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イエスの大嘘

masazaiの回答

  • masazai
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回答No.7

私はムスリム(イスラム教徒)です。 ムスリムは、ムスリムも、イエス・キリストが神から遣わされた特別な存在だということを信じています・・・キリスト教徒とは違う認識で。 そんなムスリムとしての視点から書きたいと思います。 聖書はイエスの言行だけでなく、ほかの聖典で言うところの「解説」「注釈」が彼の言行の記述との差が分からないぐらい並行して書かれています(海外の聖書研究者の言)。 そして、神のメッセージを人々に伝えた彼が「天に昇った(30歳強ぐらいの時?)」後100年以上経ってから記述という形で保存されるようになり、純粋な神のメッセージではない、イエスの使徒の「感じたこと」「思っていること」が「聖なる経典(聖書)」の大きな部分を占めています。 おかしくないですか? イエスが本当に神から遣わされて使命を全うしたとしても、現在私達が「キリスト教における神の言葉」と信じられている聖書に、髪の直接のメッセージ以外の、いわば「神の言葉に関する、使徒のレビュー」みたいなものも神の下した聖典の言葉として扱われているなんて。 このようにして、ムスリムは「神が詩篇や福音を下した」ことは信じていますが、現存する「詩篇」や「福音書」の内容全部を認めているわけではありません。 何故ならイエスの目の前でどこまでが神の言葉かを確認したわけでもなく、イエスの使徒ですら死んでしまった後の、イエスに直接会っていない世代の人々が聖書を編成したのですから。 また、イエスの誕生に関して。 名前は忘れましたが、ある有名な物理学者がこう言ったそうです。 「この世界(宇宙や自然)が自然に今のような形になることは、公園のゴミカゴに自然発生で竜巻が起こり、自然にそのゴミからボーイング機が出来上がるのと同じぐらい難しい」 トポロジーの観点からも(ゴメンナサイ、私自身はガチガチの文系脳です)、自然というのは完全に「自然発生」したのではなく、「ある外部からの力」が加わったことによって自然ができ始めた、と考えるそうです。 その「外部からの力」って何でしょうね? 私達は特に宗教など超自然現象に関して語られると「そんなの科学的でない」と一蹴する割には、自然の成り立ちは「あれは自然にああなった」と、科学的見地を無視します。 それならば、前述のように「自然が自然に出来上がることは不可能に等しい」のに、何故こんな複雑な森羅万象が動いているのでしょう? それは、現代科学では証明不可能な「ある別の力=神」が存在するからです。 それを宗教は認めているんです・・・科学至上主義者の方々が何と言おうと。 だから神が「このようになれ」と命じられれば、何でも起こるのです。 だから、キリスト教徒だけでなくムスリムもイエスは「父無しで、神の命令によってのみ誕生した」と信じるのです。 ということで、イエスの誕生は嘘ではない、普通ではありえないことだが、神の力で「充分起こり得た」ことなのです。 ということで、繰り返しますが。 イエスはウソをついていない。 彼は神の力によって父無しで誕生した。 彼を神格化したがった後世の者たちが、彼を神格化するために、あれこれ「イエスが神から授かった言葉のオリジナル」に手を加えたことが問題。それが原因で彼が嘘つき呼ばわりされてしまっている。 ご存知かもしれませんが、有名な話。 クリスチャンの祈りの言葉で有名なのをご存知ですか? 「天にまします、我らが父よ。願わくは・・・」というもの。 クリスチャンは日常的に神を「父」と呼ぶのです。他にも「父なる主」という言い方もしますよね・・・クリスチャンは皆イエス同様に「神の子」だと? 違います。これはイエスの時代やそれ以前もそうで、それだけ人々と神の距離が近い、ということの表れでしかないのです。 イエスだけが神を「私の父」と呼んでいたのではないんです。 だから、彼は特別な人間だったとしても、「神の子」ではなく、皆と同じ人間だったのです。 それを「彼だけは神の子」と事実を歪めたのは、彼が天に昇った後の人々。 イエスは嘘つきではありません。 イエスの後世の人達に嘘つきがいて、聖書の言葉を歪めたのです。

bragelonne
質問者

お礼

 まさざいさん السلام عليكم  (ヰキぺから引きました)。こんにちは。初めまして。ご回答をありがとうございます。  ムスリムなのですね。わたしも キリスト・イエスの指し示した神を受け容れ〔ることが出来〕て 《心がやわらがしめられた( muSLiM )者です。神に帰依しています( iSLaaM )。  さて 互いの情報を突きあわせて よりよい認識と互いの理解へとおしすすめたいと考えます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  神のメッセージを人々に伝えた彼が「天に昇った(30歳強ぐらいの時?)」後100年以上経ってから記述という形で保存されるようになり、純粋な神のメッセージではない、イエスの使徒の「感じたこと」「思っていること」が「聖なる経典(聖書)」の大きな部分を占めています。  おかしくないですか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 説明いたします。  1. イエスの生前には かれが自分は神の子でありみづからも神であると語っていたにもかかわらず 弟子たちを初めとして誰も そのことに気づかなかった。言葉では聞いていたとしても 理解できなかった。  2. 弟子たちは やっと・つまりイエスが十字架上に去ったそのあと そのイエスの語った言葉は腑に落ちたのです。すべてを知りました。  3. つまりそのときが イエスが  ★ 天に昇った  ☆ ときだと言っても マチガイではありません。それまでは ただ立派な人間が迫害に遭って一命を落としてしまったくらいに思っていただけです。  4. イエスの語録が集められて行ったのは ほどなくだったでしょう。百年も経たないあいだに 福音書が編まれました。またすでに並行して パウロの書簡が書かれるようになって来ています。  5. ★ 純粋な神のメッセージではない、イエスの使徒の「感じたこと」「思っていること」が「聖なる経典(聖書)」の大きな部分を占めています。  ☆ いえ。それは そういう見方をするのならば すべてが聖書記者の思うところにしたがって書かれたのだと言うべきでしょう。  6. 《神のメッセージ》は 《純粋な》ものは 人間の言葉では表わし得ません。そもそも 神語を人間語にそのまま写すのは無理です。翻訳や解釈が とうぜん伴なわれています。  7. しかもそんなことは――つまりどういう編集方針であって その結果実際の語録がどこまで忠実に反映されているかなどなどのことは―― ほとんど問題になりません。全体として――パウロの書簡をも含めて 全体として―― イエスが どうしてキリストであるかを捉えるために読めばよいのです。  8. 《法律(律法)》がモーセによってもたらされたわけですが キリスト・イエスは 《まこと と めぐみ》をもたらしたと言われます(ヨハネ福音のはじめ)。  9. 人間にとっては 人間語であらわされたイエスの言葉が 大うそである。そのような大嘘をとおしてでも 神とは 全体としてひとつであること また名が違っても――アッラーフと言い エローヒームと言い 名が同じ( ’LH )であっても ヤハヱーと言い違っていても――神はおなじひとつであるというマコトを告げました。  10. また 《わたしは 道であり まことであり いのちである》と言って その生命のチカラを 泉の水のごとく内から湧き出るように元気づけました。めぐみです。    11. さらには 《めぐみの上にめぐみ》をも与えました。よみがえり・復活です。たぶん 現代人にとっては 平均寿命が 二百歳にでもなれば もう《永遠のいのち》でしょう。  12. というように オシエが――ローマ教会等々によって――どのように説かれようが それらにはお構いなく 神が示され 尽きせぬ元気があたえられ続けるなら それでよいわけです。  ★ 何故ならイエスの目の前でどこまでが神の言葉かを確認したわけでもなく、イエスの使徒ですら死んでしまった後の、イエスに直接会っていない世代の人々が聖書を編成したのですから。  ☆ そのくらいのことが神に出来ないと思うことのほうが おかしいと考えます。世界のすべての出来事が 言わば神からの手紙ですから。  ★ それは、現代科学では証明不可能な「ある別の力=神」が存在するからです。  ☆ どれもこれも 反論をおこないますが:  たぶんこのときのチカラは 《外の・別の》ではなく 世界をすべて覆い尽くすような神のチカラ(もしくは 自然生成としてのチカラ)だと考えられます。  神は この経験世界と《別の・外の》ではないところが ミソです。  ★ 彼は神の力によって父無しで誕生した。  ☆ わたしの聞くところによりますと   【Q:聖母マリアは 聖霊と精子との両方により身ごもった】    http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8395100.html  そうです。すなわち  ★ だから、彼は特別な人間だったとしても、「神の子」ではなく、皆と同じ人間だったのです。  ☆ イエスというふつうの人間であると同時に キリストと呼ばれるようになった神の子でありみづからも神である存在です。イエスとしては ヨセフとマリアを父母として生まれ キリストとしては マリアが聖霊によって身ごもって生まれたということになっています。  これによって 最初に(1)から(12)までつづった説明も照応しており 有効であると――想定上・理論上――見ます。  ★ イエスは嘘つきではありません。  ☆ 神語と人間語のあいだで ウソは発生するのだと説明しています。

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