耐えられるという理性のちから その強さ これは むしろ人間が人間を信じることができるという美学にもとづいている。  18 根はいい人なのだからというので 人その人については 信用することになっているという一大虚構の美学。日本人であることじたいのシュウキョウ。  19 欺かれて 欺かれるのは当然のことと受けとめたところで抵抗力をなくしたゆえ 幻想の構築に走った・・・。  20 欺かれて 人その人については信用しあっているが 信頼関係についてはその破綻をそれでよいと認めている。そこで 抵抗力を捨てた。いや そんな抵抗力など要らないと考えているのかもしれない。人自身を信用しあっているということについて 実は そのこと自体が虚構なのだから これの構築を絶えず要請される。その基盤には 社会共同のものがよい。古くは 自民党と巨人と太閤秀吉と。《強い》ものであることが要請される。  21 この強さは 死に基盤を置いている。どうせお互い いつかは死ぬ身だ。死ねば 神である。いい人であり 信用しあえる。だから 生きているうちは あるいは もし死にたくなければ えせ宗教でよいから 長いものに巻かれなさい 巻かれつつ 和を以って貴しと為せ。そうすれば 不仕合わせにも耐えられるのだよ・・・。  22 抵抗がなくなった。抵抗力が消えている。不仕合わせに耐えることが出来ないという能力が欠如している・・・状態。  この現実を見よ。

goodbrother236
質問者

お礼

人は信じることができるという虚構を信じ、抵抗力を無くした人が多いということでしょうか。 日本人はそう生きるしかないのでしょうか? 私はどちらかというと抵抗力のある人間だと思います。その上で、日本人的このシュウキョウに染まろうと躍起になっていた側面があります。現在もです。ですが勇敢に不仕合わせに耐えることもできず、適応するに値しない人間です。 長いものには巻かれろ、という日本人の性質についての興味深い考察とも思います。その背景には信頼関係の崩壊と諦めと、虚構の信頼関係の構築があったとは。確かにそうかもしれませんね。 ご回答ありがとうございました。

その他の回答 (13)

  • yuniko99
  • ベストアンサー率15% (31/204)
回答No.14

哲学者も思想家も 宗教や新興宗教もいくらか勉強してみましたが これと言うものがなかったので 自分で考えて持論を信じています 信じているということは 仮説もあって証明も出来てないということですが(^^ゞ 存在性思想と言います。

goodbrother236
質問者

お礼

人それぞれ信じるものは違って良いと思います。 何ももたない、持たせないことが問題だと思うのです。 ご回答ありがとうございました。

noname#204018
noname#204018
回答No.13

お笑いになるかもしれませんが、土地の呪いというものを信じています。 母方の実家は、よくある「男の子が短命」の家系です。長男は戦病死、 次男は障害者で独身で癌で死亡、三男は心の病で自殺です。 私は次女の息子です。私の弟は10歳で小児癌で死亡しています。 癌と精神病の家系で近親結婚が障害者を生んでいるといえばそれまでですが 問題は、土地相続が絡むと突然の病死や自殺がおきている事実です。 地元の地主でしたが農地改革で大きな区画の土地の大半は失い 残った自作農地を独占しようとした従兄弟は50代前半で心臓病 で急死しました。 私の下の弟が亡くなったは、祖母から借りた土地の所有権を贈与して もらった直後でした。弟が亡くなってまもなく3男が生まれ 私の父母が亡くなったあとわずかばかりの遺産相続で争い 弟は実家の土地建物を相続し、わたしはかわりに金融資産をもらい ました。 もとの実家の土地は道路拡幅で移転換地していたので問題ないかと 思っていましたが、換地して建替えてまもなく父が亡くなり数年後に 母もなくなりました。それだけでなく、弟が40代半ばで脳内出血で 倒れ半身不随になりました。 従姉弟の長女は不妊症。次女は脳性麻痺の障害者です。土地資産の 跡継ぎは亡くなった従弟しかいなかったのです。 こういう状況で、私が難を逃れてきたことを不思議におもわざるを えません。 母方の祖父は私が生まれる前に亡くなっていますが、どうも祖父が 私を経済的にも守ってくれている気がします。 なんとなくですけど、そんな感覚を信じています。 >また、人は何かを信じて生きる必要があると思いますか? 人の生死にかかわることに多く遭遇すると何かを信じないと 怖ろしくて生きていけません。仮のシナリオでもいいから、これで ものごとが動いていくのだというストーリーを持っているほうが 何もないより幾分かはこころ強い。

goodbrother236
質問者

お礼

確かにそれは、とても冷静ではいられない状況ですね。なんだか背筋が寒くなってきました。。 困難な状況を生きるためには、やはり何かを信じる必要があると思います。 時間が時間で、怖くてじっくり読めませんでしたが、参考になりました。 ご回答ありがとうございました。

回答No.12

 人間の可能性というものを信じたいと思っています。自分についても他人についても種としての人類に関しても。  困難に立ち向かっている時ほど信じる何かの存在というのが大事になるものだと思います。

goodbrother236
質問者

お礼

確かに、困難に立ち向かうためには信じる何かが必要だと思います。 それがないと、各々がただ保身に走るばかりで問題解決が先送りになる危険性があります。 ご回答ありがとうございました。

  • kanto-i
  • ベストアンサー率30% (180/596)
回答No.11

No3です。 お礼ありがとうございました。 確かにただ信じるのではないですね。 後ろ盾は、自分で確信を得ます。 自分を信じるに足ると思えるものを掴む。 そのために考える能力があるのだと思います。 他の人や、その他のものに与えて貰うものではないと思いますよ。

goodbrother236
質問者

お礼

自分の意思で選択したと思っていても、なんらかの外的要因があります。 話はそれますが私は人に自由意思はないと考えます。しかし人生において自分の意思で考え選択や行動をすることは重要だと捉えています。 ご回答ありがとうございました。

回答No.10

強いて言えば 今 ですね。 過去から未来を観るから心の拠り所に頼るようになります。

goodbrother236
質問者

お礼

確かに、過去にとらわれ過ぎていては思い悩むばかりで不都合ですね。 程度問題でしょう。 ご回答ありがとうございました。

回答No.9

私は何も信じておりませんが、まだこの肉体は滅んでおりません。 また、人は何かを信じて生きる必要など全くありません。 一般的に宗教者は、何らかの神を信じているそうですが、それはまだ神と一体化 出来ていない証拠に他なりません。 つまり神が「信じる」対象にしか過ぎないというのは、未だその存在を確証できて いないことの裏返しなのです。 神は幻に他ならず、むしろ神も仏も切り捨てて、何も信じないでも平気で生きることが できれば、それはひとつの悟りの境地です。 この世はブラフマンであるのみなのです。

goodbrother236
質問者

お礼

何も信じないで平気に生きる、というのは想像しがたいですね。 たぶん感情は消え失せているのではないでしょうか? ご回答ありがとうございました。

  • a_hona
  • ベストアンサー率21% (95/444)
回答No.8

特に秀でた能力もなく、努力にも疎くかと言って楽天的でもない私は、自分の弱さを信じているのかもしれない。そう、諦観のような心境で。強く固いものを信じているのではなく、弱く柔いものを。

goodbrother236
質問者

お礼

弱さを信じれば、信頼関係を重んじることができ、万事に備える心構えができるでしょう。 強く固いものばかり信じるのは奢りにも繋がりかねないと思います。 ご回答ありがとうございました。

  • yuimakozi
  • ベストアンサー率22% (25/110)
回答No.7

何も信じていませんね。 信じるという行為は、「非思考」という事ですよね。 例えば、創造主の存在は客観的には、証明できない。 しかし、存在しないという証明もできません。 だから、存在していると信じるしかないんですよね。 私は、物事を観察し思考し判断し、行動する。 こうして、生きています。 何かを信じて生きる必要などありません。 ただ、思考したり判断したりする基準は存在します。 1番は、客観性と論理性です。 2番は、経験と妥当性です。 1番邪魔になるのが、執着心と欲と感情ですかね。 それでも、いつもベストな判断ができるかといえば、ノーですね。 材料が少なくて、判断できないことだってあります。 そうゆう時は、本能に任せるしかありません。

goodbrother236
質問者

お礼

冷静な思考や判断とはいっても、それには限界があると思います。 人間は感情を持っていますから、なかなかそうはいかないかと。 そのときに判断する材料は、やはり信じている何かなのではないかと思います。 ご回答ありがとうございました。

  • trytobe
  • ベストアンサー率36% (3457/9591)
回答No.6

「他者と共存できる何らかの道はある」くらいですかね。同じ宗教や文化じゃないといけない、という同化政策は無理があると思っています。 そのためには、「落ち着いて話せばなんとかなる」くらいです。ここは、科学の論理実証主義をもって、事実で説得する、のが最強だとは思っています。 そして、「いずれ人は死ぬので、運命に逆らうまでもない」という開き直りもしています。 それ以上のことを悩んでいると、おそらくそのストレスで人間は死ぬと思いますので、信じる信じる信じる…というのめりこみは本末転倒だとも思っています。

goodbrother236
質問者

お礼

落ち着いて話せばなんとかなる。 でも、頑固な人にはなかなか通じないでしょうね。 死ぬ運命には逆らわない。その通りだと思います。死が間近に迫った人間にとって一番残酷なのは、諦めてやれないこと、死に向かう気持ちの整理をつけさせてやれないことだと思います。 生きるための拠り所を与えられないのも同様に残酷でしょう。宗教でなくとも、そのようなものが無いと社会は荒んだものになると思います。 ご回答ありがとうございました。

回答No.4

(1989年に出した自費出版物の巻末の「新ルネッサンス宣言」を) ───人間中心性の回復・人間的感性の復権─── 1. 我等は、認識する個体である。 2. 我等の生存は、意志の結果であり、幸福の追求としての本質を持つ。 3. 幸福とは、認識に於ける意志と、その達成の認識により成る。 4. その個体的追求は、生存と認識に於いて為される。 5. その環境的対応は、生存は生産として、認識は学習として現れる。 6. より大なる学習は、より大なる社会的生産を可能にする。 7. また、より大なる生存に於いて、より大なる認識は可能になる。 8. これらの過程の認識とその意志化は、最大の生存と最大の認識に於ける、完全な充足を実現する。 9. それらの統一的計量は、認識の深まり及び有効エネルギーの不可分な指向として、反エントロピーとして求められる。 10. 反エントロピーとは、宇宙の起源としての、絶対無=無限不確定性の潜在(有限)たる認識の自我仮説性(時間性~進化)の定性化である。 11. 潜在的認識可能性に対する相補的環境は、その認識の有限性による相補性の非自覚化により、他律的対象(=時空仮説)化する。 12. その他律的環境への反エントロピーの敷延は、自己矛盾として生じる環境を、その先入たる仮説的時空性に於ける個体的有限性を、超越する意志化により補償するものである。 13. 換言すれば、真理の限界は、愛により補完され得る。 14. 先述の要素との対応に於いて、真理とは認識の深化であり、愛とは社会的生産への意志に他ならない。 15. 宇宙の原理的本質は、自我成立の為の相補であり、そこに於ける完全な自覚に基づく完全な意志は、真の環境としての無限性=完全な自由を保証される。 16. この、利己と利他、あるいは唯物と唯心を包含した、完全な“自己”完結的過程には、金や地位といった外的価値、また主義・宗教他いかなる権威も介在し得ない。 17. 我等は、愛によって真理を成し、真理に於いて愛を為し、而して幸福なるべくのみ存在するものである。

goodbrother236
質問者

お礼

大変難しい文章で、趣旨がなかなか掴めませんでした。 愛=社会的生産への意志。これをもって真理を信じる、というような感じでしょうか。 日本社会には閉塞感が漂っており、それも難しいのでしょうね。 ご回答ありがとうございました。

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