- 締切済み
脱藩って?
kaonashi2の回答
- kaonashi2
- ベストアンサー率37% (6/16)
脱藩は幕末を象徴する行動だと思います。 藩というのは治外法権であり、藩内の統制については幕府でさえも口出し出来ませんでした。司馬遼太郎さんは、江戸幕府は最大の大名であったという言い方をされています。(完全な中央集権政権でないという意味です)また、例えば薩摩飛という言葉があり、脚薩摩藩(現在の鹿児島県)に他藩の者が入ると帰ってこれないと言われていたそうです。 要するに、藩というのは武士にとって一国に等しいような状況だったのだと思います。 ですので、そこを無断で脱藩した者の親族は、過酷な取調べを受けたり、閉門蟄居したりしています。(国家を捨てるという点で、現代の密航に近いかもしれません) 他の方も挙げてますが、脱藩浪人で最も有名なのは 坂本竜馬です。また、彼の郷里の土佐藩(現在の高知県)は多くの浪人を生んでいます。事情は長くなるので割愛します。他に有名なところですと紀州徳川家脱藩の陸奥陽之助(後の外務大臣、陸奥宗光)や白河藩 浪人(と名乗っています)沖田総司(新選組一番隊長)あたりでしょうか。
関連するQ&A
- 江戸時代の国と藩への帰属意識:大隅出身の人に質問
NHKの大河ドラマ、龍馬伝が人気ですね。 そこでは薩摩藩とか長州藩とかの名前が出てきます。薩摩藩の支配する地域は薩摩の国と大隅の国を合わせた領域だと思いますが、大隅の国に生まれ育った人は自分が薩摩藩の人間であるという帰属意識があるのでしょうか?島津藩、と言われればそれに対する帰属意識はあると想像しますが・・・・ だから幕末に活躍した南九州の藩は本来「島津藩」と呼ぶべきで「薩摩藩」と呼んだら大隅の国の人に失礼ではないか、と思うのですがどうでしょう。 先日岩国の出身者に同じ質問をしました。国としては防府の国なのですが、長州への帰属意識はあるとの事でした。こちらは長門藩でなく長州藩といっているからなのかな、と思いました。
- ベストアンサー
- その他(社会)
- 龍馬が脱藩後に薩摩や長州、兵庫、大阪、京都、越前と行き来していた事に疑
龍馬が脱藩後に薩摩や長州、兵庫、大阪、京都、越前と行き来していた事に疑問を持ちました。 幕末期土佐の坂本龍馬達が脱藩していく際に県境にある関所を避けたり、関所の人間を酒で酔わせて不意を付いたとかして脱藩したと聞いています。 彼らは藩から許可された正式な通行手形が無いからそういう形を採っていたんだと思うのですが、同じような関所は他の藩には無かったのでしょうか? 他の藩の者や他の藩から入ってくる者の通行手形等は検閲しなかったのでしょうか?
- ベストアンサー
- 歴史
- 先祖を探しています。
僕は今先祖を探しています。 先祖は江戸時代大洲にいたようです! うちは士族ですが、 大洲の士族の名簿や武士の記録に一切出てきません。 どうか教えてください 家紋は丸に十字です。 幕末の先祖が矢野佐平といいます。 うちはもともと薩摩の島津の家臣でしたが、島津家主君の命令で愛媛にきたそうです。 また、親戚によると島津の新家ということですがさっぱり意味がわかりません。
- ベストアンサー
- 歴史
- 実際に使っていた脱藩に相当する用語
来年のNHKの大河ドラマでは龍馬が取り上げられます。彼の話に必ず出て来るのが脱藩と言う用語ですが、藩と呼称は江戸時代には一般的には使用されていなかったと聞いています。としたら、当時実際には何と言っていたのでしょうか? 藩と言う呼称が明治以降に使われるようになったと聞いてから、江戸時代には一般の人達は藩の事を何と呼んでいたのか非常に興味があります。
- 締切済み
- 歴史
- 何故薩長同盟を結べたのでしょう
対立していた薩摩と長州は坂本竜馬の仲介で同盟を結んで倒幕に動き出しました… しかし…藩主同士(薩摩の島津公と長州の毛利公)で話し合って締結 と言うなら分かりますが 同盟交渉に当たったのは1薩摩藩士の西郷と1長州藩士の桂(木戸)です まして 土佐を脱藩してお尋ね者だった坂本竜馬が仲介に入って ですから余計に不思議です 西郷と桂は藩から藩主の名代みたいな形で交渉に出たのでしょうか? もしそうじゃないとしたら この2人が勝手に交渉して同盟結んだ事にもなります お互いの藩主は納得と言うか受け入れたのでしょうか? そして坂本竜馬の仲介は信用できたのでしょうか?
- ベストアンサー
- 歴史