「他者を認める」大切さとは?自尊心とプライドに影響ある?

このQ&Aのポイント
  • 他者を「認める」ことは、自尊心やプライドに影響を及ぼすのか疑問が生じます。
  • 他者を「認める」ことは難しいと言われる理由は、自尊心を傷つけると解釈する人々がいるからです。
  • 出自やアイデンティティなど、様々な理由から他者を「認める」ことを拒む人が存在します。
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「認める」ことの大切さ

・他者を「認める」ことは、みずからの自尊心を傷つける行為になりえますか? ・他者を「認める」ことは、みずからのプライドを傷つける行為なのですか? これは、どこの社会においても重要なこととされます。これまで、恋愛にかんする質問をしてきましたが、恋愛の根本であると思いますので、「認める」ことについての質問をしました。 他者を「認める」ことは、難しいこととされます。なぜならば、他者を「認める」ことを、みずからの自尊心に悪影響をもたらすことと解釈する人々がいるからです。 あいつのことを「認める」だなんて、俺のプライドが許さねえ! こういう人々がいることを、わたしは知っています。意外かもしれませんが、かなり多くいると思います。 これは、過去のことでしたが、わたしは外国に「つながり」をもつ日本人で、そのような出自から、わたしのことを日本人として「認める」ことを拒んだ人間がいます。 何の脈略もなしに、突然、「ハーフのくせに、日本人だなんて許さねえ! 国へ帰れ!」などと言われたこともありました。 出自だとか、民族のアイデンティティがつねに関係するわけではありませんが、そのほかの理由もありえると思います。いろいろな難癖(本人にとっては、ちゃんとした理由だそうですが)をつけては、他者を「認める」ことを拒む人間がいます。

noname#189117
noname#189117

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • flutekun
  • ベストアンサー率27% (47/171)
回答No.13

大雑把な理屈でいうと傷つける行為にはならないのですが、若かったり未熟な人は自分が気に入らない人の事は全否定してしまう傾向がありますよね。 要するに他人というより、自分が認めたくない人を認めるという事ならば、傷つける行為にはなりえるって事です。 認めたくない人っていうのは仲が悪いとかに限らず(仲が悪いと全否定、仲が良くになるにつれて緩和されていきます)うわべの関係上は親友であったり恋人であったりもします。 質問者様が男性なら自分でその答えがわかる例を思いついたので考えてみてください。 (女性ならパっとしないと思います^^;) 質問者様は父親だとします。 処女の一人娘が居ます。 娘が彼氏ができたと彼氏を連れて報告してきました。 相手がどんな奴だろうと認めたくありませんよね。 飛躍してひらたく言うと、 彼とHする事認めてねって報告に質問者様は彼に向かって「いいよ」て答えることが出来ますか? そう答える事は自尊心を傷つける行為になりえますか?って事ですよ。

noname#189117
質問者

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コメントありがとうございます。

その他の回答 (15)

回答No.16

1許容範囲内かどうかで決まる。2他者と自分を比べることが間違っている。得手不得手があるので。

noname#189117
質問者

お礼

コメントありがとうございます。 日本語には「生理的に・・・」という、最高の逃げ言葉がありますよね。

  • gigadanon
  • ベストアンサー率4% (20/459)
回答No.15

相手を認めることが自分の自尊心を傷つけるとはわけがわかりません。 たとえば相手を「おまえは一人前だな」と認めたら、なんで自分が 傷つくんでしょうか?よくわかりませんが、そういう人が仮にいたら、 その人は変な人だと思います。

noname#189117
質問者

お礼

コメントありがとうございます。

回答No.14

認める ということは自分も大切なことだと思います それなので否定することより 認めることを優先的に考えるようにしています また認めることが嫌いな性格の知人友人は 自分に余裕のない性格の方がおおいと思います 気持ちに余裕のある人は認める方がすばらしい事だとわかっています

noname#189117
質問者

お礼

コメントありがとうございます。

  • qwe2010
  • ベストアンサー率19% (2129/10795)
回答No.12

他者の良いところを認めているから、友達として、恋人として、妻として付き合っているのです。 自分には、他人が持っていない良いところがあります。 だから、自尊心、プライドは傷つくことはありません。 常に一番でなければならない人は、追い越されると、プライド傷つく場合があるでしょうが、、 私は、自分の能力があまり高くないことを知っているので、傷つくことはありません。

noname#189117
質問者

お礼

コメントありがとうございます。

  • sum0121
  • ベストアンサー率4% (6/136)
回答No.11

他者を認めるとはつまり他者を許すことであり 自分を認めるとはつまり自分を許すこと。 どうか肩の力をぬける思考をもちたいものです。

noname#189117
質問者

お礼

コメントありがとうございます。

回答No.10

世界にはいろいろな人がいます、あなたがそういう人達を認めてあげればいいのです。

noname#189117
質問者

お礼

コメントありがとうございます。

  • beest002
  • ベストアンサー率12% (51/421)
回答No.9

拒む自由も無いのかな? ハーフだからとか じゃなくて 例えば こんな性格(しつこいくどい?) ↓ 【いろいろな難癖(本人にとっては、ちゃんとした理由だそうですが)をつけては、他者を「認める」ことを拒む人間がいます。】 いいこと書いてあるね!

noname#189117
質問者

お礼

人格上の<問題>には、さまざまなケースが考えられると思います。 ただ単に、他者を認めたくないと言い張る人々もいるでしょう。あるいは、特定の他者にたいして差別感情をもっている人々もいると思います。そういったケースでは、いわゆる心身症のようなものも考えられるとは思いますが、当の本人の「精神」が未熟だから、あるいは、幼稚だから、ということだと思います。

回答No.8

自分の心のスキルアップを高める事として、認める事も大切なことだと思います。否定ばかりしていると、心の狭い人間や堅苦しい人になってしまいがちだと思います。

noname#189117
質問者

お礼

コメントありがとうございます。

回答No.7

他者を「認める」ことは、みずからの自尊心を傷つける行為にならないと思います。 他者を「認める」ことは、みずからのプライドを傷つける行為ではないと思います。 認めることは、理解することだと思います。

noname#189117
質問者

お礼

コメントありがとうございます。

  • kechi43
  • ベストアンサー率9% (12/132)
回答No.6

 他者を認めて、みずからの自尊心が傷つく人は、よほどの自己愛性格(ナルシスト)で、自己万能感の否定や敗北感によって自尊心が崩壊して生じます。その他、通常の人間は、相互に認めあう良好な人間関係によって、相互の互恵関係が形成されて、良い効果が生じます。

noname#189117
質問者

お礼

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