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廃仏毀釈が収まっていく過程。
廃仏毀釈の嵐が、全国にわたって一時ふきあれた状況はよく分かるのですが、廃仏毀釈が収まっていく過程が分かりません。 「やがて収まっていった」という説明が多いようです。 「やがて収まっていった」主因は何ですか。 寺院、仏像、仏具、経典などを破壊するような蛮行を、止めさせようと尽力した人はいましたか。 当時日本にいた外国人は、この件に関して何か発言していますか。 よろしくお願いします。
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年表を眺めていましたら、1868年に、「神仏分離令、廃仏毀釈おこる。」とありました。WIKで調べてみて、下記のような説明が目に留まりました。 記 1 明治時代の神仏分離……神仏分離令は「仏教排斥」を意図したものではなかったが、これをきっかけに全国各地で廃仏毀釈運動がおこり、各地の寺院や仏具の破壊が行なわれた。地方の神官や国学者が扇動し、寺請制度のもとで寺院に反感を持った民衆がこれに加わった。 2 寺請制度……僧侶を通じた民衆管理が法制化され、事実上幕府の出先機関の役所と化し、本来の宗教活動がおろそかとなり、また汚職の温床にもなった。この事が明治維新時の廃仏毀釈の一因となった。 以上 教えていただきたいのは2点です。 1 「寺請制度のもとで寺院に反感を持った民衆がこれに加わった。」とあるのですが、寺院のどんなことに反感を持っていたのでしょうか??? 2 「汚職の温床にもなった。」とあるのですが、廃仏毀釈に発展するほどの汚職とは、どんな汚職だったのでしょうか???
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ichikawaseijiさんか、あるいはどなたかにお教えいただきたいのです。 天狗に関する回答の中で、「明治元年に明治政府が神仏分離令を出したときに、修験道は仏教でも神道でもないことから行き場を失って途絶えてしまいました。」との話が出ています。 http://okwave.jp/qa/q8471633.html これは有名な話で、私の住まいの付近でも江戸時代には大きな勢力を有していたところが、明治以降衰微し見る影もない状態になっています。 宗教や信仰でも権力との関係は重要で、盛衰は権力との関係でみる必要があると思ってはいるのですが、神仏分離令をトリガーにして廃仏毀釈がおき、多くの寺院は直接破壊盗難を受けたにもかかわらず、葬儀の従事者として存続し、何とか命脈を保ちました。 (1) 修験道に関して、廃仏毀釈のような暴力的行為が多く行われたのでしょうか。 そのような記録あるいは事実等を記した書籍、webサイトなどありましたら、お教えください。 (2) 修験道は、修験者の個人的利益追求で隆盛したのではなくて、一般民衆の要求にあった祈願祈禱(加持祈祷)をしたり、代替医療をしたりで、民衆の支持を得、経済的物的見返りも得られたので、大きな勢力に発展したと思っています。 多くの修験の寺は学僧や葬儀僧専従ではなくて、半分農業・半分修験僧のような生活という民衆密着、土着の色彩が強かったのではないかと思っています。 修験道は精神修養や解脱などではなくて、現実生活での功徳や験力獲得で勢力を伸ばしてきたのだと思います。その場合、神仏分離や明治政府の宗教政策で寺領を奪われたにしても、修験それ自体が衰微する、仏教寺院や密教系寺院よりも衰微するというのがわかりません。明治から学制で義務教育、文明開化、西洋科学が怒濤のように流れ込んだにしても、オカルト的験力を期待したい気持ちは強くあったと思います。 何故、修験道は衰微したのでしょうか。
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現在、高校日本史ベース(検定教科書全て)において、廃仏毀釈は全てに記述されている しかし、筆致そのものは、廃仏毀釈について事実のみを伝えるに留まり、主観的表現は少ないと言えるだろう 問題は、教科書ベースではなく、教師レベルで廃仏毀釈の歴史事実を主観的に展開する場合である。 廃仏毀釈そのものは、好意的に評論することは不健全であろう (日本社会に跋扈する皇国史観の人間は、八百万の神々が破壊されたようとも、天皇陛下だけが尊崇されれば良いだろうから、否定的には言説しないだろうが) 問題は、廃仏毀釈の事実と天皇神道以外の宗教から見て、排他的な政策として表現する場合である 文化史・宗教史からすれば、廃仏毀釈は文化破壊であり、文化大革命であろう。 しかし、既得権益・特権階級という意味での宗教家の退廃を顧慮するに「政策的に理解されうるもの」という表現も可能であろう つまり、政府レベルの問題ではなく、民衆レベルでも廃仏毀釈には好意的だった、という問題提起である 本件については、歴史学的なアプローチはあまりされず、皇国史観・講座派などには評論・研究の対象としては重視されなかったと言えるだろう 今後、廃仏毀釈の歴史事実を教科書レベルで記述するに、現在のように「歴史事実を粛然として記述する」に留めるのが適切だろうが 事態が教師レベルになれば、上記した文化破壊の側面・日本の近代化のための必要悪などの複眼的表現も可能だろう 果たして、歴史教師は廃仏毀釈をどう教える(伝える)べきか?というのが本件の質問である これは、一定の主観性を求められる授業展開を前提にしているので、廃仏毀釈について掘り下げることを想定した話である なお。本件の回答は、”こうあるべきだ”という主張ではなく、その理由が重要であり、主張だけの回答はご遠慮いただきたい
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お礼
ご回答ありがとうございます。 「壊しつくした」という一面もあるでしょうね。 それにしても、皆でやれば怖くないとばかりに、信仰の対象として拝んでいた仏像をよく壊したものです。 それでも大勢の逮捕者が出たとも聞きません。 どうも理解できない騒動です。 大浜騒動については参考になりました。