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城造りに関して

 よろしくお願いします。  日本の城郭建築についての質問です。ほとんど城郭については素人ですが、一般的な知識程度として、私たちが今日知っているお堀や天守閣のある城は、戦国時代を中心に出来た物で、その前にはもっと原初的な山城や櫓、さらに前には館に近い城などがあり、日本で独自に発展してきたものだと理解しています。  そこでちょっと疑問に思ったのですが、中国の城塞建築の影響は受けなかったのでしょうか?  もちろん、中国とは、城の概念が違うことは知っております。またそれとともに町の構造も違います。地形的にも、町全体を城塞化してしまうことは日本では難しいでしょう。  しかし、それでもあの高い壁やさまざまな城の守備道具、城の構造などは、参考になると思うのですが、どうなのでしょうか? また反対に城攻めの道具も、古代中国から様々にあると思うのですが、これらは日本の戦で応用使用されたのでしょうか? 単なる書物にある知識として利用されることはなかったのでしょうか?

noname#7049
noname#7049
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  • tote81jp
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回答No.5

専門家ではないのですが、考古学的視点からの発言が無いので一言。 弥生時代の高地性集落が日本の城の原点になるのではないかと思います。 高地性集落の特徴は「見晴らしの良い高台」「防御性の高い集落形態」に有ります。 この特徴は「高地性集落」→「朝鮮式山城」→「中世の山城」→「近世の平山城」に繋がる流れでしょう。 一方、中国式城塞系統の流れは律令国家による東北経営における「多賀城」「秋田城」「志波城」等の城塞都市に見られますが、いずれも台地状地形に築かれているのは日本的要素かと思います。 高地性集落のルーツについては古代中国春秋時代の「越」「楚」「斉」に有る可能性は有るのですが、 現地の考古学者がその存在の可能性を考慮していないので発掘もされていないのだと思っています。 アマチュアの発言では有りますが、上記のキーワードを色々検索してみて下さい。

noname#7049
質問者

お礼

 回答ありがとうございました。 >弥生時代の高地性集落が日本の城の原点になるのではないかと思います。 なるほど。 >中国式城塞系統の流れは律令国家による東北経営における「多賀城」「秋田城」「志波城」等の城塞都市に見られますが、いずれも台地状地形に築かれているのは日本的要素かと思います。 この辺りのことはすこし考えてみたのですが、具体的にどう中国式なのか知らないもので・・。構造的には平安京自体も中国の都城をまねてはいますが・・。 >高地性集落のルーツについては古代中国春秋時代の「越」「楚」「斉」に有る可能性は有るのですが、 弥生時代は朝鮮半島経由で、もしくは朝鮮半島の形式から来ているのかもしれませんね。この辺りについては、私は全く知りません。考古学者でも、調査が難しいというところでしょうか。ありがとうございます。

その他の回答 (4)

  • Kon1701
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回答No.4

2度目の書き込みになります。 中国の影響、ちょっとあいまいな書き方になってしまいましたが、これは私が中国の城は文献や記録などでしか見ていないこためです。また、伝来により類似のものができたのか、逆に日本のが伝わったのか、あるいは独自に類似のものができたのか、はっきりしないものもあるためです。 城門、これは中国が先でしょうね。ざまた、城とは違いますが、騎馬族から守るために柵も作られたことがあるようです。 ところで、城の構造の違い、これは農民が財産である、ということもあるかもしれません。戦で敵兵は殺しても普通の農民は殺したりはしません。その地を占領した際には、農民がいないと年貢はとれないのですから。人民全て虐殺あるいは奴隷に、というのは日本ではほとんどないので、城塞都市は不要だったという面もあるのでしょうね。 ところで、ヨーロッパにあったような巨大なやぐらで乗り越えての城攻め、あるいは門を打ち破る道具、投石器。こういうのをもし使ったとしたら・・・。歴史が少し変わったかもしれませんね。

noname#7049
質問者

お礼

二度目の書き込みありがとうございます。レスが遅れてすみません。 >また、伝来により類似のものができたのか、逆に日本のが伝わったのか、あるいは独自に類似のものができたのか、はっきりしないものもあるためです。 そうですか。なかなか簡単ではないということですね。普通に考えると、三国時代の劉備や孔明と日本の卑弥呼が同時代ですから、築城のほとんどの部分に関しては向こうが先だと思うのですけどもね。 >人民全て虐殺あるいは奴隷に、というのは日本ではほとんどないので、 そうですね。あちらでも、城の人民すべてまでを殺したりはしないでしょうけども、兵隊の殺戮の数は日本の比ではありませんね。派遣部隊を根こそぎ殺して、再起不能にして戦意を喪失させるということでしょうか・・。古代戦で、一番殺害数が多いのは、長平の戦いの兵隊40万人というのがありますね。軍団丸ごとです。中国人の誇大表現かと思いきや、おびただしい数の人骨が発掘されて話題になっていましたね。ホントだったんだ・・・あなおそろしや。

  • oriro1208
  • ベストアンサー率40% (66/165)
回答No.3

こんにちは。 前のお二方のご意見にも一理あると思います。でも、基本的には、ユーラシア大陸のような頑丈な城がある時期まで必要でなかった、と考えています。武器ももちろんなんですが、戦闘従事者の構成比率の問題ではないでしょうか。例えば戦国時代なら毛利元就や武田信玄、上杉謙信といった大名でも兵の大半は農民です。田畑を一ヶ月以上放置したらどうなるでしょうか。それこそ農民出身の兵は浮き足立って戦どころじゃありません。この問題が解消されるのは織田信長以降の話です。信長はその財力の拡大に伴って専従の兵団(つまり傭兵)で戦うことができるようになりました。それを継承した秀吉も同じことができました。だからこそ、長期に渡って小田原城を攻囲できたのです。もし秀吉の配下将兵の大半が農民兵であれば日本の歴史は変わっていたでしょう。このころから築城術の重要性が増してきたと考えられます。ところが、大陸となると話は違います。明代に(やっと)造られた万里の長城は北方騎馬民族の侵攻を防ぐ為です。農耕民族と違い、遊牧民族には守るべき田畑はありません。それこそ何年でも戦争をしていられます。チンギス=カーンとその軍団は典型的でしょう。イスラム諸国も事情は同じことです。農耕も放牧もしていましたが、科学も発達していましたので、二番の方が言われるように、武器も発達していました。当然大陸では堅固な城塞が必要だということになるのでしょう。

noname#7049
質問者

お礼

回答ありがとうございます。亀レスになっておりますが、まだお返事をしていない方にも、少しずつして参ります。 >武器ももちろんなんですが、戦闘従事者の構成比率の問題ではないでしょうか。・・・・ これについて考えてみました。長城に関しては、現在では実用よりも威圧説も唱えられているようです(ほとんど敵の来る可能性のない断崖絶壁にも砦があることなどから)。兵隊の構成員ですが、中国でも農民が主流だったと思いますので、この点に関しては日本とそう事情が違わないのではないかとも思ったのですが、日本の場合、農閑期に戦争が行われたということに関しては、確かにおっしゃるように、国土の広い大陸では農閑期だけ戦争するなどということは不可能ですね。蜀の孔明が魏を狙うのと、信玄と謙信が川中島で戦争するのとは規模が違いますよね。蜀から魏に向かうだけで、山岳地帯を数百キロ歩かなくては行けませんし、当然、農閑期だけで返ってくるようなことも出来ませんし、屯田兵を置いて、何ヶ月でも攻めなくては行けないし、責められる方も攻める方もそれだけの用意が必要になりますね。そういう意味では、兵隊そのものの構成員については事情は極端には変わらないとは思いますが、農業と戦争の捉え方については、違いが出てくるのではないかと思いました。一つ視点をいただきました。 ありがとうございました。

noname#7049
質問者

補足

下記の文の内容の補足です。  中国の町の城壁は、遅くとも春秋戦国時代・・中国の内乱時期・・に、現在みるような高い壁で囲む形式になったようです。最古の王朝殷の町の跡でも、すでに高い壁が町を囲んでいて、北方民族が辺境を犯すよりもかなり起源の古い物です。

noname#118466
noname#118466
回答No.2

日本の城の歴史に詳しいわけではありませんが、城は攻める武器との関係で発達して来たと思います。昔の中国や韓国と関係の深かった日本が影響を受けていないことはないでしょう。織田信長の時代に南蛮人のもたらした西洋の塔をもった城の話や絵が信長に影響を与えたという話もあります。 天守閣を持つ城は鉄砲や大筒の実用化の中で全国に広まったので、それに耐えるために作られたように考えられますが、現実は、この時代以降は、武器を考えて天守閣を設けたのではなく、封建領主の権威の象徴だったと思われます。防衛のためなら堀を何重にもめぐらす方が高い天守閣よりもはるかに効果があるからです。天守閣まで攻め込まれたときは負け戦だということは大阪城の例がよく示しています。 攻城の武器として実戦に効果を発揮したのは火矢ぐらいではないでしょうか。中国や西欧の場合のように強力な 攻城道具・武器を駆使するよりも食料攻め、水攻めで守備軍の厭戦気分をあおったり、内応〔裏切り)をすすめるのが日本的な攻城術だったのではないでしょうか。人は石垣、という言葉がそれをよく示しています。

noname#7049
質問者

お礼

回答ありがとうございます。亀レスになっておりますが、まだお返事をしていない方にも、少しずつして参ります。 >城は攻める武器との関係で発達して来たと思います。 なるほど。言われ見ればそれはそうでしょうね。 >昔の中国や韓国と関係の深かった日本が影響を受けていないことはないでしょう。 それは私もそう思いますが、この辺りの具体的なことはなにかお心あたりございますでしょうか? 普通に考えて、兵法の書は、戦国期の武将に至るまで皆読んでいたというのに、築城に関して参考にしなかったとは考えにくいのですが・・。 >織田信長の時代に南蛮人のもたらした西洋の塔をもった城の話や絵が信長に影響を与えたという話もあります。 そうですか。興味深い話ですね。 ありがとうございました。

  • Kon1701
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回答No.1

日本にも町全体を要塞化した例はいくつかあります。小田原もそうでしたし、福井の一乗谷も谷の両側に城門を築いています。 日本の中世の城郭ですが、これは地形を生かした結果では? と個人的に考えています。中世以前では、山城が中心ですが、これは山を生かした城となっています。尾根を切る、縦に畝を切る、守りのための廓など、守りの上で優れた造りになっていると思っています。 中国の影響はあったか? なんらかの形であったもの、と思っています。 日本の山城は、朝鮮半島の城の影響は受けているようです。また、門の構造(枡形)も似ているものがあるようです。外来の知識を生かしながら日本の地形を生かして作ったと考えるのがいいのかな、と考えています。 参考文献:実証 日本の城

noname#7049
質問者

お礼

さっそくありがとうございます。 >福井の一乗谷も谷の両側に城門を築いています そうですね、先日テレビでやっていたのに・・忘れていました。しかし、中国のような、町全体を城壁で取り囲んで要塞化したものは、やはりないのでしょうか? >中国の影響はあったか? なんらかの形であったもの、と思っています。 何か具体的なものはありますでしょうか? もしその辺のこともお心あたりございましたら、よろしくご教示下さいませ。 きっと、城に詳しい方などは、ぱっと見た外見ではそれとは分からなくても、部分部分で敵を混乱させるような城への道筋など中国の影響と、中国の城が元になっている城の仕組みの名称をご存じだと思うのです。残念ながら私はど素人ですので、こんなことを聞いておりますが・・・。 >日本の山城は、朝鮮半島の城の影響は受けているようです。また、門の構造(枡形)も似ているものがあるようです。 そうなんですか。それはまったく知りませんでした。朝鮮の城の影響は大きいのでしょうか? それにまた、どうして中国のではなく、朝鮮半島の城を手本にしたのでしょうね。城の概念が違うと言っても、中国にも山城に相当する砦はあったでしょうに。 >外来の知識を生かしながら日本の地形を生かして作ったと考えるのがいいのかな、と考えています。 そうですね。 中国と地形も違いますし、城の形態も全然違いますから、中国の城攻めの道具の雲梯などは、日本の城ではほとんど役に立たないような気もします。しかし、何らかの形でヒントは得て応用しているのではないかなぁとは思うのですが・・。 ありがとうございます。

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