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修験道の衰微の理由

ichikawaseijiさんか、あるいはどなたかにお教えいただきたいのです。 天狗に関する回答の中で、「明治元年に明治政府が神仏分離令を出したときに、修験道は仏教でも神道でもないことから行き場を失って途絶えてしまいました。」との話が出ています。 http://okwave.jp/qa/q8471633.html これは有名な話で、私の住まいの付近でも江戸時代には大きな勢力を有していたところが、明治以降衰微し見る影もない状態になっています。 宗教や信仰でも権力との関係は重要で、盛衰は権力との関係でみる必要があると思ってはいるのですが、神仏分離令をトリガーにして廃仏毀釈がおき、多くの寺院は直接破壊盗難を受けたにもかかわらず、葬儀の従事者として存続し、何とか命脈を保ちました。 (1) 修験道に関して、廃仏毀釈のような暴力的行為が多く行われたのでしょうか。 そのような記録あるいは事実等を記した書籍、webサイトなどありましたら、お教えください。 (2) 修験道は、修験者の個人的利益追求で隆盛したのではなくて、一般民衆の要求にあった祈願祈禱(加持祈祷)をしたり、代替医療をしたりで、民衆の支持を得、経済的物的見返りも得られたので、大きな勢力に発展したと思っています。 多くの修験の寺は学僧や葬儀僧専従ではなくて、半分農業・半分修験僧のような生活という民衆密着、土着の色彩が強かったのではないかと思っています。 修験道は精神修養や解脱などではなくて、現実生活での功徳や験力獲得で勢力を伸ばしてきたのだと思います。その場合、神仏分離や明治政府の宗教政策で寺領を奪われたにしても、修験それ自体が衰微する、仏教寺院や密教系寺院よりも衰微するというのがわかりません。明治から学制で義務教育、文明開化、西洋科学が怒濤のように流れ込んだにしても、オカルト的験力を期待したい気持ちは強くあったと思います。 何故、修験道は衰微したのでしょうか。

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みんなの回答

noname#224207
noname#224207
回答No.4

No.1です わざわざお礼を記入して頂きありがとうございます お礼の中に追加のご質問がありましたので、説明させて頂きます。 各項目毎にお話しする前に、現在残っているお寺さんは下記の三点の何れかを満足したものだけだというのが現実です。 イ)観光寺院 ロ)墓地をを事業として運営している。 ハ)檀家を400軒以上所有している。 つまり、安定した収入源を持っているお寺さんということです。 この収入の補助として、保育園の経営や駐車場の経営などを行っています。 仏教であれ修験道であれ当事者は霞を喰って生きている訳ではありません。 (1)笹井観音堂につきましては、詳細は寡聞にして知りませんが、狭山市にあるという歴史地理的な影響が大きいのではないのかと推定しています。 関東地方というのは、他の地域とは異なり、城下町を中心とした藩領というものが明確ではありませんでした。 幕府の直轄地、旗本領、大名領、寺社領の四つがモザイクのように入り乱れていました。 いずれの支配者も常駐していませんでした。 代官という、下級役人が江戸から派遣されてきていました。 地域の統治は、名主(庄屋)を頂点とする村役人が中心たなった農民の村落単位の自治組織が行っていました。 旗本の場合には一人の旗本が複数の村から年貢を受け取ったり、一つの村が複数の旗本に年貢を送ったりしていました。 これらの管理は旗本ではなく、各自治組織が行っていました。 村によっては、旗本以外にも送ることがありました。 年貢というのは村単位の総額で決められていました。 笹井観音堂を支えていたのは、この自治組織だったのではないのかと推定されます。 明治になって地租改正ということが行われ、村単位の納税が個人単位でしかも現金納入に変えられました。 同時に村の自治組織も解体させられました。 笹井観音堂の場合は、神仏分離令の影響だけではなく、地租改正の影響ももろに受けてしまったのではないのでしょうか。 支えていた基盤というか、スポンサーが消滅してしまったのではないのかということです。 県或は市立の図書館に詳しい郷土史があるかと思いますので一度目を通されることをお薦めします。 (2)修験まで攻撃や排斥の対象になるのがしっくりしません ご紹介したサイトにも記載されておりますように、廃仏毀釈運動を実際に行ったのは官権ではなく、狂信的な国学や神学者の集団です。 彼等にとっては、神道以外の組織、建造物は全て破壊の対象でした。 あまりの粗暴さに、政府も慌てて明治5年に神祇官制度を廃止し、廃仏毀釈運動は消滅しました。 ということで、教義の内容とは無関係です。 (3) >修験には基本的に教理体系がしっかりした経典も教説もないと思っています。 経典、教説というものの存在に拘るのは、聖書に基盤をおいたキリスト教の思想です。 「宗教」という言葉は、明治になってキリスト教圏の文献を翻訳する再に作られた言葉です。 従って、言葉の定義としては、キリスト教思想に基づいた定義が適用されています。 学術上の定義では、経典、教説の有無などは問題とされません。 日本の神道にも、経典や教説は存在しません。 経典、教説の有無のみをもって修験道を評価できません。 学術上にも国際的にも、神道、修験道のいずれもも立派に宗教です。 >修験者が修験で獲得した超自然の力を期待するものであって、権現の救いを信じるものではないと思っています。 この考え方は自力本願、他力本願とよばれる仏教思想の自力本願に属するもので禅宗や密教と一緒です。 密教には即身成仏という考え方があります。 禅宗では一切衆生悉有仏性といって、仏典に書かれた仏だけを特別視しません。 日本の仏教では山川草木悉皆成仏と称して、身の回りにあるものは全て仏の姿とする考えがあります。 修験道固有のものではありません。 確かに浄土真宗の他力本願とは異なりますが、あくまでも仏教思想の範疇です。 >現実の生活を律する、道徳の戒め、迷妄や不安からの脱却、生きていく信条の獲得は、日本の宗教や信仰では重視されないのは何故でしょう。 現実の生活を律する、道徳の戒め=仏教は厳しい戒律を設けています。 迷妄や不安からの脱却=仏教の究極の目的がこのことです。 生きていく信条の獲得は=江戸時代の人々は仏教に求めました。 山岳信仰というのはオカルトではありません。 日本の神道では、山や島に神格があるとしています。 大和三山、戸隠山、厳島など数え上げたら切がありません。 下記書籍を是非参考にして下さい お坊さんが困る仏教の話 村井幸三 新潮新書 第五章 葬式仏教に徹すべし という章があります。 日本の仏様がわかる本 松濤弘道 日本文芸社 修験道で尊崇される仏についての記載があります 死生観を問い直す 広井良典 ちくま新書 最近の終末医療に関わる問題から解き起こされています。 宗教と死生観 という章があります 日本人の死生観を読む 島薗進 朝日選書 明治以降の作品を通じて日本人の死生観を概観しています。 老荘と仏教 森三樹三郎 講談社学術文庫 修験道でも取り入れられている道教にかんする記述もあります。 修験道・実践宗教の世界 久保田展弘 新潮選書 修験道の来歴や存続理由を述べるとともに、修行の実態が書かれています。

  • DieMeute
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回答No.3

No.2です。補足があったようなので、それに対して少し… >政府の施策で宗派編成が変わったところでベースが変わるとは思いにくいです。 宗派編成よりも、その活動内容が問題です。 最初の回答でも書きましたが、江戸時代にも修験行者は真言と天台に属するようにされています。 しかし、その時は修験行者の独自性とその活動は保たれました。 明治の場合は、活動が保てませんでした。そこが問題だったのです。 だから最初の回答のまとめとして、 「こうして修験行者は天台、真言の風下に立たされ、独自性を失い、その活動の根幹に関わる加持祈祷を禁止され、衰退を余儀なくされました。」 と記述しました。 >明治の宗教政策の影響は、修験道衰微にとってさしたることではなかったのかもしれないと思い始めました。 質問者様が補足に貼って下さった一番最初のURLの「修験道の近代化の問題」の90ページと91ページには、 「神仏分離令は、修験末寺、里修験をその存在自体が消滅せざるを得ない状況まで追い込んでいった。 …中略… 分離令による還俗命令によって、多くの修験者たちは、還俗して神官になるか、あるいは一般人として農業等に従事せざるを得ない状況であった。 さらに両本山である聖護院、三宝院においても、皇族の後ろ盾を失い、朱印地も上地され、また配下の修験者たちの激減による上納金も得られず、権威的な力も、財政的な力も失い、中央機構としての統率力もとどこおりがちになっていた。 以上のごとく修験宗は勢力的に減少の一途をたどっていった。 さらに追い討ちをかけるように、政府は明治五年、修験宗を廃止し、天台、真言に帰入するよう太政官布告が発せられ、 さらにその後、修験者の宗教活動を抑制するような次のような発令も出されていった。 明治5年6月28日…自葬を禁じ葬儀は神官僧侶に依頼せしむ 明治5年11月8日…無檀無住の寺院を廃す 明治6年1月15日…梓巫、市子、憑祈祷、狐さげ、玉占、口寄などを禁ず 明治7年6月7日…禁厭、祈祷をもって医薬を用うる妨げとなすことを禁ず ここで掲げた禁止条項は、殆ど修験の生活に関わるものであり、前章で述べたように、修験者の寺は殆ど檀家が無く、 また祈祷を中心として生計を立てていたことから、これらの発令は一般修験者の宗教活動を実質上禁止するものであった」 とあります。 これらの文章を読むと、神仏分離令と還俗命令、そして修験宗廃止令と、その後に出された発令により、修験宗はダメージを受け衰退していったと受け取れます。 特に、 『これらの発令は一般修験者の宗教活動を実質上禁止するものであった』とあるように、政府の命令により宗教活動を禁止されれば、衰退するのも当然かと思います。 >民衆が、修験を卑俗で賤しいものと考えるようになり、修験や山伏を見捨てたのではないでしょうか。 との質問者様の考えも要因にはあると思いますが、私としては、質問者様と同じURLを読んでも、私の回答は最初の回答通りであり、明治政府による宗教政策が修験道衰退の大きな要因だと思います。 だからこそ、後に宗教の自由が許されると修験道にも新たな風が吹いて新しい宗派ができ、信者を増やしたのだと思います。 同じ文章を読んでも質問者様とは違った結論になるようですが、 イギリスの詩人ブレークが 「二人は昼も夜も聖書を読んだ。だが私が白と読んだところをあなたは黒と読んだ」 と言うように、何事も解釈は人それぞれだと思いますので、 修験道衰退の理由も、どう解釈するかは、当たり前の事ですが、質問者様の自由です。

  • DieMeute
  • ベストアンサー率70% (571/807)
回答No.2

まずは下に貼ったウィキぺディアの「修験道」をご覧下さい。 「修験道」 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%AE%E9%A8%93%E9%81%93 このウィキぺディアに書かれていますが、明治政府は「修験宗廃止令」を出しています。 これが修験道にとり大きなダメージとなりました。 改めて、ウィキペディアに書かれている事、書かれていない事を書きますが・・・ まず、江戸幕府は修験法度を制定し、修験行者は真言宗の当山派か、天台宗の本山派に所属するよう決められます。 つまり修験行者は法的には仏教の僧侶の身分となりました。 ただし、真言、天台に所属しているとは言っても、修験行者の活動としての独立性は維持されます。 なお、修験行者は法度により諸国を遊行するような事は禁止されています。 その結果、町や村に定住する修験行者、里修験が増加します。 彼らの活動については、質問者さんの仰るような、 >半分農業・半分修験僧のような生活 の度合いが強かったようです。 そして明治時代になりますが、明治政府においても修験行者は、江戸幕府と同様に仏教と認識されました。 明治政府では仏教界を再編し管理しようという構想が出ます。 これは簡単に言えば小さな宗派を大きな宗派に統合、その傘下に置いたり廃止してしまおうという構想です。 一例をあげると、律宗は元は真言宗の流れを汲むという事で、真言宗の所轄にされました。他の宗派でも苦難に晒されたりしています。 修験道もその対象となり、明治五年に「修験宗廃止令」が出されます。 これにより「修験宗」は廃止され、修験行者は天台宗の本山派か、真言宗の当山派に帰入する事が求められました。 この「帰入」というのが、修験業者にはダメージでした。 元々、江戸幕府時代より天台宗の本山派か、真言宗の当山派に所属するよう定められていた修験行者ですが、前述したように修験行者の独自性は維持されていました。 しかし、ここでの「帰入」というのは、修験行者は天台宗、真言宗の僧の下におかれ、天台、真言の宗風に従うよう定められたのです。 修験行者は天台、真言の僧より下という事にされ、修験行者としての活動、独自性が大幅に損なわれてしまいました。 しかも、さらにダメージだったのは、医療行為としての加持祈祷が明治政府により禁止された事です。 明治政府は日本を近代国家とするために迷信の類を排除する方向で動きますが、加持祈祷もそれに含まれてしまいます。 こうして修験行者は天台、真言の風下に立たされ、独自性を失い、その活動の根幹に関わる加持祈祷を禁止され、衰退を余儀なくされました。 ただし、後には日本でも宗教の自由が法によって定められたので、律宗が真言宗から再び独立したり、修験道にしても新たな宗派が起こるなどしています。

moto_koukousei
質問者

補足

補足記入が遅くなり、申し訳ありません。 ご回答ありがとうございました。 いわゆる「修験宗廃止令(太政官布告)」は宗派団体としての修験宗が整理され僧としては天台宗、真言宗に帰入させられることになったと点で、宗派活動が打撃を受けたのはわかります。 しかし、修験がもともと教説教理もない個人的な験力を基本とするものを民衆が受け入れ、祈願、疫病治療などの効果を期待されて繁栄していたのであれば、政府の施策で宗派編成が変わったところでベースが変わるとは思いにくいです。 ちょっと考えてみたのですが、明治維新、御一新、四民平等、士分や僧身分の特権的身分制度の否認、文明開化、学校教育制度の実施、廃藩置県、徴兵制実施などがあったのですよね。 民衆が、修験を卑俗で賤しいものと考えるようになり、修験や山伏を見捨てたのではないでしょうか。 http://www.chisan.or.jp/denbouin/book/gendaimikkyo/13pdf/06.pdf 「今日まで妄りに山伏と唱へ修験と指して一種侮蔑の意味に」と修験の側の人物が憤慨していますが、宗派組織の問題、一部の人物の行状問題ではなくて、既に時代が変わり、民衆の大半が修験を聖とも思わず、「従来の修験者を見るに、無智にして教義の意得なき者十に七八を占め、其の品性陋劣にして無信狡猾なる昔は火渡り湯探りの業を作し効験を駄りて愚民を誑惑し、甚しきは法に托して財を貪り」とあたかも香具師の類だとみなす人が増えて来てしまったので、世の趨勢として、修験ではもはや強く信者をつなぎ止めることができなくなったのではないでしょうか。 学校教育、軍隊、鉄道、輸出産業、西洋文明が日本社会を変えていった中では、修験道は衰微するしかなかったってことでしょうか。 明治の宗教政策の影響は、修験道衰微にとってさしたることではなかったのかもしれないと思い始めました。 http://www.mkc.gr.jp/seitoku/pdf/f43-5.pdf http://zenken.aichi-gakuin.ac.jp/research/30/10.pdf 宗教・信教・信仰は基本的に個人の勝手、団体結社の自由があっても、オカルト的なもの、アミニズム、呪術、祈禱では、21世紀に大きくなれないのと基本的に同じことが、開国と西洋文明の積極的取り入れで、19世紀の日本にも起きたのでしょうか。

noname#224207
noname#224207
回答No.1

>私の住まいの付近でも江戸時代には大きな勢力を有していたところが、明治以降衰微し見る影もない状態になっています。 失礼ですが、どちらにお住まいでしょうか? 現在、修験道は一時よりも復活してきているはずですが? (1) 修験道に関して、廃仏毀釈のような暴力的行為が多く行われたのでしょうか。 そのような記録あるいは事実等を記した書籍、webサイトなどありましたら、お教えください。 下記サイトを御覧下さい 神仏分離・廃仏毀釈の歴史経過 www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/myoken43.htm 出羽羽黒大権現 www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/hoso_hagurosan.htm >修験者の個人的利益追求で隆盛したのではなくて・・・現実生活での功徳や験力獲得で勢力を伸ばしてきたのだと思います。 江戸時代の寺社とくに寺院の役割を御理解下さい。 寺院は、信仰の対象としての役割だけではなく行政機関として戸籍の管理を担っていました。 宗門人別改帳と呼ばれるもので、現在の戸籍原簿や租税台帳に相当するものです。 現在、銀行や役所などで自分を証明するものとして運転免許証や健康保健証、パスポートなどが使われますが、これに相当するものとして寺請証文が発行利用されていました。 この証文がなければ、住むことも働くこともできませんでした。 逆に言うと、住民である以上は必ず何処かのお寺の檀徒であったということです。 埋葬、法事などの際の費用は自動的に寺の収入となります。 現在のような葬儀社などというものは存在しません。 更に、規模の大きな寺院は、藩や幕府から認められた領地を所有していてそこから独自に収入を得ていました。 江戸時代の寺院というのは、行政機関であり尚且つ独自の収入源を所有する機関でもありました。 慶長18年(1613年)に幕府は修験道法度を定め、真言宗系の当山派と、天台宗系の本山派のどちらかに属さねばならないことにしました。 即ち、修験道といえども一般の仏教寺院と同じように幕府や藩の行政の中に組み込まれていました。 現在のような信者の祈祷料のみで維持運営されていた訳ではありません。 勘当というのは、親が子供をこの人別帳から削除することです。 勘当された子供は、自分を証明してくれる証文を入手できなくなりますので、住むことも働くことも出来なくなります。 この状態を無宿と言います。 時代小説などで無宿人が旅を続けながら博打で露命をつないでいるのはこの為です。 江戸時代は乞食、物貰いであっても制度として組織化されていて、組織外の人間はできませんでした。 >明治から学制で義務教育、文明開化、西洋科学が怒濤のように流れ込んだにしても、オカルト的験力を期待したい気持ちは強くあったと思います。 修験道はオカルトではありません。 オカルトと信仰。宗教とは厳密に区分してお考え願います。 江戸時代は、儒教と仏教、神道に基づいた思考風俗習慣が徹底していて、オカルト的な祈祷や呪いはまともには扱われませんでした。 江戸時代の庶民というのは無知蒙昧だった訳ではありません。 無暗に霊力や験力を信じていた訳ではありません。 明治時代であっても、家には仏壇と神棚が設置されていました。 国家神道がいくら頑張っても、仏教行事は大切にされていました。 >何故、修験道は衰微したのでしょうか 山岳信仰を土台としていますので、明治以降は、葬儀や法事による収入の確保が難しかったのではないのでしょうか。 宗教といえども、先立つものがなければ、何時如何なる時代でも存続が難しいのが娑婆世界です。 さらに、明治時代に一部が神道系へ変わってしまったのも影響しているでしょう。 都市や農漁村部などの平地では神社の形で存続しているところが多数あるのではないのでしょうか。 一方、山岳信仰主体で復活したところは観光に耐えるだけの史跡を保有している寺院です。 最近は都道府県や市町村も観光収入を目当てにバックアップしているようです。 寺院側も簡易修行体験コースなどというイベントを盛んにやっているようです。

moto_koukousei
質問者

お礼

回答をありがとうございました。 特に、2つのサイトの紹介をいただき、感謝します。 神仏分離・廃仏毀釈の歴史経過 www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/myoken43.htm 出羽羽黒大権現 www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/hoso_hagurosan.htm   ❶ 私の住まいの付近でも江戸時代には大きな勢力を有していたところが、明治以降衰微し見る影もない状態になっています。 これは、次のものです。 http://www.city.sayama.saitama.jp/manabu/rekishi/siteibunkazai/sinoike.html 熊野も出羽も白山も、修験道は明治に衰微します。上記の埼玉笹井のものは見る影もないです。 廃仏毀釈のような暴力的行為が行われたのは、比較的短期間でしかも、対象は権現とか聖護院などの施設と仏具のようです。天台とか真言とかに宗旨替えしたり、神社として鞍替えしたりして行きますが、修験はほとんど消えてしまいます。 修験が半農的修験者によって担われ、その修験者の験力に民衆が期待するところのものであるならば、政府や神祇官による寺的なものや寺領の取り上げ、僧籍や社人、神官への肩書き変更には大きな影響を受けないのではないかと思いまして、、、、 その辺りはいかがなのでしょうか。 修験そのもの、修験に期待する民衆がいなくなったのでしょうか。 それが明治の第一四半期で起きてしまうというのは、なんででしょうか。 ❷ 江戸期において仏寺が行政機関化し、その仏寺と仏僧の経済負担が住民にとっても藩にとっても耐えがたい状態になっていて、明治の初期の動乱期に乗じて排斥、攻撃の対象になった事情はわかるのですが、修験まで攻撃や排斥の対象になるのがしっくりしません。おそらく寺請は真言や天台などになっていたのではないでしょうか。また修験では妻帯修験はもともとの形態で、堕落というようなものではなかったでしょう。むしろ清僧修験という仏寺のような形もとっているところで生活している僧侶?が問題で、明治にあっさり鞍替えしているようにも思います。 ❸ >明治から学制で義務教育、文明開化、西洋科学が怒濤のように流れ込んだにしても、オカルト的験力を期待したい気持ちは強くあったと思います。 ⇒ 修験道はオカルトではありません。 オカルトと信仰。宗教とは厳密に区分してお考え願います。 私は信仰と宗教って何だろうとと思い悩んでいるような状態なので、ちょっと変なことを思っているのかもしれません。 「オカルト=秘学・神秘的なこと・超自然的なもの・呪術祈禱や個人の験力を期待するもの」というイメージで考えているので、修験はオカルトだと思っています。修験には基本的に教理体系がしっかりした経典も教説もないと思っています。修験者が修験で獲得した超自然の力を期待するものであって、権現の救いを信じるものではないと思っています。 「無暗に霊力や験力を信じていた訳ではありません」とのことですが、霊力や験力を期待したので真宗でも密教でもなくて修験道を支えたのだと思っています。単に、阿弥陀、大日、観音、権現、妙見と選んだだけではないと思います。 修験の本山派、当山派などは幕府の影響もあるでしょうが、教理体系がないことをカバーするための化粧のような面が大きいと思っています。 「国家神道がいくら頑張っても、仏教行事は大切にされていました」 この仏教行事の主要なものは葬送と法事でしょう。 そうであるならば、修験に関しても、国家神道がいくら頑張っても広く継続して不思議がないように思うのです。 仏寺は大量に閉鎖され、残ったものも規模が縮小したようですが、とにかく偉容を後世に伝えるだけの存続がありました。ところが修験は仏寺か神社に鞍替えしてしまうようです。 ❹ >何故、修験道は衰微したのでしょうか 山岳信仰を土台としていますので、明治以降は、葬儀や法事による収入の確保が難しかったのではないのでしょうか。 宗教といえども、先立つものがなければ、何時如何なる時代でも存続が難しいのが娑婆世界です。 さらに、明治時代に一部が神道系へ変わってしまったのも影響しているでしょう。 都市や農漁村部などの平地では神社の形で存続しているところが多数あるのではないのでしょうか。 一方、山岳信仰主体で復活したところは観光に耐えるだけの史跡を保有している寺院です。 最近は都道府県や市町村も観光収入を目当てにバックアップしているようです。 寺院側も簡易修行体験コースなどというイベントを盛んにやっているようです。 ⇒ 日本の宗教や信仰って、葬儀や法事による収入で維持するものでしかないのでしょうか。 年忌法要、葬送儀礼、祖霊追善のようなことで収入を得るのが重要なのはわかるのですが、それが日本の宗教や信仰だとすると、そうではない宗教がメジャーにならないのは何故でしょう。 現実の生活を律する、道徳の戒め、迷妄や不安からの脱却、生きていく信条の獲得は、日本の宗教や信仰では重視されないのは何故でしょう。 上部座仏教、オカルティックな宗教、一神教的宗教にも転進できないで、観光やパワースポット、ヨガ的/オカルト体験での山岳修行という形にしかいけないようだから、明治にあっさり神社や仏寺に転進し修験としては衰微してしまったのでしょうか。

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    明治に廃仏毀釈があったそうですが、 仏教の影響で被差別とされた、神人などは明治以降もそのままなのはなぜ? 江戸期河原から追い出され、街で興行し税金払った為、被差別で無くなった歌舞伎のように現在思われる以上に柔軟であった筈です。

  • 廃仏毀釈について

    1868年に判然令によって、いわゆる廃仏毀釈がおこなわれ、建築物としての神社仏閣が分離されたと言います。 明治以前の神社はどんな姿をしていたのか知りたいのですが、どうなんでしょう。たとえば、近江の日吉神社とか、豊前の宇佐八幡とか、神社の形としてしては(建築物の配置としては)、現在のままだったのでしょうか?

  • 火葬することの意味を昔の人はどのように考えていたと思いますか。

    火葬することの意味を昔の人はどのように考えていたと思いますか。 (1)仏教徒も含めて、近世までの主流は火葬よりも棺桶を使った土葬であった。 (過去には風葬もあったと思います。) (2)遺体という大量の水分を含んだ物質を焼骨に変えるには、大量の薪と、効率よく焼くための技術が求められる。そのため、火葬は費用がかかる葬儀様式であった。 (3)日本で最初に火葬された人は僧道昭(700年)。また天皇で最初に火葬されたのは持統天皇(702年) (4)火葬の行われた痕跡のある古墳がある。 (5)仏教では仏陀の故事にちなんで火葬が尊ばれた。 (6)神道家の一部には火葬を仏教徒の残虐な葬儀法として禁忌する。 (7)明治政府は明治6年に神仏分離令に関連して火葬禁止令を布告したが衛生面の理由・仏教徒の反発などから明治8年には禁止令を廃止した。 以上ウィキペディアより。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%AB%E8%91%AC 魂の入れ物である肉体を残しておかないと復活できないというような考え方もあったようで 僧侶の中には即身成仏した人もいたようです。 また神道では火葬は忌むべきもの、仏教では火葬が尊ばれていたようです。 明治まで神仏習合されていた日本人は火葬をどのように考えていたと思われますか。 時代によっても異なるでしょうか。 (そうであれば時代別に回答いただければありがたいです。)

  • 出羽神社(羽黒山神社)の歴史について

     出羽三山への旅行を計画しています。  全くの無知なので、ちょっと予備知識をと思ってネットで色々学習しているのですが、いろいろな表現で書かれていたり、どっちが本当なのと疑問を感ずるような記述もあったりでもやもやしています。  何せ飛鳥時代までさかのぼるようですので曖昧な部分も多々あるかとは思いますが、とりあえず出羽神社(羽黒山神社)の歴史について自分なりに次のように整理してみました。 1 蜂子皇子が、まず羽黒山に神(出羽神社の初め)を祀り、修験道場を開いた。続いて月山や湯殿山を開く。 2 平安時代には入り密教(真言宗)の影響を受けて神仏習合が進む。 3 江戸初期に寂光寺となり天台宗の寺となる。 4 明治の廃仏毀釈で寂光寺大金堂は三神合祭殿(出羽三山神社) となり、寂光寺は廃止。  というふうに現時点では理解しているのですが、これ良いのかどうか、確認ないしは訂正いただけたらありがたいのですが、よろしくお願いします。