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漱石は『虞美人草』を嫌っていたのか

ghostbusterの回答

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回答No.6

☆内田百閒と漱石について 漱石が数多くの門下生を育てたことは、質問者さんもすでにご存じのことと思います。 しかも、門下生のひとつの大きな特徴として、大家の取り巻きではなく、それぞれに人並み優れた個性と才能のもちぬしでした。 門下生筆頭とされる小宮豊隆はこう書いています。 「漱石は人を刺激する事にも妙を得てゐれば、人から刺激を受ける事にも妙を得てゐた。是は漱石の頭脳が明敏で、相手の持つてゐる本質的な良いものを直ちに発見して、それが展開し得る可能性を尊敬する事が出来たせゐでもあるが、同時に漱石の頭が創造的で、他人の中の創造的な機能を活発に運転させるとともに、自分自身の創造への大きな刺激を受け取つた」(『夏目漱石』上 小宮豊隆 岩波文庫) 小宮らがそうした教師としての漱石に出会い、親炙したのに対して、岡山の中学時代、漱石の【ヨウ】虚集に心酔し、その作品を通して漱石に導かれていきます。 やがて習作の『老猫』を漱石に送り、 「筆ツキ真面目にて何の衒ふ所なくよろしく候」(明治四十二年八月二十四日付書簡) と返事をもらい、その二年後、長与胃腸病院に入院する漱石に初めて対面します。 大正二年から五年にかけて、百閒は漱石の著作の校正を任されます。 百閒の経済的困窮に対する漱石の配慮でもあったのですが、百閒はその期待に十分応える仕事をする。 漱石の死後、全集編纂の際には、校正の担当者として、『漱石校正文法』を体系化し、漱石の用語法・かなおくり法に法則を導入するのです。 同年代の芥川龍之介や久米正雄らは、ある意味で、漱石を足がかりとして、文壇へ出ていきます。そうした彼らが脚光を浴びる傍らで、黙々と漱石の校正をしていたのが百閒でした。 「百閒が漱石著作について行なったような校正ということ、即ち漱石の全作品の味読と、発想法や文体の根本的理解に立ってその用語用字をたどり、漱石の冒した無意識の誤りを看過せず漱石の発想法にまで立ち戻ってこれを改めるという風な校正に、長年の間携わるということは、あたかも書道を学ぶ人が、古い手本を敷き写しにしてその筆勢をおのずと我身につけると同様に、漱石の文章に備わる「筆勢」即ち文体や発想法を自然に身につけることを結果したに相違ありません」(『内田百閒―『冥土』の周辺 内田道雄 翰林書房) 同書からの孫引きになるのですが、雑誌『新潮』昭和26年6月号に、こんな座談会の記録が紹介されています。   安倍 内田さん何かありませんか。たとへば夏目さんをどういふ人とあなたは見てをられるか……。   内田 どういふふうな人つて、私なんかには絶対的なものですね。   小宮 内田君はその点は実に純粋だ。無条件に先生を崇拝してゐる。   内田 どうも、批判も何もありませんね。   小宮 それに較べると、僕なんかは生意気で不順で、悪いことした気がする。   安倍 君の態度だつて純粋だよ。   内田 僕なぞは口もきけなかつたやうなところがありますね。小宮さんなんか、先生と対話ができましたからね……。(笑) この中に、座談会のような席上で、漱石のことをあれこれ語りたくない、という百閒の拒否感が、それとなくうかがえるような気がします。それくらい、百閒にとって漱石は「絶対的」な人だった。 質問者さんがあげられた百閒から見るところの『虞美人草』の問題点を、いちいち論評できるほど、私は百閒についても漱石や『虞美人草』についても、詳しいわけではありません。 ただ百閒と漱石の関係をこうやって見ていくならば、それは、漱石の発想から誰よりも詳しい人間がする批判、むしろ、後年の漱石自身の問題意識に限りなく近いものとして見ることができるのではないか、と思うのです。 そうした上で、再度質問者さんが『虞美人草』をお読みになり、考えていただければよいのではないか、百閒が投げかけた問題点は、そうしたものとしてあるのではないか、と思います。 以上、大変に長くなりました。 最後までおつきあいくださってどうもありがとうございます。 分かりにくい点、さらに詳しく知りたい部分などありましたら、補足要求お願いいたします。 なお、私自身は、一応文学研究の端くれに身を置こうとするものではありますが、漱石や日本文学の専門家でも何でもありません。 ただ、興味を持つ一般人であること、ある程度、文献には当たっていますが、正確さに関しては必ずしも保証の限りではないことをご理解ください。

noname#9152
質問者

お礼

素晴らしい回答をいただき、ありがとうございます。 おかげでこの作品の持つ特異性がよく分かりました。残るは百閒の提示した問題ですが、これについては、回答者さんのお言葉通り、自分で考えたいと思います。虞美人草をさらに読み、そして、漱石の跡を辿ることによって。 推測ですが、回答者さんは、読みの浅い私、これから漱石の跡を辿っていこうとしている私が、回答者さんの考えや既成の研究に引きずられすぎないようにと考え、どこまで書けばいいのかということに腐心されたのではないでしょうか。そうだとすると、配慮、まことにうれしく思います。 補足要求はしようと思えばいくらでもできるのですが(笑)、それは、回答者さんに迷惑であるばかりでなく、自分のためにもならないと思います。ただ、ご回答を十分に咀嚼しきれていない面もあるので、補足要求するかどうか、もう少し猶予をいただけますでしょうか。 というわけで、この質問はもう暫く開けておきます。その間、何かありましたら、他の方でも遠慮なくいらっしゃってください。(#5さん、再読が終わったら一言いかがですか) 回答者様には本当にありがとうございました。

noname#9152
質問者

補足

二回目の回答にある、八犬伝が出てくるあたり、どこかで聞き覚えがあったのですが、思い出しました。新潮文庫の「坊っちゃん」にある、江藤淳の解説「漱石の文学」で読んだことがありました。そして、今回あらためて読み直してみると、これがなかなか良く、自分の求めているものに合っていることに気付いたので(遅すぎますか)、漱石作品と平行して、「漱石とその時代」を読んでいこうと思います。 というわけで、結局、補足要求はいたしません。 それにしても、この度は本当にありがとうございました。 おかげで、この作品が抱える問題点がいろいろとわかりました。しかし、漱石がなんと言おうと、百閒がなんと言おうと、私は虞美人草を嫌いになれません。この小説は魅力に溢れています。 春はものの句になりやすき京の町を、…… ……爪上りなる向うから大原女が来る。牛が来る。京の春は牛の尿(いばり)の尽きざるほどに、長くかつ静かである。 という陶然とするしかないような文章だけでなく。(←この言葉、使わせてください!)

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