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何が幸福であることを決めるのか?

何かの哲学に類する本に書いてあった文章から生じた疑問なのですが、うら覚えで大雑把な内容は下記の通りだったと思います。 ”特に幸せでも不幸せでもない人並みの人生を過ごしているある聡明な人物が、交通事故で脳を損傷し幼児化してしまったが、そのことで本人は毎日そして生涯、楽しい人生を送ることができようになった。周囲は同情的な目で見ているが、彼は幸福だと言えるのかどうか?” もし自分の幸福は自分自身に決定権があれば、特に問題はないですし、今質問しようとしている疑問も成立しないのですが、上記のような問題設定で、事故した彼が幸福だとは思えないとした場合、他者と自分の相互性に基づく客観性を受け入れるなら、自分の人生をどれだけ生涯幸せだと感じていたとしても、実はそうではない可能性があるということになると思います。 そうなると、ある人を「幸福」であるとする究極的な基準は存在しないのでしょうか? 「赤い色」を見ていたということは本人に決定権があるように思いますし、 誰かが「美人」かどうかは、社会の多数決で決まるように思います。 自問自答っぽいのですが、ある人が「幸福」であるというのは、その2つの基準の混合物?の要素があるがゆえにどっちから見るかで自分の頭の中で混乱しているのかもしれません。 質問が明確でなくすみません。 幸福であることの基準に、自己決定と周囲の決定以外に、幸福であることを決める要素がありうるのか?が質問です。 その他、何か指摘できる点等ありましたらお願いします。

みんなの回答

noname#187021
noname#187021
回答No.13

WHOのQOL26

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.12

こんばんは。 >「「赤い色」を見ていたということは本人に決定権があるように思いますし、 誰かが「美人」かどうかは、社会の多数決で決まるように思います。」 いやいや。逆ではありませんか。 (「赤い色」は客観的に決まります、が、「美人かどうか」かは、本人(当事者)に決定権がある) 「幸福」という単語では、「幸福追求権」というのがあります。 別に誰からも「これこそが「幸福」だ」と決め付けられない、ということでしょうか。 「集中の錯誤」?というような表現もありましたね。 「これだ!!」とこぞって、多数が追い求めると、それは不合理になる、というようなことです。

  • amaguappa
  • ベストアンサー率36% (140/385)
回答No.11

milieu というフランス語があります。これは、monde「世界」という語と対比して、人間が社会的に生きる存在であるがゆえにまとっている世界を指します。ざっくりといえば境遇というような意味です。 その境遇をあぶり出す世界の衣とはどんなものでしょう。そこは人が中に身を置くためのさまざまな条件に満ちています。個人が境遇の条件から逸脱しすぎていると、その人は主観として幸福を感じることができません。こんにち、地球は狭くなり、地理的な束縛は薄まりましたから、目に見えないモザイク状のmilieuが数多く存在することになりました。社会的な繋がり、人の関係性のなかで生きるということが、必ずしも空間の共有によるものではなくなりました。この個人の纏う衣としての境遇を注意深く読み取れば、単純な「自己決定や周囲の決定」ではなく、人が幸福を見出す地平というものがあらわれるわけです。 脳を損傷した場合、たしかに幼児化といえば同じですが、多くの場合その意味は、ものごとの系列視ができなくなること、作業記憶の容量が減少すること、そして成人するまでに経験した記憶をカテゴリ群に結びつけていたスキーマを失うことです。これは客観的想像力の弱さに繋がります。 ですから、そのような人物が「幸福」であるためには、幼い子供たちの群れに混じるか、心得た人々に世話されている必要があります。大人社会の衣をまとわせると、不幸になってしまいます。 ここで大事なことは、本人の主観と周囲の客観という区分から考えるのではなく、境遇の成りたつ世界そのものによく注目し、境遇が個人に押し当たる力のほうに「幸福」の決定力があるということです。 存在と場の諸条件がマッチしている状態において、場は存在を受け入れる。幸福というのはベクトル力学として現れるものでしょう。 ところで、こういうのは恋愛ならばとても容易な力学となりそうですが、われわれ一般の日常生活を考えるとどうでしょうか。milieuはずいぶん細かい条件に満ちているように思います。境遇は千差万別でありながらも同時に、やや強迫的に社会価値として押し付けられています。 個人が幸福へのマッチングをはかるだけでほとんど神経症の様相を呈する合衆国の後を、日本人も追うのでしょうか。

noname#189751
noname#189751
回答No.10

幸福の基準もなければ、不幸の基準もない 決めるのは心だと思います。 幸せだと思えば幸せだし 不幸せだと思えば不幸せです。 自分がそうだから、人の幸不幸は分からないし、分かるはずもないと思います。 幸せの形も、不幸せの形も決まってはいないと思います。 小さなことが、何よりも幸せに感じることもあれば 人に見る些細なことが、その人にとっては大きな事である場合もあります。 自分を目安にしてのみ、人の幸せを推し量るのは誤りかもしれませんが そうとしか出来ないのも確かだと思います。 幸福の基準は主観という、あやふやなもの・・ といってしまえば、それまでですが・・。

回答No.9

こんにちは。 この質問は、主観としての幸福と客観として考えられる幸福、という問題になるんでしょう。 ☆”特に幸せでも不幸せでもない人並みの人生を過ごしているある聡明な人物が、交通事故で脳を損傷し幼児化してしまったが、そのことで本人は毎日そして生涯、楽しい人生を送ることができようになった。周囲は同情的な目で見ているが、彼は幸福だと言えるのかどうか?” ◇交通事故にあって幼児化したヒトをA、周囲のヒトをBとすれば、 Aさんの主観的幸福と、Bさんの主観的幸福が異なるというわけでしょう。 Aさんは今の状況を幸せと感じているけれど、 Bさんの目には、Aさんの今の状況は幸せとは考えられない。 それだけの話なのでは? もちろん、客観としての幸福が存在すれば話は別ですよ。 客観としての幸福が存在すれば、Aさんの主観的幸福の真偽について議論することはできますけれども、はたして、個々人の主観を離れた客観としての幸せは存在するのか? これは極めて疑わしいです。 幸せ感というのは、極めて個人的で、主観的要素が強いですから。 ただし、 ☆「赤い色」を見ていたということは本人に決定権があるように思いますし、 誰かが「美人」かどうかは、社会の多数決で決まるように思います。 ◇とありますように、 幸せの判断基準を多数決などによって規定するのであれば、 その判断基準によって幸せであるかどうか判定はできます。 ただ、そうした幸せの判断基準を満たすものに対して、ヒトは主観として幸せと感じるかどうかは疑わしいですが・・・。 ☆そうなると、ある人を「幸福」であるとする究極的な基準は存在しないのでしょうか? ◇ないんじゃないですか。 あると考えるから、おかしなことになってしまうのでは。 ですが、 幸福になるため、幸福であるための、必要条件くらいは存在するかもしれません。 いつもお腹を空かせていたら、ヒトは、今の状況を幸せとは感じないでしょうから。 ☆幸福であることの基準に、自己決定と周囲の決定以外に、幸福であることを決める要素がありうるのか?が質問です。 ◇個々人の主観を離れた、客観としての幸福があるかどうか、そのようなものを考えうることができるかどうか、です。 この答えは質問者さん自身が見つけ出すべきものだ、と思います。 宗教でいう、揺るがない絶対的な幸せなんか、この候補になるかもしれませんが・・・。

回答No.8

 こんにちは。  ★(趣旨説明欄) 質問が明確でなくすみません。   ☆ とすでにおっしゃっていますが 議論をすすめて回答するには 前提がまだあいまいであると考えます。  ★ (同上) ~~~~~~~~~~~~~~~  (あ) ”・・・交通事故で脳を損傷し幼児化してしまったが、そのことで本人は毎日そして生涯、楽しい人生を送ることができようになった。  (い) 周囲は同情的な目で見ているが、彼は幸福だと言えるのかどうか?”  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《楽しい》と《幸福》とを判定するとき 誰がそうするのか なおまだはっきりしないと思います。  (い)は 回答を寄せるわれわれがそれぞれ どう判断するのかを問うていることは 明確です。  ですが そのときすでに (あ)では 《本人は・・・楽しい》というひとつの判断が示されており 言わばそれを踏まえて判断して欲しいという条件規定になっているかに思われます。    ★ もし自分の幸福は自分自身に決定権があれば、特に問題はないですし、  ☆ ならば わざわざ第三者に判定を尋ねることもないはずです。    つまり  ★ 今質問しようとしている疑問も成立しないのですが、  ☆ である。そして ですが  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (う) 上記のような問題設定で、事故した彼が幸福だとは思えないとした場合、  (え) 他者と自分の相互性に基づく客観性を受け入れるなら、  (お) 自分の人生をどれだけ生涯幸せだと感じていたとしても、実はそうではない可能性があるということになると思います。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ちょっと込み入って来ています。  (か) この(う)の規定も 条件づけとしては すでに質問者による判断が入っているかに見えます。たぶん 条件づけには適さない内容がふくまれていると考えられます。  (き) あらためて 幸福の決定権が 自分自身にあれば 話は成り立たない。と確認しうる。    (く) そして しかもその決定権が自分自身になくても その人が 自分の幸福度を測り決めるということはあり得ます。他人がどう言おうがです。99対1の 1であったとしても 結着はつかないはずです。  (け) この場合(え)の条件づけは どうでしょう? この(え)の規定内容は すでにそのまま(お)の内容を確かにみちびきます。自動的にそうです。  (こ) だったら この(え)の命題をこそ まづ問うべきではないでしょうか。ひとは おのれの存在についての判断を 自分ひとりでは決められるのか。決められないのか?   (さ) つまりは 人間の社会的な共生という状態は その関係性が いったいどこまでひとりの個人の自己認識や自己の意志決定を左右するのか?   そこで このように考えてきたならば  ★ 幸福であることの基準に、自己決定と周囲の決定以外に、幸福であることを決める要素がありうるのか? が質問です。  ☆ というふうに問うときにも おそらく主題が《幸福》に限らず 一般的な事柄にかんする見解――たとえば《赤い色や美人》の判定についてなど――をも問題にしていると考えられて来ます。  けっきょく要は 自由意志の有効度を問うていると言えるでしょうか。  おのれの意志による自由な選択・判断は あらゆるものごとについて その正否や当否を問わず 有効である。こう基本的に考えられます。  そのわが判断が 社会的に非力であって無力なままに終わったとしても 意志自由は どこまでも有効です。  むろんマチガイであった場合もあるのですが 一般に妥当性を持ってただしいと共同に判断された場合にも 社会的に有力になるか無力に終わるかは いづれもあり得ます。決まっていません。――それでも その自由な意志決定は つねに有効です。  (そのように有効性を持つ自由意志を・つまり相手のそれをもし踏みにじるのであれば それは 自由意志じたいをないがしろにするわけですから その時点で 無効になります)。  赤い色についても美人についても 自由意志による判断は うえの一般的な見解内容が当てはまると考えます。

回答No.7

物体に特定の志向性はなく、その事は現象的に、エントロピー増大 (ランダムになっていく)という志向性を意味し、またそれは淘汰として 進化につながり、生きようとする意志(反エントロピー=エントロピー 増大に抵抗する)を導きます。 人は、「遺伝子の変異と淘汰による進化」という時間のかかる方法 から、脳を発達させて、「五感の相関した刺激の蓄積による脳内に 環境を再構成し、そこでの予測や仮説に基づいて、遺伝子の変化 によらず生後の刺激によって環境の変化に適応する」という方法を とる事で、意識とそこにおける意思、その達成の認識としての充足感 (幸福)は生じたのです。 その充足感の大小を決定する要因は、一般に考えられているような 目的の達成度だけでなく、認識の深さと意思の強さも重要です。 たとえば自販機が「ありがとうございました」と言ったところで、それは 機械的な反射であり、本当に喜んでいると思う人はいません。 その延長上に、同じ人間でも、環境認識の深さによって充足の量が 違ってくるのです。 先述の充足量を構成する関数のうち、「達成度の認識」は認識の 深さそのものですが、「意思の強さ」も、そのベクトルが描かれる座標 は環境認識であり、残った「目的の達成度」も、短絡的な衝動を そのまま発露しては、実行において環境認識の低さによって阻害され、 あるいは自分自身に継続性おいても複数の衝動の矛盾により減量 されるので、これにも認識の深まりがプラスの作用をします。

回答No.6

>何が幸福であることを決めるのか?  あなたですよ。

回答No.5

>ある人を「幸福」であるとする究極的な基準は存在しないのでしょうか? 存在しません。 幸福か否かの判断は主観です。 >幸福であることの基準に、自己決定と周囲の決定以外に、幸福であることを決める要素がありうるのか? 統計的に主要なる要素を抽出することは可能ですが、定義として、幸福であることを決める要素は未定と言わなくてはなりまません。 餓えた狼の幸福もあれば、満腹の奴隷の幸福もあり得るのです。

回答No.4

こんにちは。 幸福とは(1)主観として「いかに納得できているか」(2)客観として「いかに社会の常識の中で恵まれているか」以外に(3)普遍性として「進化の過程でハードウェア的に構築されてきた幸福の感覚」というものがあると思います。そして(1)(2)の幸福がこじつけでなければ(3)の幸福に含まれるものだと私は考えています。

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