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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:「ほんとうの意味」において人間が評価されるとき)

人間の評価の真の意味とは?

noname#191700の回答

noname#191700
noname#191700
回答No.10

こんにちは。 補足をありがとう、回答1です。 どうしてもパートナーの話にしたいようですね。 つまり、このご質問の本質は「恋愛」についてであると。 質問意図を理解できず申し訳ないです。 質問者様は相当に賢いお方で、僕のような下賎の者が意見するのは心苦しいですが お話の段取りとして、まずはお読みください。 そもそも生物は自分自身の複製を作れるから生物であって 人間のような雌雄がある生物の場合は、パートーナーを得る事が その人生の中で相当なウエィトを占める事になるのは当然です。 よって、パートナーの獲得が最優先であるし、高い価値ある話であると思います。 そして本当に最も価値ある存在は、パートナーとの交配の結果である自身の子供。 これは生き物共通の話ですよね? 子を守るために身を挺して行動するのは動物共通の行為ですし これに勝る愛情は無いと断言できるんじゃないかと思います。 そして、そこに評価がある・・・と質問者様のお考えかと思います。 ただ、「人間」と断りを入れた場合にはどうなんでしょうか? 社会性のある生き物ですから個体だけの幸福に依存せずとも、 社会全般の幸せのために行動する事で自身も満足を得る事もできる。 自分のパートナーや子供を守るのはある意味当然なんですが、 そうではない、たとえば仲間や集団や国家のために尽くす事は 生き物としての限界を超えたものだと思いますし それこそが「人間として評価される」ものと思うのです。 質問者様のご質問に戻ります。 研究をされているそうですが、正直に申し上げると そのような部門の方々は一般世間から浮いてしまっていると思います。 仕事柄、いろんな職業の人と接しますが教育関連の人や一般企業でも研究部門の方は 少しズレていると言わざるを得ません。 しかしそれは、マイナスなイメージだけではないです。 「近寄りがたいイメージ」ですがそれはアプローチがし難いって事だと思います。 普通のOLとかは、普通のサラリーマンと同じ境遇ですから共通の話題もある。 でも専門分野に特化したお相手の場合、アプローチする側も相応の知識が必要で しかも積極的なアプローチができる人間でないとならない。 先生のような相手でも上手く立てて、 その特徴を伸ばしていけるような存在が 質問者様にとって必要なパートナーだとは思います。 そのような相手は必ずどこかにいるとも思いますが、 かなりレベルの高い存在であると言わざるを得ないですね。 僕は残念ながらそのようなハイレベルな存在ではないですが 先生みたいなパートナーって面白いと思います。 気を緩める時間もなさそうですけど、常に前向きに考え行動する様は 互いに相手を高めようとする行動にもつながり とても良いカップルに発展するのではないかと思うと 非常に興味はありますね。 質問者様のメガネには適わなくてもそのように思っている人種もいるので 自虐的な考えはぜひ止めて欲しいです。 生きる行為は、ある年齢を過ぎると錆びてゆくだけになりますが 質問者様の研究の成果などはそうはならない。 頑張った成果は皆に引き継がれて磨かれ続けるわけだし そう考えると醜いなんて思う事ないだろうと考えます。 質問者様はとても魅力的な存在だと思うし、 これからもそうであって欲しいです。

noname#189117
質問者

お礼

・勉強とか,研究というものは,他利自得のような特徴がみられることがあります。べつに,権威のためとか,お金のためうんぬん,ではありません。わたし自身,仕事をしてお金をいただきますが,そういったお金は勉強のためのものであり,服を買ったり,美味しいものを食べるためのものではありません。そういった点の「ちがい」が,きっと,「ずれている人」とされる,ひとつの根拠になるのかもしれません。 ・その一方で,勉強は大切だと,どんなことがあっても大切であると,そう思うのです。アメリカに住んでいたことがありますが,人々が感謝際の日にテレビでスポーツを観戦することに,疑問をいだきました。収穫やら過去の歴史に感謝するのが感謝際でしょう。ただ単にターキーを食べ,アメフトの試合を観る。そうじゃないでしょう。でも,そういった現実の背景には,勉強させない,などという「意図」があるのです。テレビ番組であれば,ドキュメンタリーだとか,討論ショーではなく,ソープ・オペラ,バラエティ・ショー,何かしらの「お色気」系のほうが,お国としては都合がよい,というわけです。社会の誰もが政治や経済に関心を持ってしまうと,お国としては都合が悪い,ということ。誰のための「お国」なのか…。 ・「近づきがたい」という指摘は,真摯に受け止めています。確かに,そのような印象はあると思います。でも,わたしも,ひとりの人間。べつに,特別な存在ではありません。それに,ここでいう勉強とは,努力の積み重ねであり,才能やら,天賦の適正,などというものが要求されるフィールドではありません。そういったことが指摘されるものですから,努力することそのものが,まるで天賦の才のように扱われていると思います。努力することも,生まれつきのものであれば,それはそれは,悲しいことです。 ・わたしも,ひとりの人間ですから。ユーモアとかも,理解しているわけで,決して,いわゆるコミュ障のような存在,というわけではありません。相手の気持ちを察することもできますし,ちょっとした演出も,できるわけで。ただ,勉強をしているということが,レッテルのようなものになってしまうことには,納得がいきません。勉強をしようが,勉強をしまいが,それが安易な人物評価につながってはならないと思います。 ・モテ,非モテということからわかることは,悲しいかな,「うわべ」だけで人間を評価する人間がいることの証左ではないでしょうか? 口では人間は中身が勝負!,といいながらも,ほんとうは,イケメンに限る,美女に限る,というのがホンネなのです。モテ,非モテということから垣間見れるものは,「生き難い社会」を映す鏡,ということではないでしょうか? わたしは日本社会で生活をしていますが,日本社会にいる人々は,ほんとうにかわいそうな人々だと思うことがあります。 ・また,パートナーができたからといって,性行為ばかりを要求するつもりも,ありません。そんなのウソだと言われるかもしれませんが,もちろん,Hなことにも興味がありますが,それ以上に,パートナーと旅行をしたい,一緒に買い物をしたい,1日じゅう手をつないでいたい,ずっとパートナーの笑顔を見ていたい,そして,これは空想ではありますが,もしも強力な接着剤でふたりがくっついていて,離れることができなかったら,どのような「日常生活」が待ち受けているのか…,ということを考えています。

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