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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:この比喩は巧みでしょうか?)

比喩のたくみさに驚嘆!エッセイを書くたしなみの秘訣とは?

WindFallerの回答

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回答No.9

こんばんは。 >著者は、「比喩のたくみさにまず驚嘆した。なんと説得力があるのだろう」と言っているのですが、 >私はまったくその比喩は適切でなく、説得力もないと思います。皆さんはどう思われますか。 賢明ですね。私も、それは説得力があるとは思えませんでした。 宮﨑駿の『魔女の宅急便』で、森で絵を描く少女の話が出てきますが、原作にはありませんから、元は宮﨑駿周辺の実話だったんだろうと思います。 ウルスラ: 魔法も絵も似てるんだね 私も よく描けなくなるよ キキ:  ほんと!? そういう時 どうするの ウルスラ:ダメだよ こっち見ちゃ キキ:  私 前は何も考えなくても飛べたの でも 今は分からなくなっちゃった ウルスラ:そういう時はジタバタするしかないよ 描いて 描いて描きまくる キキ:  でも やっぱり飛べなかったら? ウルスラ: 描くのをやめる 散歩したり 景色を見たり… 昼寝したり 何もしない      そのうちに急に描きたくなるんだよ こちらの方が説得力はありますね。いつも、この「ジタバタ」という言葉を思い出します。 >「大先輩」の目にも留まることを前提にして書かれたわけですから、それはある程度やむを得ないでしょう。 他の方も書いているように、その通りでしょうね。 >方向転換はできないでしょう。動いているから向きが変えられるんですよ 方向転換を考えるなら、実際は、私の人生経験からしても、そんなものじゃないと思うのです。本人も先輩も、そんなことは考えていないでしょう。本当に考えるなら、自分から安易に先輩などには相談しないし、また先輩側からも、そんな比喩的な物言いはしないはずです。 「自転車」なら、まだ、話の落ち着く所もあるでしょうに、「自動車」では、まるっきり比喩として不自然すぎます。 >マンネリからの脱却 --> 方向転換 そういうものじゃありませんね。論理的飛躍をしています。 マンネリからの脱却と方向転換とはフェーズ(phase =段階) が違います。 人生の方向転換は、自転車が動いているからとか、止まっているからという比喩には当たりません。人生の方向転換は、仮に、二足のわらじを履いている人でも、いったん、どこかで止まって考えなおさなければならないのです。マンネリからの脱却は、見えない人にとっては、いつか終わりがあると言うしかありません。その間は、「ジタバタ」するしかないわけです。 ところで、エッセイストというか、執筆業というものは、多くは人の辛辣な批判を得ないままに書いていますから、有名な方でも、とんでもない内容を書くものです。時には、その言葉で人を殺すことさえあっても、自分は直接手を下したわけではない、と居直る人さえいます。他で批判したことを知ると、それをネタに、また自分の執筆の中で、悪者を作って、延々と復讐するという心ない人もいるのです。 日本には、私小説や日記文学が多いというのも、このような人たちが書いたものが多いからです。文章を公開すれば、必ず、読者の目というものは付きまといますが、それが直接反映されない文面というものは、得てして抜けがあるものなのです。もう、何十年もの昔、伊藤整の文学論を読んだ時に、ギリシャ文学などの古典の素晴らしさのことに触れていて、著者のモラルや安っぽいヒューマニズムは入っていないのだ、と書かれていました。新約聖書なども、聖書執筆者がいますが、当時の常識では考えられないリアリズムがあるのだ、それは、その人達の身分の表し方だ、というそうです。だからこそ、その重みが伝わるのだというのです。 逆に、こうした掲示板に書きつづけると、どちらかというと辛辣な内容や、的外れの批判のほうが目立つものです。気にしないようにしても、少なからず、文体や文章の論理性にも影響を与えてしまい、それが、自由闊達とか、文の勢いというものが失われてしまいます。中間値というものがあればよいのですが、なかなかそうはいかないものです。掲示板に書かず、自分だけのブログ等に書き続ければよいようですが、そうすると、賛成者も現れないだけでなく、自己独善的で自己修正が効かなくなる可能性もあります。 私たちは、こうした執筆者を含めて、本当の文章を書く訓練をしていないからかもしれません。売れたら、それがよいのだということになってしまっています。今どきは、ジャーナリストの文さえ、何を書いているのかと思うほど、いい加減なものもあります。高校生や受験生に「天声人語」を手本とさせること自体が、間が抜けています。

muimusaku
質問者

お礼

回答ありがとうございました。

muimusaku
質問者

補足

>賢明ですね。私も、それは説得力があるとは思えませんでした。 著者にとっては、大先輩の忠告は実に参考になったのではないでしょうか。しかし、「比喩のたくみさにまず驚嘆した。なんと説得力があるのだろう」と、著者が確かに思ったとしても、その記述だけでは、そこに違和感を抱く読者がいても何らおかしくありません。むしろ、そういう読者がいて当然です。 >私たちは、こうした執筆者を含めて、本当の文章を書く訓練をしていないからかもしれません。売れたら、それがよいのだということになってしまっています。今どきは、ジャーナリストの文さえ、何を書いているのかと思うほど、いい加減なものもあります。 文章読本の著者の中にも、その書いている文章には意味不明なものがあります。まさにこれは、私たちがまともな「書く」ことの教育(訓練)を受けていないことを証明しています。 ある作家などは、私の指摘に対して「文章がヘタですみません。こんなわけがわからんことを書いていてはいけませんね」と回答しました。その作家は、私の指摘を素直に受け入れたのですが、まったくそのミスを認めようとしない作家もいます。情けない限りです。

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