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明治時代の神仏分離と寺請制度の背景について
- 明治時代における神仏分離は仏教排斥を意図したものではなかったが、全国各地で廃仏毀釈運動が巻き起こり、寺院や仏具の破壊が行なわれた。寺請制度のもとで寺院に反感を持った民衆も廃仏毀釈に加わった。
- 寺請制度は僧侶を通じた民衆管理が法制化され、幕府の出先機関の役所と化し、宗教活動がおろそかになり汚職の温床となった。この事が明治維新時の廃仏毀釈の一因となった。
- 明治時代の神仏分離により、全国各地で廃仏毀釈運動が勃発し、寺院や仏具の破壊が行われた。寺請制度のもとで管理された寺院に対して反感を持った民衆も多かった。また、寺請制度は汚職の温床となり、廃仏毀釈を引き起こす要因ともなった。
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