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天皇の座に就こうと思った人っていないのでしょうか?
今までの歴史で、 天下をとったり倒幕したりしてきたけど 天皇の座に就こうと思った人っていないのでしょうか? 日本一になってもあくまでも天皇の下で満足したのでしょうか?
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- Tacosan
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「天皇の座に就こう」という意思が資料上確からしいのは, 既に挙げられている弓削道鏡だけですね. 足利義満については自身が「日本国王」として明との冊封関係に入っている (対外関係) だけですから, 必ずしも「皇位」とは関係ないでしょう. これも既にあるように天皇の権力そのものが中世には失われており (天皇の命令と律令とがぶつかったときに律令を優先させた事例もある), 権威だけの存在となっていました. ただしその権威を背景に摂政や関白, 上皇や法皇, あるいは将軍が権力を持っているという構造になっていて (この構造は鎌倉幕府における将軍と執権の関係に似てる), かつその「天皇の権威」そのものが皇統によって支えられている (+ 他氏族もある意味「皇統の分家」という形になっている) ため, 「皇統の外から天皇を入れる」というのは非常にリスクが高いです. それよりも「何らかの理由で天皇が自分の指示に従うよう操作する」方が簡単. 織田信長については日本を含む東アジア全体の支配をもくろんでいたという話もありますが, その中でも信長自身が天皇にとって代わるということにはなっていなかったような気がする... というか, 信長は「東アジア全体の支配者」であり, その中の日本を天皇に与える, という構図だったような.
- shin1417
- ベストアンサー率27% (199/721)
井沢元彦氏の著書によると、天皇の地位にあった者が不幸な死に方をすると後年、日本国内で大きな天災や疫病等の大きな災いが起きています。ただの偶然かもしれませんが。 『あの一族』は、手を出すと『やばい一族』というのが、昔の人達の認識だったようです。 という訳で、天皇を倒して自ら天皇の地位に就こうなんて考えようとした人間なんていなかったようです。
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ありがとうございました。
- princelilac
- ベストアンサー率24% (1619/6638)
中学校で習った歴史では、壬申の乱は皇位継承を巡っての皇族同士の戦でした。 ほぼ同じ時期に道鏡という僧侶が天皇の位に野心を持っていたとされています。 しかし、その後の研究ではいろいろと新たな見解がでているようです。 武家社会になった後は、幕府の長として将軍の座に就いて政治の実権を握りましたが、天皇家や皇族に対する敬意は持っていたようです。これは「将軍」の称号は坂上田村麻呂の征夷大将軍に由来することや、秀吉が「関白(=太閤)」という貴族の称号を得たことからも察することができると思います。
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ありがとうございました。
- born1960
- ベストアンサー率27% (1223/4397)
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ありがとうございました。
- あずき なな(@azuki-7)
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天皇の一歩手前まで行った人物は2人居ます 称徳天皇(女帝)の愛人だった弓削道鏡 太政大臣禅師まで上り詰めあと1歩で天皇だったところを和気清麻呂(桓武天皇の側近で平安遷都を指揮しました)によって阻止されました 足利義満 自らを日本国王と名乗り 息子の2代将軍を天皇の養子としたりと着々と人身天皇の道を進みましたが やはり彼も天皇の一歩手前で死亡しました 義満の場合は本当に惜しかった 朝廷が義満を天皇にすると言う詔勅(天皇の命令書)を出す前日に死亡しています 一説には義満が天皇になるのを恐れた何者かが暗殺したという説が強いです 本当に突然の急死だったので
お礼
ありがとうございました。
- eroero1919
- ベストアンサー率27% (3007/11113)
織田信長が本能寺の変の少し前に、突然官位を返上しました。天皇と会うためには官位が必要なのですが、それを返上しちゃった。「天皇との折衝は家臣に任せてあるから、俺はもう官位は要らねえよ」と言い出したのです。 慌てたのは公家衆です。なんと「太政大臣でも征夷大将軍でもなんでも好きなのもってけ」と言い出したのです。私は日本史全般に詳しくないけど、「どれでも好きな官位を持っていっていい」といわれたのは織田信長だけなんじゃないかと思います。信長が官位を持たないということは、天皇の家臣にはならないということですからね。 それからしばらくした後に、本能寺の変が起きました。起こしたのは、織田家と天皇家との折衝担当だった明智光秀でした。いえ、私は何も申しません。ただ、事実だけを述べるだけでございます。
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- guess_manager
- ベストアンサー率33% (1175/3512)
室町幕府3代将軍足利義満は、中国の冊封体制に組み込まれることで日本の元首となり、明の永楽帝から「日本国王」の封号をもらいました。 当時は北朝の後小松天皇の時代でしたが、外交の代表としての権力を握り勘合貿易の利益を独占することで日本の最高実力者となったのです。 ただし、この時点では義満は征夷大将軍と准三后(太皇太后、皇太后、皇后の次の位)という肩書を持っていましたが、その上に天皇・上皇という位がありました。 そこで、南朝の後亀山天皇から三種の神器を取り上げて後小松天皇に渡し、南北朝合一を果たしました。このころには裁判権も幕府に移り、徴税権、朝廷の人事権も幕府のものになっていきます。 義満は1394年に出家し、祭祀をとり行うなど宗教的権威をまとい天皇の権力を超えた振る舞いをします。義満は、実子の義嗣が元服した後に、後小松天皇に禅譲させようとしましたが、義満は義嗣の元服の3日後、突然の死を遂げ、壮大な野望は潰えてしまいました。
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ありがとうございました。
女帝のボーイフレンドだったのではないかと言う説がささやかれる弓削の道鏡はみずから天皇になろうと画策しました。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E9%8F%A1
お礼
ありがとうございました。
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ありがとうございました。