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第二の死とは?

noname#192567の回答

noname#192567
noname#192567
回答No.18

No.13です。お礼を拝読しました。どうも有難うございます。 >火の池では厳しいので「彷徨う」としたのかもしれませんね。 はい、たしかにとても厳しいですね。火の池というものは。 そもそもどうして「《火》の《池》」なのだろうと思ってしまいます。 堕ちたら最期、出られそうもないような。。怖いですね。 ダンテが敬愛したヴェルギリウスの「アエネイス」や更に時代が遡るホメロスの「イリアス」「オデュッセイア」には、死者が蠢く冥界の様子が詳しく記されています。 古えの先人たちは、その風土に即した形で、また個々の運命との抱き合わせで、様々に思い巡らしてきたのではないでしょうか。 現世の延長線上に来世があったり、現世との往来が可能なもの、はたまた二度と戻り得ない諦観らしきもの等々。 大河オケアノスの先には火の河や苦しみの河、悲しみの河、そして忘却の河が在るようですね。 (三途の川という考えも含め、河(川)には深い意味が込められているのでしょうか。或いは橋とか。) >では第一の死後、何故さまよい続けることになったのかという別の設問がでますね。 はい、皆様がご存じのように古代ギリシアの冥界のありようは総じて暗いものだったようです。 それはやはり、死に対する恐怖と自らの死後に真摯に対峙していたからではないでしょうか。 時の流れは非情なもので、愛する人に対する途方もない悲しみを、(遺体を蝕む様子を通じて)jとんでもない恐怖心に変質させてしまうものでしょうから。 そして当時は「第一の死後」に関し、色とりどり豊かに百花繚乱だったであろうと察せられます。 人の身体や魂は元素から成立し死後分解され大気中に放たれるとか、天の絶え間ない動きと等しく魂も不滅だ不死だとか。 昔も今も根本的な人の営みにそんなに変わりはないのでしょう、けれども、死に向き合いそれを通じ自らの生を省みることに関して言えば、今の時代は希薄と言えますし、昔の考えをナンセンスと決めつけるのは不遜だと思います。 (その良し悪しというのはまた別の質疑になってしまうのかもしれませんが。) また、死後冥界に留まる、あるいは彷徨い続けるという当時の素朴な考えに恐怖と虚無感を底無しに感じたからこそ、他方では魂の不滅や不死についての考えが人々の心に発露したのではないでしょうか。 時代背景に相応しく、またのちには終末的な救済論としての。 「第二の死」という言葉が「ヨハネの黙示録」に記され聖書として編纂されていることをふまえ、そのいずれの信徒の方々のお考えこそが、やはりこのご質問の回答として最もふさわしいもののように思われます。 (「死も黄泉も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。」のくだりを読めど、私には神が癇癪をおこして何もかも投げ込んでいる、でも、天国はそのかぎりではない、ということ位しか想像がつきません。ノアの洪水の火バージョンと思いきや、「死も黄泉も」ですから、まさにジ・エンドで天国以外は「皆無」ということなのでしょうか。まったくわかりません。) No.1さんのご回答にもあるように、信徒の方々は(逃れる術があるならそれも含めて)その解釈をご存じなのでしょう、きっと。 ロクな回答になっておらず、すみません。。

mmky
質問者

お礼

再度の回答ありがとう。 No.12のお礼に、質問者の理解を書いておきましたが、「地獄に落ちる。(生まれる。)」という意味をヨハネが「第二の死」と表現しているのかなと思うに至りました。暗い預言者ですから表現も暗いということですね。 一般的には、死後、「天国に生まれる。」、「地獄に生まれる。」、そのどちらでもないのが「彷徨う。」ということですね。霊界にある法則の一つに、「地獄からは人間として生まれることができない。」があるんですね。 地獄に生まれると、地獄から反省して天国に再度生まれないと人間として生まれることはできないのですね。段階が一つ増えるので、「死」を使ったのかもしれませんが、決してなくなることではないですね。 天国に生まれるためには善人の生き方をすればいいだけですから、それがヨハネの「第二の死」から逃れる方法ですね。 精神的なリセッションの状態をヨハネ風に「第二の死」とするのなら、リセッションの状態も段階がありますので、第二の死、第三の死・・とたくさんでてきますね。これを日本流に言えば、地獄の1丁目、2丁目・・と最新部までとなりますね。「第二の死」の標語が、天国にも無数の段階があり、地獄にも無数の段階があるというヒントにはなりますね。 みなさんの回答でなにかスッキリしたものを得たように思います。ありがとうございました。 今しばらく設問は締めずにおいておきますので何かあれば気軽に書き込んでください。

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