• 締切済み

何が幸福であることを決めるのか?

何かの哲学に類する本に書いてあった文章から生じた疑問なのですが、うら覚えで大雑把な内容は下記の通りだったと思います。 ”特に幸せでも不幸せでもない人並みの人生を過ごしているある聡明な人物が、交通事故で脳を損傷し幼児化してしまったが、そのことで本人は毎日そして生涯、楽しい人生を送ることができようになった。周囲は同情的な目で見ているが、彼は幸福だと言えるのかどうか?” もし自分の幸福は自分自身に決定権があれば、特に問題はないですし、今質問しようとしている疑問も成立しないのですが、上記のような問題設定で、事故した彼が幸福だとは思えないとした場合、他者と自分の相互性に基づく客観性を受け入れるなら、自分の人生をどれだけ生涯幸せだと感じていたとしても、実はそうではない可能性があるということになると思います。 そうなると、ある人を「幸福」であるとする究極的な基準は存在しないのでしょうか? 「赤い色」を見ていたということは本人に決定権があるように思いますし、 誰かが「美人」かどうかは、社会の多数決で決まるように思います。 自問自答っぽいのですが、ある人が「幸福」であるというのは、その2つの基準の混合物?の要素があるがゆえにどっちから見るかで自分の頭の中で混乱しているのかもしれません。 質問が明確でなくすみません。 幸福であることの基準に、自己決定と周囲の決定以外に、幸福であることを決める要素がありうるのか?が質問です。 その他、何か指摘できる点等ありましたらお願いします。

みんなの回答

  • 0fool0
  • ベストアンサー率18% (134/738)
回答No.3

幸せの基準

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7194/21844)
回答No.2

幸福を、主観的にとらえるか、客観的にとらえるか の問題がまずあり、主観的とらえるとした場合。 幸福の意味を理解し、幸福であるという認識が必要 なのか、 それとも、ただ気持ちよい生活が出来ていれば それで幸福なのか、 という問題があると思います。 後者までいくと、動物の幸福感まで考える ことになりそうです。 最大多数の最大幸福なんて考えは、 幸福は測定可能だ、ということを前提として いるわけで、 従って、幸福は客観的なモノだ、ということ になると思われますね。 しかし、幸福が人によって異なることは経験的 事実ですから、幸福というのは主観的に捉える べきでしょう。 でも、動物に快楽はあっても幸福感は無いでしょう から、幸福である、という認識を前提とした 幸福感が幸福であると考えます。 従って、脳の損傷によってどの程度のレベルに なったのか、否かにより判断されることに なると思われます。 しかし、親の苦労や悲観、周囲の影響を考えると それを認識できる人間が幸福感を味わうことは 難しいでしょう。 結局、自己決定は周囲の決定に接近する ということになると思われます。 ”幸福であることの基準に、自己決定と周囲の決定以外に、 幸福であることを決める要素がありうるのか?が質問です。”     ↑ 例題では、自己決定が出来ない人間の幸福と いうことになるのではありませんか? そして、自己決定できないから不幸だという 考え方があるので疑問が出て来るのでしょう。 その意味で、この問いは矛盾しております。

回答No.1

哲学や倫理を専門にしているわけはありませんが…答は`ない`と思います。加えて、その人が幸せを感じているかどうかという条件のみが、その時点でその人が幸福か否かを決定すると思います。 質問者様が引用されている文ですが、事故った人物を仮にAさんとしますと、周囲がどれだけ彼の境遇を嘆いたところで、”Aさんが現に今幸福なるものを感じているならば、Aさんは今幸福である”ということは(トートロジーみたいですね)否定しえないと思います。 しかし仮にAさんが、周囲が自分の現状を嘆いている様を見て、自分は幸福などではないのでは?という疑念を抱き、そして本当に幸福を感じなくなったのならば、Aさんはそのとき幸福ではないと思います。この場合周囲からAさんの幸福への評価(という客観的指標)がAさんの幸福に影響を与えていますが、しかしそれはあくまでも、Aさん自身の「自身の幸福への評価」という経路を通じた場合のみです。仮にAさんの幼稚化症状が深刻で、もはや周囲の同情を気にすることすらできないほどならば、周囲の同情はAさんの「自身の幸福への評価」に影響を与えないので、Aさんはやはり幸せと思います。

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